73.ハエは嫌いだ
瞼が落ちそうになる暗がりの部屋。前脚で曲線を描く椅子、そこに座って本を読んでいた一人の男。蠟燭の明かりが分厚い学術書を照らして文字を浮かべる。
「渦の魔剣ボルティセ、その起源はやはり……あの少年は一体どこで発掘したんだ?」
部屋の四角い机には刀身に模様のある剣が静かに眠っていた。
「……む?」
炎が揺らぐ、また揺らぐ。そのたびに文章は途切れていく。
風一つない静寂の間にどうして蝋燭は反応するのか。
その疑問が頭の中を移し替えた途端、ついに蝋燭の炎は消えてしまった。
自然の摂理に矛盾する行為を目の当たりにして、男は難色を示した。
そうして唯一動いている振り子、古時計を見つめる。
やはりまだ夜明けではない。
なのに蝋燭が無くなっても本の中は明るいままだ。
「まぁ……いいか」
しかしやがて光は強くなり、学術書の文章が白紙に変わると男は耐えきれず本を閉じた。
そしてすぐに後ろを向く。カーテンを無視した眩い光が視界を照らしていた。
恐る恐るカーテンの隙間から外を眺めると、直視できない光が目を突き刺した。
「またか、また太陽か。それも今度はかなり巨大……!?」
大きな旗、無数の兵隊、ロアマトの聖騎士。それが屋敷へ行進していた。
目を疑って一度カーテンを閉め、またカーテンを開けた。
やはりこの屋敷に向かってきている。
「ふはは……はっはっは! 馬鹿げてるな! 一人の少女のために敵領地に軍隊を向かわせるとは、さすがロアマト信者!」
腹を抱えて笑う男。その間も自分を狙う軍勢は向かっていた。
まさに窮地、追い込まれている。そんなことよりも目の前に広がる歪な光景に感情的にならざるを終えなかった。
「ふぅ……さて、どうするかな。ありゃ?」
再び窓の向こうを見渡すと軍勢が向こうへ離れて行っている。
思わず二度見しても背を見せて退いていた。
それでも不思議だったので遠眼鏡で覗き込んだ男。
「なんなんだ、こんな奇妙な現象は初めてだ。もう少し見ていよ―ん?」
扉の向こうを見つめる男。
「誰か二人、屋敷に入ってきたみたいだが……どうでもいい。それよりもあの滑稽なロアマトの騎士たちだ!」
男は魔術師。その好奇心はどんなときも掻き消されることはなかった。
だから今回も同じく揺らぎはしない。ただ廊下を走り回っているシユウとロイバの存在を知っているくらいでは。
「やっば!」
「おい、なにしてんだよ!」
「まぁまぁ……」
屋敷の門を潜り、裏口に回ろうと俺が走り出そうとした前にロイバが。
相変わらずアホすぎるロイバが正面の扉を開けやがった。しかもそれだけじゃなく、扉の縁にある糸に突っかかって転びかけて。
「これ絶対罠だろ。どうするんだよ」
「まぁ……過ぎたこと言っても仕方ないよ。ほら、行くよ」
堂々と真正面から敵の屋敷へ入っていくロイバ。
もはやこっちの存在に気づいているだろうから仕方なく俺はその後をついていく。せっかく作戦立てたのに……。
「おーこれは広い、広いよー! やっほー!」
ロイバの声が何重にも響く屋敷の広間。
暗闇の中だからか警戒心からかロイバのうるささが際立って腹立つ。
「ロイバ、俺たちの目的はなんだ?」
「ん?」
広間のど真ん中で純粋な顔して手を広げるロイバ。
首を傾げながら馬鹿にした目つきのままこちらを覗き込む。
「そりゃあ、ミアちゃんを救出することだよね?」
「そうだ。そして俺もロイバも戦闘は得意じゃない」
「うん。だからミアちゃんをこっそりと連れ去ろうってことだよ。忘れたのかい?」
