第2155話「隔絶の世界」
亜空間へと一時的に退避することのできるテント"影雲"というものがある。あれはあくまで、次元の隙間に強引に身体を捩じ込んで、短時間だけやり過ごすというだけのものだった。
だが、そこから技術は進歩した。
調査開拓団は研鑽を積み、時空間構造部門の研究成果を紐解いていった。そうした先人たちのたゆまぬ努力の結果、ひとつの結晶が生まれた。
異界展開型隔離テント"浮世雲"。
それは文字通りの異界。こことは別の世界を組み上げ、その領域をすべてテントと定義する。テントの持つ境界保持の性質を特化させたことによって実現した、世界を生み出すテントである。
「なんと……ッ!」
トーカが周囲を見渡し、驚愕する。彼女の目の前に迫っていた病魔の黒々とした手は忽然と消えていた。周囲に広がるのは何もない白。濃霧に包まれたかのように、前後左右の区別すら曖昧な"場"だけ。
ここが全てテントの中であり、テントの外からは一切の干渉を受けない。
「これがテント? またすごいものを作ったわね」
盾を構えていたエイミーも驚きの表情だ。
テントと言うには、規模がかなり大きくなった。これではキャンプだアウトドアだと楽しむ風情もあったものではない。しかもここには何もない。世界を構築するにあたって不必要なものは全て省いてしまったからだ。距離や重さ、天地といった、当たり前に存在しているものすらここにはない。
当然、福利厚生として容易しているカフェスペースや、LP回復増進効果などのバフなどもない。ただの空間だ。
『あはははっ! ははっ! 素晴らしい! まさか、これほどとは! ぶっ飛んでるね、全く!』
隣でマーリンが爆笑している。俺が設計し、ネヴァが作り上げた"浮世雲"は最果ての塔の魔法使いのツボに入ったらしい。
『まさか世界を一から作ろうだなんて! 君が神になったかのような所業じゃないか!』
「そんなレベルには遠く及ばないさ。俺たち以外のものは存在しないし、自然も何も生まれる余地すらないんだ」
世界を組み上げるにあたって、あらためて現実の難解さを目の当たりにした。空気、風、粒子、原子、素粒子、重力、光、感情、偶然――世界にはあらゆるものが存在し、それらすべてが変数となり、無数の関数に組み込まれている。全てが同時多発的に変化を続け、同時にそれらは影響を与え合い、常に計算は完了している。全てを一から十までこなそうとすると、とても人の手に負えるものではない。
神が存在するというなら、それは頭にスパコンでも積んだ化け物だろう。
「この世界はシンプルだ。俺たちが存在する。ただそれだけ。落ちているとも言えるし、止まっているとも言えるし、全て違う。あらゆる要素を省いて、簡素にして、最小要素だけをなんとか詰め込んだんだ」
俺たちは、ここに存在する。
言うなればそれだけだ。それだけのことを実現するために、膨大な計算とプログラムが必要だった。
『……それで、これからどうするんですか』
「ウェイドは容赦ないな。もうちょっと余韻に浸ってくれてもいいんだぞ」
誰もが驚くなか、ウェイドだけが油断なくこちらを睨んでいる。
そう。彼女の言う通り、これはただの逃避だ。状況は何も変わっていない。俺たちは異空間に逃げ込んだだけで、病魔を倒したわけじゃない。むしろ、こちらからは何も手出しができなくなってしまった。外の様子を窺うこともできないし、このまま不用意にテントから出たら、今度こそやられる。
「俺たちにできるのは、待つことだけさ」
今、レティたちが戦ってくれている。
白龍イザナミが病魔に冒され死んだ世界の残滓、腐龍イザナミと戦っている。より正確に言うならば、腐龍イザナミが疾病を克服しようとするのを、助けようとしている。
腐龍イザナミが運命を退けた時、病魔も根絶される。そうすれば、俺たちも大手を振って外に出られる。
「そういうわけだからな。イザナギ」
奥の方で所在なさげに立ち尽くしている黒髪の少女に声をかける。ツノも翼も立派になったが、その瞳は変わらない。彼女は驚いたように肩を揺らして、ゆっくりとこちらに目を向けた。
「ずっとそこにいても退屈だろう。トランプでもしないか?」
福利厚生は何もないが、インベントリの中に入れているものは問題なく取り出せる。こんなこともあろうかと用意していたのだ。
赤と黒、54枚のカードを広げて彼女を誘う。どうせ何もできないのなら、せめて有意義な時間を過ごそうではないか。
Tips
◇トランプ
古来より存在する伝統的な遊び道具。四つの図柄、二つの色、二枚のジョーカー、十三の数字。単純な記号のなかに、無限にも等しい広大な世界が内在している。
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