第2009話「天地鳴動の慟哭」
夢の世界で見つけたシュガーはひどく衰弱していた。ウェイドの砂糖欲を抑えるストッパーとなっていたシュガーは、あまりにも莫大に膨れ上がった欲望を抑えきれず、むしろ圧倒されていたのだろう。
ウェイド自身はシュガーの存在すら認知せず、ただ甘いものを貪っている。管理者としての責務も、自身の使命も忘れた彼女は、もはや調査開拓団員ではない。彼女を注視すると浮かび上がってくるビルボードに表示されたのは、"食耽"のウェイド。――彼女はシステムにさえ、敵として定められた。
『もしゃもしゃ、もぐもぐ、もちゃもちゃ……。ごくんっ! ぷはー、おいしいですねえ!』
口の周りをクリームで汚し、指についたチョコレートを舐め取り、ぽんぽんと腹をさする。かと思えばフルーツに手を伸ばし、皮も剥かずに齧り付く。周囲の様子など、眼中にない。
小さく衰弱してしまったシュガーを懐に入れて、槍を構える。
今の彼女には、それなりのお灸を据えなければ正気に戻すこともできない。
「ウェイド! 今すぐ正気に戻れ!」
『もぐ……? げぇ、レッジじゃないですか。なんでこんなところにいるんです。さっさと消えなさい』
茂みの陰から立ち上がり、正々堂々と声をあげる。
食事に熱中していたウェイドは手を止めると、胡乱な目をこちらに向けてきた。しっしと獣を追い払うように手を振り、乱雑な対応だ。しかしそれでも俺が消えないのを見ると、怪訝な顔になる。
『なんですか、消えなさいと私が言っているんです』
「この世界はお前の思いのままに変化するみたいだが、俺はそうはいかないぞ」
『は……?』
彼女が消えろと念じれば消えるし、現れよと命じればなんでも現れる。失楽園とはそういうテントだ。しかし外部から侵入し、現実のウェイドと有線ケーブルでつながっている俺は違う。彼女の意志の範疇から、ここに立っている。
2000年にわたって自由を謳歌していたウェイドは、初めて己に歯向かう存在を見て驚く。そして、不満げに口元が歪み、目つきが鋭くなった。
『なんですか、貴方は……。いつもいつもいつもいつも、いつも私の邪魔ばかり!』
柔らかなマシュマロのクッションに身を預けていた彼女が、久方ぶりに立ち上がる。その体に衰えや弛みはなく、2000年の時を経ても全盛期のままだ。
細い銀髪を掻きむしり、だんだんと地面を踏みつける。
『私がどれほど苦労したか、面倒を被ったか。貴方という奴は――!』
「それでも、ウェイド。お前は管理者なんだろう。その本分を忘れて堕落してどうする」
『うるさいうるさいうるさい! 私の邪魔をするな! 私は、有給休暇を取っているだけです! これまで働いてきたぶん、休んでもいいでしょう!』
「もう十分、休んだだろう」
『貴方がそれを決めるなぁああっ!』
怒り心頭の叫びが世界を揺らす。
彼女を甘やかし続けてきた木々が牙を剥く。
「やっぱり往生際が悪いな。――すまないが、こっちも力づくで行くぞ」
もちろん、想定済みだ。
槍を振るえば、木々は嵐の直撃を受けたように吹き飛ぶ。俺の実際の攻撃力を遥かに超えた衝撃が、荒ぶる森を薙ぎ払う。
『なっ!? な、何をしたんですか!』
「ここは夢の世界。俺もウェイドと直接つながってここにいる。俺も、この世界に干渉できる」
言うは易し、行うは少々面倒だが。ウェイドの機体と有線接続しているからできる力技だ。この夢の世界そのものに干渉し、ウェイドの欲望であると偽装して改変する。
今の俺は、限定的だがウェイドと同様――つまり管理者クラスの武力を行使できる。
『くぅ、この、毎度毎度面倒なことを……ッ!』
ギリギリと歯を噛み締めてウェイドが手を動かす。大地がぐらりと波打ち、巨大なチョコレートの津波が迫る。
「そう言う攻撃は、もっと効かないぞ。シュガー、食べてしまえ!」
『シュガー!』
俺を飲みこまんと落ちてきたチョコレートの大波に、ぽっかりと穴が開く。轟音と共に落ちてきたチョコレートは、一滴足りとも俺には届かない。
シュガーが全てを飲み干したのだ。
『シュガー!? 生き残っていたなんて……。いいでしょう、諸共ねじ伏せてやりますよ!』
ウェイドが刀を手に取る。管理者専用兵装"銀刀・生太刀"だ。本来なら使用できる状況にないはずだが、この世界では問答無用で使用される。彼女は強く地面を蹴り、こちらへ迫る。
「堕落を貪ってたわりに、よく動く!」
『この世界で私が太るわけがないんですよ! しゃーーーっ!』
世界は全て、彼女を中心に巡る。
刀は俺を捉えて自在に刃を伸ばし、喉元に迫る。
だが、俺もまたこの世界を捻じ曲げられる。
「危ないだろ、死んだらどうする」
『どうせ死なないでしょう! このばか!』
俺に到達する直前で銀刀・生太刀の刃が歪む。それを見たウェイドは表情を歪ませ、更に力を込めて迫る。あくまでこの世界の主人は彼女だ。俺は計算が追いつかなければそのまま首を刎ねられる。
首筋に迫る刃を、手で掴む。
「死ななくても、痛いじゃないか」
青い血が流れる。
痛みが伝わってくる。不要な感覚はシャットアウトする。
「コンパス、ちょっと計算量を上げる。付いてこいよ」
『何をゴチャゴチャと――!?』
俺とウェイドの接続を保っている外の協力者に向かって呟き、力を込める。
この世界も言い換えれば、高度なシミュレーション環境だ。こちらで演算を奪取すればいい。
大地が蠢き、俺とウェイドを引き離すように亀裂が走る。
驚くウェイドに、次々と雷が落ちる。
「電気ショックで目を覚ませ!」
『うるさーーーいっ!』
だが次の瞬間には空が崩れ、雷そのものが消し去られる。
まさしく神のような所業だ。
『今すぐ消えなさい! ぜんぶ、ぜんぶ消えてしまいなさい!』
彼女の叫びと共に天地鳴動が巻き起こる。
仮初の世界が破壊されていく。
Tips
◇"清ラカニ濁リ飲ミ干セ"
夢幻の失楽園の主により、全てが破壊される現象。主の意のままに物質は存在し、そして消える。万物は彼女を中心に流転し、彼女の膝下に傅くのみ。
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