ロイバの煽りに怒鳴りたくなったが、それじゃ本末転倒だ。
俺まで敵にバレる行動してどうする……怒りを押さえろ。
「いいかい、この屋敷のどこかにミアちゃんはいます。僕らは敵に遭遇しないように隠れながらミアちゃんを探さないといけない。わかった? 一応確認してお―ぶっほ!?」
まぁ殴るのなら大丈夫だろう。
もはやこいつを瀕死にさせた方が安全ではないのか。その痛みで状況を確認させるべきだろう。
「よし、もう一発殴っておこう」
「ごめんごめん、ちょっとふざけただけだからさ」
「そうか。じゃあ俺もふざけておくか」
「ちょっと拳下ろしてよ。今の時代、暴力は良くないよ?」
中世の時代背景の異世界で何を言ってやがる。
理由によらなくても暴力が許される時代だろ。
「それは完全に偏見だよ」
「はぁ……もういい。さっさとミアを探すぞ」
「壁に沿って歩いて、何してるんだい?」
またしても広間のど真ん中から馬鹿にしたような視線を。
やっぱりロイバは海に置いて行くべきだったか。
「だから敵に見つかるかもしれないだろ」
「見つかるかもしれないって―もう見つかってるよ?」
「は?」
ブーン。煩わしさあふれるハエの羽音のような。
そんな何かの音が小さいでもだんだん……いや、なんか近づいて来てるぞ!
「おい、こっちになんか―」
「わかってるよ! こっちこっち!」
ロイバが手招きして近くの小さな扉の奥へ走り込んでいった。
だんだん大きくなって背中を震えさせる羽音。俺もその扉に駆け込んだ。
「ドア閉めて!」
「わかってるって!」
バタンと扉を閉め、鍵もかけた。
扉に耳を付ける必要もなく、大きな羽音が向こうで騒いでいる。
「うわ、すごいね」
「あ? なんだこれ?」
かなり広い図書室。向かいにある本の色も見えない。
左右前後見ても本棚。天井は程遠い。そこまでの壁に本棚が敷き詰められている。
どこを見ても本棚しかない。
「なんだろう、この本?」
巨大な本。本の上から下まで二十歩くらい。
かなり分厚いしボロボロだ。タイトルは……何語だこれ。
意味不明な本だ。
「……」
目を輝かせているロイバ。嫌な予感がする。
ロイバは地面を蹴って颯爽と本の角まで行って止まった。
「シユウ、そっち側持って―」
「嫌だ」
「返答はや! そんなこと言わずにさ?」
「ミアを助けに来たんだ。本なんて読んでいる暇ない」
「そんなぁ……たぶんこれってお宝だと思うんだけどね……」
遊んでいる場合じゃない。
こうやってモタモタしている間にも外で戦っているし、ミアが安全かもわからない。
「ロイバ、ミアがどこにいるのかわからないのか?」
「僕にはわからないね」
「役立たず……」
「え? 聞こえない」
「だから少しは真面目にや―!?」
羽音がどこからか近づいてくる。
もうここに隠れているのがバレたのか。
「上だよ! こっちだよ!」
本棚の後ろに隠れて息をひそめる。
周囲には耳を逆なでする気色悪い音が響く。
「ねぇ、あれって生き物なのかな?」
「おい、あんまり顔出すなよ」
「敵を知らないとどうしようもないよ?」
羽音に負けず劣らずの正論。ちょっとだけ本棚から羽音を覗く。
大きい目、青い球体、それが四つの羽にぶら下がっている。
宙を漂っては一気に動いたり止まったり、生き物みたいな感じはしない。
なのにギョロギョロと辺りを見回しているのが気色悪い。
「どうするか。まずは逃げないと」
あのハエにバレないようにここから離れることが最優先―は?
