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〔1〕

 どこからか、風鈴の音が聞こえた。

 浅い眠りの中、薄い雲に閉ざされた意識を、澄んだ音色がナイフのように切り裂く。

 目を開けちゃダメだ。見ちゃダメだ。

 頭の中で繰り返し唱えても、意に反して目蓋は眼球から引きはがされた。視界に入ったのは、十センチほど開いたベッド脇の窓。

 窓の向こうは墨を流したような暗闇だけで、風の気配はなかった。

 再び眠りにしがみつこうとしたが、すでに覚醒の波は意識に漂う雲を流し去っていた。重くて動かない身体とは反対に、研ぎ澄まされる五感。


 ―ち、りぃ……ん……


 俺の住んでいる公団住宅は、夏場の決まり事として二十一時を過ぎたら風鈴を片付けなくてはいけない。騒音公害になるとの理由からだ。

 でも、俺には解っている。

 これは、どこかの部屋が片付け忘れた風鈴の音じゃない。

 完全に目が覚めて、うんざりしながら身体を起こす。

 八月の夜空は、まだまだ白み始める気配がなかった。ベッドに横になったのが午前0時くらい、満足感の足りない睡眠時間を逆算すると多分、現時刻は午前二時くらいだろうか? 

 時間を確認しようとしたが、枕元に置いた携帯が見あたらない。

 汗で背中に貼り付いたランニングをまくり上げ、ベッド下に放り投げた。

 蒸し暑い真夏の夜だ、パンツ一枚で寝たってかまうものか。誰かに見られるわけじゃないし。


 ―りぃい……ん……


 また、風鈴の音が聞こえた。

 その途端、全身に鳥肌が立ち背筋にザワザワしたものが這い上がった。

 大量に分泌されたアドレナリンが心拍数を上げ、額、脇の下、足の付け根、粟立つ肌に滲んだ汗が玉となり幾筋も滴り落ちる。

 ゴクリと苦いツバを飲み込み、俺は注意深く部屋を見渡した。

 パイプベッドに敷かれた、しわくちゃで汗臭いシーツの上。窓にかかった青い格子模様のカーテン。アニメキャラの女の子で埋め尽くされた四方の壁、本棚の上、机の上。

 脱ぎ散らかしたTシャツに靴下、ハーフパンツが散らばる床。

 天井は……実は一番見たくないところなんだけど……よかった、何もいない。どうやら今日は、出会わずに……。

「へっ?」

 その時突然、足下のタオルケットが山形に持ち上がると一方の裾がめくれあがった。

 ぽっかり開いた空間に、ぼんやりと青白い光。

 中に浮かび上がる、二つの目玉。白濁した膜に覆われ、濁った光彩。

「やべぇ……」

 目玉に続いて徐々に輪郭を現したのは、ミミズのような血管が這い回る土気色の塊だ。粘液質の膜に覆われ、てらてらとした嫌らしい質感。

 真ん中辺りに二つの空洞があって、中から垂れ下がった紐みたいな視神経の束が、眼球をつなぎ止めている。

 鼻の位置にはスイカの種に似た穴が二つ。卵形にぽっかりと開いた、唇のない口。ドクロそのものが形作る、骨張った頬。

 落ち着け、俺。

 大丈夫だ何もしない、と思う、多分……。

 静かに深呼吸をして、俺はまず窓を閉めた。それから目玉に背中を向けベッドに丸まり、シカトを決め込む。

 無理矢理、寝てしまうんだ。

 あと二時間……二時間もすれば日が昇る、そうすればコイツもいなくなるはずだ。

 落ち着きを取り戻し動悸が収まってくると、肝心なことを思い出した。

 そうだ、携帯! 目覚まし代わりに使っているアラームが無いと、起きられないだろ!

 高校入試に備えて明日……じゃなくてもう今日だった……から夏期講習が始まる。講習中、居眠りしないように何とか寝直して朝は自力で起きなきゃならない。

 同居人である爺さんは、俺が起きる前にラジオ体操に出かけてしまって、そのまま夕方まで老人クラブに居着くからアテに出来ない。

 ゆっくり振り向くと、目玉はまだ俺を見ていた。

 パンツ一枚の中学生男子を、そんなに見つめないでくれ。

 どうせ見つめられるなら、ゲームキャラのパッチリ開いてきらきら光る瞳がいいんだけど。

 気を紛らせるため、くだらないことを考えながら俺は、ゆっくりベット下に手を伸ばして携帯を探した。

 よし、あった。

 指先が、硬くて冷たい物体を探り当てた瞬間。

「べちゃっ」

 熱く火照った身体を冷やすのに最適な冷たさの腕が、タオルケットの下から伸びてきて俺の腕を掴んだ。

「ぎゃあおおおおおぅっ!」

 ああ……窓を閉めておいて良かった。

 ブラックアウトする意識の中、俺が心配したのは隣近所へ響いたかも知れない悲鳴と、遅刻の可能性だった。




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