"地獄への道は善意で舗装されている"
*書いてる人は人間不信の気がある
地獄への道は善意で舗装されている、とはヨーロッパの格言だ。主に、二種類の解釈がある。一つは、善意からの行動が他者を不幸にする、ということ。もう一つは、善意から始めた行動を何らかの理由で失敗する時、己の歩いてきた道にそれまでの善意が落ちている、ということ。わかりやすく言うなら、お節介が誰かを苦しめる、ということか、善意は善行として結実させなければ意味がない、ということか。
どちらにせよ、善意とはすなわち善行になるとは限らないということだ。良かれと思って、なんてのは大抵碌なことにならない。
ところで、法律の話で、"善意の第三者"というフレーズがある。良かれと思って、ということではない。事情を知らなかった人間が、という意味である。地獄みの垣間見えるフレーズである。基本的に、知らなかったのだから罪はない、という文脈で使われる。
善意はもちろん、それ単体で悪いものではない。だが、それすなわち良いものになるとも言い切れない。善行善果に繋がるとは限らない。それは、人間が全知全能ではなく、不完全な存在だからだ。けれど、大抵の人間は己を過信している。
七つの大罪と呼ばれるものの中に、傲慢がある。あるいはそれは虚飾、虚栄心と表されることもある。ざっくりいえば、己は神の如く万能、有能な存在であると驕ることである。善意を悪果に導くものは、これを抱えているのではないかと私は考える。
己の価値観、状況判断に瑕疵がないと疑いを持たず盲信することは、危うい。何故なら、人は全てを知ることはできない。己の行動がどのような結果をもたらすか、事前に知ることはできない。それをきちんと認識できているかどうかは大きい。主に、自省、自制ができるかという点において。自省できないものは独善に陥りやすい。
善意の押し付けは迷惑行為だ。己の善意(と思っているもの)を断られた時に怒るのは、それは逆ギレというのである。すなわち、相手の為の行動ではなく、己の為の行動だったから怒りを覚えるのだ。"いらないものはいらない"のである。相手がいらないと言ったら、そうか、と引き下がるのが筋である。
"してやる"とか、"してあげる"という言い回しがある。その活用形もそうだが、独善の現れた言葉だと思う。だから、できるだけ使わないように心掛けている。する、した、でいい。あげる、なんて入れる必要はない。
とはいえ、だ。人が何故善意の押し付けをしたがるかというと、気持ち良いからだ。自分に負担のない範囲で、自分の思う善を押し付けて、それで感謝なんてされれば有頂天だ。あるいはその"善行"の裏には、相手に対する蔑みや侮りがある。相手より優位であるという優越感が、自尊感情が快感を生む。
無責任な善意は、その行動の責任を取らない。それは楽しくないからだ。面倒くさいことはしたくないのだ。でも、己は善い人であると思われたいから、自分の都合の良い"善意"の押し付けをする。始末が悪い。どうあれ、己が自立した大人だと思っているのなら、自分の選択・行動の始末は自分で付けるべきだし、それができないのなら、人のすることに口を出すべきではない。
理性的でない、論理的でない行動の大体は、それが気持ち良いからするのではなかろうか。善意からの行動であれ、悪意からの行動であれ。自分が不快な行動を自主的に行うような特殊な嗜好の持ち主はそんなにはいないだろうと思う。
善行は、行うものにとって快い行動とは限らない。
いや、まあ、そもそも善行とは何ぞや、という話でもあるのだが。相手を心から喜ばせることができれば善行なのかといえば、そうではあるまい。しかし、人には到底できないもの、というわけではないのだろう。小さな善行であれば、実行そのものは誰にでもできるもののはずだ。
その行動が善行かそうでないかを決めるのは何だろうか。やはり、状況だろうか。同じことでも、状況によって善行ではなくなるのか。それは是だと思う。人はそれぞれに違って、望むものも違う。全ての人間が同じ事象に同じ感想を持つということはない。それが多様性というものだ。
善意からの攻撃というものがある。それが実質的に善行というか、良い結果に繋がることがないわけではないが(犯罪の抑止とか)まあ、基本的に攻撃は良い事ではない。でもそれは、正義を大義名分にした攻撃と同じで、気持ちいいから、それと自覚せずに止められるものでもない。
善意とは、厄介なものだ。ある意味では悪意よりも質が悪い