「どうしたんだい?」
「それはこっちのセリフだ!」
罪悪感なく幼児の眼差しで疑問を投げたロイバ。
その足元にはナイフで刺されたハエがいる。
「何勝手に倒してるんだよ」
「いやだってうるさいじゃん?」
ダメだコイツ。
壊れたハエから出る黒くて灰色の煙、その焦げた臭いが鼻を刺してくる。
「どうやらここしか扉はないよ。行こうか」
考えていないのか何なのかすぐに行動するロイバ。
いちいちツッコんでいてもしょうがない。
ロイバの後ろをまたついていく。
どこかで俺はロイバを信用していた。でもそれは間違いだった。
ロイバの判断はだいたいあっていた気がしたから、考えるのをやめてついて行ったせいだ。
この苛立って仕方ない沢山の羽音に追われているのは。
「くそ、こんなんだったらロイバを海に!」
「それ聞いたの三回目だよ! ここ曲がるよ!」
「誰がお前の言うことを聞くか!」
廊下の道は前と左。
こんな奴とはやってられない、俺は直進してやる。
「はぁ!? くそ!」
正面からもハエ共が無数に。
考えるまでもなく左へ曲がった。
「ほら言ったじゃん?」
ドヤ顔するな。
こうなったのはお前のせいだろ。
「フゥー!」
「うるせえ!」
「だってこんな長い廊下を走り回れることなんてなかなかないよ! 楽しいねー!」
「そんなこと言ってる場合か!」
後ろにある羽音の数が最初よりも格段に増えている。
たしか見つかったときは三体だった。いまじゃもう数えられない。
耳をちぎりたくなるほどに、うるさくなっている。
「このまま逃げていてもダメだ。どこか隠れる場所!」
「そんなのないよ」
「はぁ? それ探して走ってるんじゃないのかよ!」
「いや、そうだったんだけどさ……先回りされてるんだよね」
ただのハエじゃないってことか。
脳なしでもなく俺たちの逃げ場を防いで追いかけていたんだ。
なんかムカつくな。
「はい、ここ曲がるよ!」
「ああ、わかっ―!?」
「どうしたんだい?」
行き止まりじゃねえか。
それなのになんでさっきと同じ顔でこっちを向ける。
もう曲がっちまったからどうしようもないし、どうする。
「シユウ、行くよ!」
「は?」
なんか手掴んできた。
行くってどこにだよ。逝くってことか。
真正面を走ってるけど壁にぶつかるだけだぞ。
「―!?」
砕けた飴玉のように割れたガラスが空を舞う。
窓ガラス割って外に飛び出した―ってここ二階だぞ!
「よいしょっと!」
またガラスが割れ散る。
目玉に破片が刺さったかもしれない。今起こったことを理解できない。
「あぶなかったね」
「あ、ああ?」
窓から飛び降りたと思ったら、窓から飛び入った。
しかもここは最上階、四階だ。さっきよりも上に行ってる。
「さすがに撒いたみたいだね」
「そうみたいだな」
利口なハエ共でも今のトリックは見抜けない。
いや、信じたくないんだろう。こんな変人が存在することを。
俺も信じたくない。でもロイバのおかげで助かった。
あの無数のハエ共から逃げ切れた。
「もっと褒めるべきだよ?」
「そうだな……って追われたのもお前のせいだろ」
「そうだったっけ?」
なんかまた殴りたくなってきた、とぼけ顔。
だけど殴らないでやろう。プラスマイナスゼロだから。
「あ、そうだ。たぶんミアちゃんはこの階にいると思うよ。あの虫みたいのが―」
「三階への階段の前に沢山いたからだな」
「ハイ」
なんだかんだミアの居場所は絞れた。
だから今までのことは、この汗をなかったことにしよう。
「いくぞ」
「うん」
窓の外には戦っているソフィたちがいる。
とりあえずここまで俺とアホロイバは辿りつけた
「……??」
図書室でロイバが勝手にハエを倒してから数十分立っているのになんでだ。
なんでまだ焦げ臭さが鼻を刺してくる。
さっきまでの騒音が消えて蘇ったのか。
やっぱりハエは嫌いだ。
背中痛い。




