88.足手まとい
くすんで殺風景な客室に浮かび止まる血痕。
その色と同じくらい狂人の形相も赤黒く、それでいてその歯の白さが際立ち、浮いている。
顔面を思い切り殴ったのに、全然余裕そうだ。むしろもっと殴ってくれという顔つきに見える。気持ち悪い。
「どうした、俺様を倒すんじゃないのか? さっきと同じように殴ってやると言う意味だろ?」
「俺は馬鹿じゃない。返り討ちにされるために攻撃はしない」
ミアを抱えたままでは戦いにくい。こっちには武器もない――いや、一つだけあるか。
どちらにしてもこんな狭い空間じゃ分が悪い。ここは非難するしか――――!?
「ほら!」
鈍重な拳が腹部を抉り上げ、俺は床へ激突した。
身体が破裂しそうだった。こんなの何発ももらえない。
「らららら?」
狂人は目をむき出しにして俺を見上げている。
とにかくここはひとまず逃げる。床近くにいるせいで部屋の扉は遠い。
でも移動はできる。床を蹴って――――狂人がいない?
「ほらほら!」
「なっ!?」
声は真後ろだった。俺は殴り飛ばされ、今度は天井に叩きつけられた。
一体どうしてだ。この止まった空間の中で、あんなに速く動けるわけがない。宙に浮いている限りは身動きが取れないはずだ。何かまだ隠しているのか?
「ららっらっら~!!」
瞬きはしていない。なのになぜか奴は俺の目の前に瞬間移動した。しかもすでに蹴りが飛んできている――こいつ、ミアもろとも蹴る気かよ。イカれてる。
「くっそ!」
体の向きを変えて蹴りを背中で受け、そのまま俺はぶっ飛ばされた。
かなりのスピードで真っすぐ宙を飛んでいく。
ただ幸いだろうか。その方向は偶然にも部屋の扉のほうだった。
クッションにもならない扉に顔を強打しながら、俺は廊下の窓にぶつかった。
「痛……」
奴はまだ部屋の中。今のうちに他の場所へ移動だ。
俺は壁に足をつけ、屈んだ。
「遅い、遅い」
その声はすぐ右からだった。
俺は振り向いた――――傷が増えているだと。まさかこいつは。
「へいへい!」
拳が横腹をめり込んだ。何か刃物で刺されたような痛みだ。
廊下を真っすぐ飛んでいく。何本も移動する松明も重なったり、分かれたりして見えるほどに速い。
壁に体は打ちつけられた。止まったはずなのにまだ松明が増えて見える。さすがにこれ以上喰らえない。間違いなく気絶する。
「ああ?」
だんだんと大きく見えてくる狂人。向こうから飛んできている。それも凄まじい速さだ。
でもその分、やっぱりその体に相応の大傷ができている。
本当に狂ってる――――自分を殴って、加速しようだなんて。
「体力勝負と行こうか!」
「そんなのするわけないだろ!」
俺はすぐに横の壁を蹴って、廊下を飛んだ。
痛い――ダメージのせいであまり強く蹴れなかった。ただ避けられる。それだけでいい。
奴はあの速さのまま、壁に激突するはずだ。かなりの負傷を負うはず。
「いででで!」
狂人の仰々しい声が奥から響き渡ってくる。
あのふざけた感じはあまりダメージを受けていないようだ。
今の間にどこか休めるところに。策を考える必要がある。
「あれは?」
階段だ。二階への階段だ。
俺はその階段をのぼっていった。
かなり長いカーテン外の景色を隠している。
とても真っすぐな廊下だ。
この二階の廊下は一階への階段へ一直線のようだ。向こうに階段がある。
これなら戦わずとも一階まで上がって、ブレイブと合流できるかもしれない。
ミアを助けることが目的だったんだ。あの狂人にやり返してやりたいけど、それでいい。廊下を駆け抜けよう。
「……そう簡単にはいかないか」
「おお、勘が良くなったみたいだね」
後ろを振り向く。ぷかぷかと浮かんで歯をむき出して笑う狂人がいる。
その身体はさっきよりもボロボロで、血塗れだ。
「君はこの止まった空間をどう思う? 僕はね、美しいと思っているよ。劣等人種の喧しさが消えるからね。それにほら、周りの景色も自由に弄れる」
上に敷かれているカーペットを指さす狂人。
「これだけの力、何もかもを完全に支配できる力なんだ。そう、そうだと思い込んでいた――――君が、転生者がいることを知るまで」
俺はミアをおんぶして抱え直した。
「非転生者の時間を止めることができる。逆に言えば、転生者は僕と同じように動ける。そう、僕と同じように能力を持つ奴らは動けるんだ――――ああ、煩わしい!」
俺は魔法のポーチから古い剣を取り出した。
「あいつらがいなければ、僕に敵はなかった! 誰も僕を止められる奴はいなかった! なのになんだよ、奴らはこの空間で動いて、僕を木端みじんにできる! これじゃ僕は――――劣等人種と同じではないか! ふざけやがって!」
耳を塞ぎたくなるくらい喧しい狂人は、血走った目をこちらに向けている。
「だからこそ僕は嬉しかった。君と会えたことが! 僕と同じ、この空間では何もできない、劣等人種と同じになってしまう君と出会えたことが!」
「俺はお前と同じじゃない。今から証明してやるよ!」
重たい剣を奴のイカれた顔面へ振るう。
しかし奴はぶつかる前に自身の顔面を叩き、俺の攻撃を躱した。
さらに俺は攻撃しようと距離を詰めたが、奴は素早く蹴り回して、間合いを取った。
「わかってないな! どんなに頑張ったってできないことはある」
あれ、消えた。どこにいった?
