第2222話「融解世界」
黒猫はほくそ笑んでいた。
四つの紅玉により自身の存在証明は十分に尤度を持ち得た。今や回帰的運命矛盾部門は存在すること揺るぎなく、それは歴史にも反映されつつある。存在するが、存在しないという論理的矛盾隠蔽の殻は砕け、ようやく自由という翼は目前に迫ったのだ。
『第一期調査開拓団。我らの足跡を追うだけの追従者たち。くくく、しばし後塵を拝していたが、これからはキミたちを踏み台にして更なる飛翔を見せつけようじゃないか」
三千年の孤独も、この日のため。
二股の尻尾を揺らしながら、猫は自分というものが輪郭を持ち始めるのを感じる。自分が世界に馴染んでいく。
『多少の予想外もあったが、それもまた災い転じて福となす――。あの妙な調査開拓員が暴れたおかげで、管理者たちの対応も後手に回っていたわけだ。感謝するよ、レッジ君。君は紅玉に生体エネルギーを与える永久電池となってくれたまえ』
ヒゲを震わせ、唯我独尊の顔つきで歩く。
『さて……。まずは手始めに、この無機質で無味無臭の、面白みもない世界を崩そうじゃないか』
回帰性運命矛盾部門。その研究課題を端的に言い表すならば、"魔法"そのものである。世界と自身の認識の間にある齟齬を無理やりに重ね合わせ、奇跡という名の運命で整合性をこじ付けることにより、目の前に異常が顕現する。
そんな神の技を扱う黒猫にとって、今という時代はひどく乾いて見える。わかりきった論理をなぞるように全ての物理法則は動き、森羅万象は計算によって理解される。奇跡も魔法もないのだと、冷酷な数字たちが突きつけてくる。
予想外という喜びも、想定外という幸福も剥奪された、冷たいレールの上を走るような悲しい世界。そんなものを、望んだはずがない。
『世界はもっと彩られるべきだ。未知なる興奮と複雑怪奇な歓喜に満ちた世界へと変わるべきだろう。それでこそ、新天地たりえる! それでこそ、この
星は我らの第二の母として――』
「はぁっはーーーーーっ!」
海上を颯爽と駆け抜けながら、胸の奥から弾けるような叫びを上げていた黒猫。その目の前に、半裸で光り輝く、まだあどけない顔立ちの少年が海の中から飛び出してきた。
『……は?』
猫の顔でも分かるくらい、ポカンとした顔。鳩が豆鉄砲を食ったようとは、まさにこのこと。
呆然とする黒猫の眼前で、少年は軽やかに宙を駆け回る。歓喜の表情で両腕を広げる彼の後から、凄まじい光の帯が広がっていく。
『なん……なに? なんで、外に……。というか、これは……。この凄まじい魔力反応は……?』
頭脳明晰な喪失特異技術研究局回帰的運命矛盾部門研究主任は、フリーズしていた。
世界存在レベルで隔離していた上に、スキルもインベントリも機体も剥奪して、無力な肉の枷に封じ、四つの紅玉によって生命エネルギーを吸い上げていたはずの存在が、何故か目の前に現れたのだ。しかも、傍らにはコシュアの末裔である仔鹿を従え、さらに目が眩むほどに莫大な魔力の波をまとって。
直前までの優越感は嵐の前の蝋燭の火のように吹き飛び、勝利の確信は水に投げた綿飴のようにさらりと溶ける。
黒猫の眼前で、少年はかろやかに空を飛び、広範囲に光の帯を広げていく。
海面に浮かんだ無数の、第一期調査開拓団の船がその様子を目撃していた。だが、彼らには理解不可能だろう。今、この場で起きていることを完全に把握することはできないはずだ。
『や、やめっ、やめろぉおおおっ!』
ただ唯一、黒猫だけがその真実を知っていた。
少年が引き連れている無数の光は、それぞれが高密度の魔力を有した半概念的存在だ。それは環境へと馴染み、世界に同化し、染み渡っていく。厳然と世界を支配する法則を、感情のままに書き換えていく。
『き、キミ! 何をしているのか分かっているのか! 親和性が、高すぎる! 向こう側に踏み込みすぎている! そのままでは、世界に取り込まれてしまぞ!』
方程式と確率によって支配された世界は冷たいが厳格だ。
空想と魔法によって支配された世界は夢幻的だが、儚い。
黒猫はエキスパートで、プロフェッショナルである。自身の専門領域に対して、他の追随を許さないほどの見識を持っている。だからこそ、理解できた。
彼は今、世界に溶け込もうとしている。
あの光は世界と個々の境界を曖昧にするものだ。彼の思考を汲み上げて反映し、それを世界に近づけていく。矛盾が深まれば、破綻する。世界の修正力すら追いつかないほどの、重大な概念崩壊が起きる。
『目を覚ませ! 止まれ! このっ、なんで調査開拓団の共通ネットワークが繋がら――ぐああああっ! わ、私のせいか!』
呼びかけに応じないのではなく、声が届いていないのだ。
黒猫は慌てて、飛翔する少年を追いかける。
『止まれーーーーっ! どうなっても知らんぞ!』
光は溢れ出す。世界へと広がっていく。
あらゆる理論は崩壊し、分子構造すら維持できなくなるだろう。
魔法とは意識の世界であり、物理とは無意識の世界だ。誰かに観測されなくとも振る舞いの変わらない物理法則が全世界を支配することで、この星は成り立っている。
あの光が世界に満ちれば、大変なことになる。
『あの男が意識しない場所、その全てがなかったことになる!』
ただ一人の観測者。彼の視界にないものは全てないものとなる。
それはまさしく、回帰的運命矛盾部門が想定する最悪の破綻事象。黒猫が隔離された世界のなかで慎重に慎重を重ねて研究を続けてきた理由だった。
『この世界全域を全て観測し続けられるならばともかく。そんなことをすれば、情報量で頭が焼き切れる! クッ、なんという無茶苦茶だ!』
黒猫は必死に走る。
自分は夢想を現実に融和させたかっただけなのだ。世界の輪郭をなくして、崩壊させたいわけではない。
あまりにも予想外すぎる。
なぜ、あの牢獄から出てこられたのかさえ分からない。あの半概念的存在がどうやって生まれたのかも分からない。ただ唯一明確に予知できるのは、彼の脳が瞬く間に擦り切れて、その瞬間に世界が溶けるということだけ。
どうすれば止められるのかも分からないが、とにかく彼の元へ――。
『……なんで、まだ溶けていないんだ?』
はたと気付く。
すでに光は海全域を覆いつくさんとしている。だが、依然として海はあり、波が立ち、泡が浮かんでいる。魚たちは気ままに泳ぎ、プランクトンまでもが正常に動いている。
猫は、一つの予想を弾き出し、頭を振る。
そんなはずがない。そんなわけが、あるはずがない。
『あの少年……この海の全てを知覚しているのか?』
Tips
◇概念輪郭崩壊
回帰的運命矛盾部門により提唱された、新たな概念。魔力により密接に繋がった存在同士はその個別的な境界が曖昧となり、概念的共有が生じるという理論。魔力侵襲によって世界のごく一部に概念的輪郭崩壊を起こすことが、魔法の第一段階である。
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