87.計れない重さ、歪むことのない時間
鉄棒にぶら下がっているようだ。
廊下に立てかけられた松明の炎は下へ静かに凍り、並んだ扉は天窓くらいに手が届かない、狭苦しい窓縁の飾りも向きを変えて小さく見える。
外に映える暗い海は磁石のように天へくっ付き、優雅にも鳥は地に捕らえられて飛び方を忘れていた。
「ひっくり返っているのか?」
屋敷の廊下の床は真っ逆さまになっていた。
その冷たい床は頭を触って冷たさを感じさせている。俺は床擦れ擦れのところに浮いているみたいだ。
「……」
ミアが軽くなったし、いびきも止まっている。
この感じは――。
「い、いや、そんなわけないだろ」
四角い暗闇の奥、隠し通路のその奥に、俺は狂人をたった今置き去りにした。
あの通路はかなり長い。こんなすぐ、俺に追いつけるわけがない。
でもこの感覚は間違いなく――狂人の能力だ。
「そ、そんなわけ……」
転生者以外の時間が止まっている。それだけじゃなく、世界そのものがひっくり返っている。
狂人は俺を狙っている。あの気味の悪い顔が近づいている。
呼吸が整わない。
あの顔を思い出しただけで震えが、寒気がして縮こまらないでいられない――――逃げないと。
「ま、窓だ!」
窓を割って外に出れば助かるかもしれない。
俺は拳を握り、窓を何度も殴った。だが全く割れない。
「だ、だったら!」
魔法のポーチに手を入れ、そこから小槍を取り出そうとした。でもそこに入っていたのは、壊れた剣だけだった。
震える手はすぐに剣を取り出そうとした――――出せなかった。
逃げるためにこの剣を使いたくない。
「――!?…………なんだこれ?」
少し粘り気のある透明な粒が目の前に浮いている。ほのかに温かいような――――涎か。
ミアの涎か。ちょうど寝顔に涎がだらだらと垂れている。
本当に呑気だ。
「はぁ……とにかく下まで降りるしかないか」
外に出て味方のところまで行く。同じ転生者ならブレイブがいる。ブレイブならあの狂人も倒せるはずだ。
「よし、行こう」
俺はミアを抱えたまま、天井を擦って廊下を泳いでいった。
何回も通った道も逆立ちするだけで、まったく別の景色だったから、少し迷ったが。
「はぁ……やっと階段まで着いた」
手を使って浮いていただけだが、割と疲れた。
廊下は長いし、ミアは寝たままだし、周りの景色も退屈だし。
ただ狂人もここまで来ていない。まったくいる様子もないし、やっぱりこれは足搔きだったんだろう。
「さて」
階段は逆さまで、天井に段差ができているという感じだ。
下まで降りるしかないとは言ったけど、逆さまなら上に行くことになるのか。変な感じだ。
これはまた大変だ。
「頑張るか……いや、そうか」
俺は天井になった床を蹴って、床になった天井の近くに止まり、上になった下を見上げ?ながら階段を回り、また地を蹴って、三階へ上がった。
「やっぱりなんか、変な感覚だな」
この屋敷の階段はそれぞれ別のところにあるだろう。
また廊下を泳いで行かないと次の階には行けないという事だ。
面倒な構造だ。こんなの暮らしにくいだろ。
「そうだなぁ~逃げるのには大変だろうねぇ~」
「!?」
後ろから耳へ囁く声――俺はすぐに振り返った。
だかそこにはだれもいない。
「な、なんだ、気にせいか――――!?」
安心して前を向くと気味悪く笑う顔が眼前にあった。
俺は反射的にその顔を殴ろうとしたが、拳は空振った。
「違ったね~」
狂人は笑ったまま、宙をプカプカと浮き、さらに笑った。
静寂とした廊下に不整な笑い声が駆け回っている。
「な、なんでだ」
おかしい。本当に狂人が追いついてきたのか。
あまりにも速すぎる。まだこのひっくり返ってから数分しか経っていない。
そんな馬鹿なことがあるわけがない。
「なんで? なんでだって? どうして? 信じられないかな~? ワタクシは偽物ではありませんよ?」
耳に鳴り響く笑い声。目から消えない気味悪い顔。
ありえない。ありえるわけがない。
「お子様、目が泳いでますよ? 大丈夫ですか~?」
ナイフを指で回しながら口を塞ぎ、心配するような表情の狂人。目は笑ったままだ。
脳をいじられたみたい。頭が震える。ダメだ。わからない。意味が分からない。
「あれれれ~? あっひひひひひひひ! 楽しいねぇ~?」
逃げないと。逃げないとダメだ。
そうだ。逃げるんだ。
「!」
「あれれれららら~?」
俺はミアを抱えたまま、すぐ横の道へ蹴り出した。
逃げる。そうだ、逃げるしかない。
「待てよ待てよ~」
こっちに来ている。
俺は振り返ることなく急いで逃げる。
「はぁ……はぁ……」
汗が額からだんだん出ていく。
天井を引っ搔いて前に進む。
