108.【東京編2】その知らない顔
隙間なく走っているいくつもの車、スマホを覗き込んで歩いている人々、眩しいビルの明かり、耳を塞ぐ言語は全部日本語だった。
「何が……起こったんだ?」
黄色い点字を踏み歩きながら何度も何度も辺りを見回した。これは幻覚なのか、敵の罠なんじゃないのか。身を守るために反射的にそうしていた。
しかし肌からだんだんと思い出していく、目を覚ましていく都市の冷たさが、これは本物だと、なんの意図もないと訴えてくる。
これも感覚で、せめぎ合う2つの本能が互いに否定をしあい、主張をしあって俺は現状が理解できなかった。
ただそれでパニックになっているわけではなく、頭は割と冷静だった。
とはいえまともに思考できず、むしろ思考が止まっているから静まっていた。
「まだ時間があるし、ここ行こうぜー!」
小学生のやわらかい声が目の前を遮った。クレーンゲームを元気に指さしていた。
一瞬、俺に声をかけたのかと錯覚したけど、近くにいるその子の友達のほうを向いていた。
子供たちは皆、リュックを背負っているし、手にはしおりを持っている。修学旅行生だろう。
「ダメだよ! 予定になかったじゃん!」
「うるさいなー、楽しまなきゃ損だろ! 嫌ならお前ひとりで行けよ!」
「東京タワーよりもゲーセンのほうが楽しいに決まってるだろ」
なんか言い争って半泣きになっている子もいる。でもそれもいい思い出になるのだろう。
修学旅行か。死んじゃったからいけなかったな――――って別に行きたくなんかなかったけど。
「あーなんか馬鹿馬鹿しくなってきた」
夢も醒めてきた。子供でさえ、こんなに楽しんでいるのに俺はずっと悩んでばかり。
だんだんとここが元の世界だって目が覚めてきた。ここが東京だって実感できている。
そう、ここは東京――――だったら遊んでやる。
俺は歩道を走り出した。隣に通るタクシーと競争しながら、スマホばっか見てる大人を躱しながら、たびたび見かける警察官から隠れながら。
ただ我武者羅に煌めく都会を走った。
「そうだった。お金なんて持ってなかった……」
とにかく走り回った結果、橋の手すりに顎を置いて静かに流れている川を眺めている。
「お金が無きゃ遊ぶことだってできない。そんなの当たり前だろ」
溜息を川にぶつけても波紋はもちろん立たない。これじゃ都会に来た意味が皆無だろ。なにすればいいんだよ。
「なあ、そこの君! こ、これを預かってくれ!」
向こうからパーカーの男の人が走ってきた。汗だくの顔を覗かせると、なんか小さい鞄を俺の胸に押し付けてきた。ものすごく必死な感じで、誰かから逃げているのか。
だけど遊ぶこともできず、さらに事件に巻き込まれるなんて嫌すぎる。
「あ、あの、結構で――――」
「頼んだぞ!」
俺が拒否する前に男は勝手に走り去ってしまった。
この鞄どうすればいいんだよ。その困惑を抱きながらも好奇心はすぐに中身を確認した。
中身は――――札束が沢山だった。
まさかあの男、強盗だったのか。だとしたら――――こんなもの持ってたら危ないに決まっている。どこかに捨てないと――――、
「ちょっと、そこの坊主!」
鞄を川に投げようとした手を太い怒鳴り声が止めた。
そこに立っていたのはスキンヘッド、サングラス、黒いスーツにガタイのある男だった。一言でいえばヤクザだ。
「おい! ここらへんでパーカーの野郎を見なかったか!」
「えっと、その人ならあっちに……」
「本当だろうな? まぁ行くしかないか――――って、待てこの野郎! 俺の札束返しやがれ!」
ヤクザは様子を見に来たパーカーを追って去ってしまった。
さっき“俺の札束”って言ってた。このお金ってあのヤクザの――――怖くなってきた。というか返せばよかった。
だけどこれだけの金があれば遊びまくれるよな――――いや、ダメだ。もしもバレたら絶対に殺され――――でも、今更死んだところで――――。
「よし、遊んでやる!」
覚悟を決めるまでもなく、俺は輝く都会の中へ再び飛び込んでいく。
まずはゲームセンター、それから居酒屋、あとは高級江戸前寿司だろ! 観光は明日だ。
いや、だったらまずはホテルか!