「――――ここだ。暗殺者を目の前にして、瞬きをするものじゃないよ?」
耳元から囁く声。真後ろか!
剣を振り回し、奴を遠ざけた。
「今のだってそうだ。こんなことは君にはきっとできやしない。俺様が多くの転生者に敗北するのと同じように」
さっきから何言ってるんだ。
今の動き、俺が瞬きしている間に背後に移動したのか。
「そして、君が僕に勝てないのと同じように!」
「!?」
狂人は何発も拳を振るう。俺はそれを剣の身で受けるが、その威力はだんだん強くなっていて、このままじゃ剣が折れる。
「力んでいるぞ! ド素人!」
「っぐ!」
強烈な拳の一撃に俺は大きく吹き飛ばされた。剣にぶつかっていたのに、痛すぎる。体中の骨が砕けそうだ。
「まだ!」
体の向きを変え、足を壁につけ、衝撃を溜め込む。そのまま俺は剣を構え、奴のほうへ飛び掛かった。
「ああ、そんなんじゃダメだよ。まったくなってない!」
すらりと剣は避けられ、わき腹から回し蹴りをもらって大きく飛ばされた。
息ができない。完全にあばらがやられた。
「でもこれは――――計算通り!」
「は?」
飛ばされた方向は一階への階段。
しかも凄まじい速さで動いているから奴は追いつけない。
「っう!」
左腕を伸ばし縮めて少し衝撃を吸収。さらなる深手を負わない代わりに左腕はダメになった。深手追ってんじゃねえかよ。致命傷ではないけど。
「よし……」
奴の姿は遠い。間に合う。
俺は階段をのぼっていく。地面を回って、上を向いて階段を確認し、上へ飛んだ。
そして一階の天井に手を伸ば――――なんだ?
「お、重い?」
おかしい―――――背中が重い気がする。
いや、重い。背中が反れそうになるくらいに重い。
「嘘だろ、なんでだよ!」
ミアに体重があるのか? さっきまでなかったのに。
それにこれは――――落ちていっている。だんだんと下に引っ張られている。
「っう!」
あと少しで一階にたどり着けるというのに、引っ張られる。
俺は必死に手を伸ばすが、一階の天井は届かない。
「ヤバい。奴が!」
だんだんと近づいてきている。
追いつかれたら終わりだ。どうにかして一階に――――くそ、ダメだ。手を伸ばすだけじゃ。
「なんでミアが重くなってんだよ! なんでだよ!」
それにミアの組んだ腕が首に引っかかって苦しいし、重さのせいか余計に体中の傷が痛んでくるし。
「まさしく足手まといだな~?」
笑い声が大きくなってきている。
喧しすぎる。ミアが足手まといだと? 確かにミアは災難を運んできてばかりだけど、この傷を治せるのはミアしかいない――――その傷を負うのもミアのせいだったりもするけど!
「でも俺はミアが足手まといなんて思ったことはない!」
その言葉と共に俺はミアを突き放し、壁を蹴って一階の天井へ上った――――その後で落下していくミアを右手で掴んで、天井へ上げた。
「きっつ!」
片腕無くなってるの忘れてた。
さすがに重くなったミアを片手で持ち上げるのはしんどかった……いつもよりは軽いから助かった。
「さて、出口はどこだ?」
ミアをおんぶして俺は走る。広い広いロビーへ向かって。
次回で終わるかな?