「はぁ…はぁ…」
汗が頬からゆっくり伝っていく。
何度も何度も引っ掻いて、速く、速く。
「はぁっ…はぁっ…」
汗が顎へ降りていく。
角を曲がって、もっと速く。速く。
「はぁはぁっ――!?」
「遅かったね~?」
汗は顎まで来て――――滴り落ちない。
ひっくり返されたこの屋敷の中、汗は身体にへばり付いて離れることはない。
「ちょっと黙っただけ、普通に真上を通ってたんだよ? 周りは見ないとダメだよぉ~? うひゃひゃ!」
「な、なんで?」
そんな馬鹿な。確かに笑い声は聞こえなかった。
なんで狂人が先回りしてるんだよ。どうなってるんだ。
「え~? 今言ったばっかりだぞぉ~?」
逃げないと。逃げないと。
「待ちなよ待ちなよ~ 無駄だって~ はぁ~」
俺はとにかく近くの部屋に飛び込んだ。
そこは真っ暗でなんだかわからない。
とにかく俺は隠れた。棚の中に。
「ふぅ~」
鍵穴の隙間から扉を蹴破る狂人が見える。
ギラギラした目つきで周りを見回している。
「ああ、寂しいものだな~。せっかく止まった時間、二人きりなのに」
満面の笑みだ。
バレるな。見つかるな。
「なぁ、少し話をしないかい。俺たちは同じ転生者だろ? ほら、出て来いよ~?」
気持ち悪い作り笑い。
あたりをキョロキョロと優しい目で。
「そんなに震えることはないだろ~? せっかくこの時を共有できる“仲間”なんだからさ~?」
……仲間。
「さて、どこかな~?」
暗闇の中、滞る息が霞んでいく。
見つかるな。見つかるな。
「あ~……バカバカしい! 見え見えなんだよ。気配もそこにしっかり二つある!」
こっちをじっと見ている。
顰めた顔で真っすぐこっちを。
「そんなに混乱して、わかってんだろ? もう逃げられないと。受け入れたらどうだ? このままだとお前は死ぬだけだぞ?」
ヤバい。逃げないと。逃げないと。
でもどこに。どこに逃げる。
「おいおい、震え過ぎだ。そんなに震えるなよ~」
顰め面は一瞬で微笑みに変わった。
わからない、息ができない、手が寒い、どうしよう、どうにかしないと、
「ほら、その娘を俺様に差し出せばいい。それだけだろう?」
僅かにも動ごかない狂人の指先は、激しく震える俺の胸元を向いている。
そこで静寂でいる小さい女の子を刺していた。
「ほらほら、もうやめろよ。たかが一人の子娘のために自分の命を無駄にするなんてな。お前は俺には勝てないんだからさ」
勝てない。俺は勝てない。
勝てない戦いは逃げるしかない。今までもそうしてきた。それで生き延びてきた。
でももう……逃げられない。
「さぁ、その娘をよこせよ」
抗ったところで殺される。ただ殺される。
この女の子を差し出せば俺は生き延びられる。
抵抗してもただ殺されるだけ。それなら――――。
「お? やっとその気になったか?」
俺は狂人のほうへ腕を伸ばす。
この女の子には悪いが、無残に殺されるくらいなら仕方のないことだ。
「……どうした?」
腕は止まった。その重さに伸びきれなかった。
女の子は安らかに眠っている。鼓動も熱も息もしない。止まった時間の中じゃ、寝ているのか死んでいるのかもわからない。
近くにいたからか顔も見えなかった。狂人のほうばかり向いていたからだろう。
ただそれでもその顔は見飽きていたから、俺にはわかってる。わかっていたはずだっただろ。
この女の子はミアだって。生きていることも。
「ああ」
とても軽い。なのにその寝顔を見た途端に、重く感じた。今までの時間、仲間と旅した日々があった――――目の前のほくそ笑みなんか忘れるくらいに。
震えは止んだ。呼吸は整った。
「おい、どうし――――ぶっ!?」
右拳は迷うことなく走り、そのふざけた顔面を大きく崩した。
その飛び散った血は床にも壁にも付くことはなく、ただ宙で止まっていた。
「なんだ、一発入ったぞ。倒せそうだな?」
「ガキが調子に乗りやがって……もう引き返せないぞ?」
「そんな不細工な顔で何言ってんだ?」
俺はもう死にたくなかった。そうだ。
奴みたいに死んでいたくなんてなかった。
はい。主人公が突然怖がってる。
ということになってしまったが……一応解決策はあった。しなかっただけで。
追い込まれて殺される寸前から怖がらせるという策だったんだけど、結構書いてから思いついたんでめんどくさくなってしませんでした。
でもそのおかげで文の表現は綺麗だったでしょ?
そういうことです。これはもう許すしかないね。うん。
あと一番最初のところとかも文学的表現?になっている。いろいろ表現してみました。
たまにはやってみてもいいのではとやってみたけど、主人公の像からズレてるね。これはもうやってると意識しながらやりました。