ヤクザの金を使いまくることへの罪悪感はもちろん、恐怖も浮かれていく気分にはついていけない。追いつく前に使い果たしてやる。
アフロのコンビニの定員。どこか馬鹿にした態度のこいつに俺は札束を叩きつけた。こっちは金持ちだということを知らしめてやろうと。
「あの、すいやせんけど、お金足りないっすね!」
「えっ……そんな馬鹿な!」
「8532円で~す、はい! 足りないっすね!」
まずゲーセンで10万使っただろ。その次に居酒屋で2万、寿司で50万、そしてホテルを400万で予約して、あとは指輪と時計で1200万円。残ったのは3000円だけだった。
いつの間にそんな――――、
仕方なく、俺は買えるだけ買ってコンビニを出た。あげから君を20個しか入っていないビニール袋を持って。
「あんなにお金あったのに、こんなすぐ無くなるのかよ。都会って怖いな……」
あれだけ金を使ったのに、実際に今あるのは貴金属だけ。ジュースも焼き鳥も寿司も、あげから君だって腹の中に消えるし、クレーンゲームの景品も子供に渡しちゃったしな、ホテルも今から寝れば終わり。
なんか使って気がしない。満足感が全く無いわけじゃないけれど、こんなもんなのか。
なんだよ、この時計。もっとあげから君を食べた方がマシだ。
「はぁ……」
なにが金だよ。遊んでやるって決めたのに、どこか遊び切れないし、というかまだなんか足りない。なんか心が埋まらない。
小さいあげから君を食べて歩いていく。いつの間にか寒く、暗いビルに囲まれた道に入っていた。
なんでホテルから遠いとこのコンビニまで来ちゃったんだろ。絶対にホテルの中にあるコンビニのほうが良かった。
「!?――――ってなんだ、猫か……」
静かに響く自分の足音。暗くて見えない道の先。冷たく吹く風。
軽くなった鞄。それに反して重すぎて痛む頭――――罪悪感ばかりになり、ヤクザが怖くなってきた。
辺りを警戒しては縮こまりながら、震えながらポツポツと歩いている。
もしもヤクザが襲ってきたらどうしよう。殺されるのかな。沈められるのかな。嫌だな、そんな死に方。
そもそもヤクザの金だし、たぶん犯罪で稼いだやつだし。どうしよう――――誰かに頼る? 誰に? 誰もいない。
なんで使い切ってからこんな怖くなってるんだよ。だったら最初からやめておけばよかっただろ。
てか普通に考えれば使っちゃいけない金だってわかるだろ。何やってるんだ。
だんだんと震えは呼吸を塞いでいく。冷えた体に不安に埋め尽くされた脳みそは正常に動かない。
どうしようかと考える冷静さはどこにもなくなって、だんだんと俺は明るさを求めるようになり走った。視界もぼやけて、耳も途切れ途切れで、心臓だけが激しくて。
怖いのは暗いから、寒いから――――誰か近くにいれば安心できる。それだけだった。
「なんだこの匂い……」
ほのかに色めくビルが並んでいる。まだちょっと暗いけど、割と人がいて息も落ち着いた。よかった。とにかく胸を抑え、深呼吸をする。ゆっくりと。
とにかく今は忘れよう。何かが起こったらその時だ。そうじゃないと正気を保てない。
視界も耳も回復して、予約したホテルの場所をスマホで調べる。マップを開いて、スワイプして――――ダブルタップしたタイミングに重なったヒールの音。マップには自分の周りにあるのがラブホテルだと示している。
「まじか、早くどっか行かないと」
なんか胸が痒くなってきて、俺はさっさとここを去りたくなった。その如何わしいピンク色から逃げるように早歩きして、ヒールの音を必死に消す。
「やっと出れる!」
2つの内、左の曲がり角。あそこを曲がればホテル街から出られるらしい。気持ち悪い親父と若い娘の歩く道からやっと出られる。
俺はその嫌悪感を込めた一歩一歩でアイツらを踏みつぶすように歩き、その左角を曲がろうとした、その右側――――知っている顔が知らない男と歩いていた。
凍ったように、あるいは壊れた機械のように足は止まった。目は離せず、けれども受け入れられず、その二人が寄り添ってホテル街の奥へ入っていくのが確かに映っていた。
「ソフィ?」
決して聞こえない声でその並んで小さくなった背中に呟いた。ソフィは気づくわけもなく、そもそも本物なのかと疑いたくなるほど、ソフィはその男へ嬉しそうに純粋に微笑んでいた。




