あの頃の帰り道
こちらは、夕凪もぐら様の年末ゆるゆる企画、「帰り道を探して」の参加作品でございます。
帰り道をテーマに。201字以上6500文字以内という以外はとくに制約なしのまったり企画でございます。本作は、私がにまにまできるシチュエーションをとにかく詰め込みました。お楽しみいただければ幸いです。
東雲友梨佳は中学、高校と同じだった同級生だ。同じマンションに住んでいて、一緒に帰ることが多かった。背の高い――流石に高校二年くらいで俺が抜かしたが――超がつくほどの美人だった。そのことを軽く自慢していたこともあったが、俺と彼女の関係は、同級生という範疇から出ることはなかった。
受験勉強をそこまで真剣にしていなかった俺と違い、彼女は東京の国立大学へと進学した。俺はというと地元の私立で甘んじていた。それから疎遠になり、十数年が経とうとしていたころ、突然SNSに彼女からのメッセージが届いたのである。
『番号変わってなくってよかった(*´▽`*)
もう連絡つかないかと思ってたよぉ(/_;)』
一文一文に顔文字をつける癖は、スタンプの充実したSNSにおいても変わらなかった。ずぼらな俺は、彼女と離れてからあまり連絡をしなかった。しばらくは彼女の方からあった連絡も途絶え、十数年も経てば流石に連絡も来なくなっていた。それが随分と久しぶりにやって来たのである。面倒がって番号を変えずにいたのがここに来て功を奏したというわけだ。――それにしても彼女は、どうして今になって連絡をよこして来たのか。
それも、『久しぶりに、一緒に帰ろう』という理由の分からない誘いで。母校から、昔住んでいたマンションまでの帰り道をなぞる散歩。考えれば考えるだけ目的が分からない。それを尋ねると、濁された。
外に出ると、口から白い湯気が立ち昇って、冬の匂いに溶けていった。
ここのところは皮膚を刺すような寒さだ。マフラーと手袋、コートが必需品だ。それでも肩がこわばって、身体が小刻みに震える。
時刻は午後五時半。すっかり日が落ちて、長い長い冬の夜だ。昨日の雨がところどころで凍っている。アスファルトの地面を懐中電灯で照らしながら、一歩一歩滑らないようにと足を進める。
しばらくすると雪がちらつき始めた。
スマートフォンが友梨佳からのメッセージで震える。
『寒いよぉ、東京より全然寒いっ ブルブル(o+д+o)』
こういうふうに思ったことをメッセージに投げてくるものだから、たまに返答に困ったものだ。俺は、思っても心の中でとどめておくことが多いから、その都度返事をして会話をつなげていくというのが慣れていなかったのである。
『そうだね』
『相変わらず素っ気ないなぁ、モテないぞぉ(´・ω・`)』
とまあ、こういう具合に今も慣れていないのである。
『モテないぞぉ』とはよく言われたものだ。事実、友梨佳以外の女子とはほとんど関係を持っていなかった。いや、ほかの男子からすれば、友梨佳とよく帰っていただけで嫉妬の的だったろうが。
そんな俺も今や既婚である。妻には旧友に会うと言って出てきた。
最寄りの駅から電車で十数分。高校まで住んでいた町に着く。途中、向こうの方が先に母校についたらしく、夜の校舎の写真が送られてきた。友梨佳の姿はそこにはない。休日ということもあり、人気はない。夜の帳も相まって肝試しの現地写真のようだ。
そして、母校の最寄り駅に降り立った。通っていた中学と高校の最寄り駅は同じ。どちらも駅から歩いて十数分。今回は高校の方で待ち合わせをしている。少し山に入ったところだから、道路は薄く雪で覆われている。
LEDの懐中電灯で足元を照らしながら歩く。途中、よく買い食いをしたコンビニがあった。――もうひとつの買い食いスポットである駄菓子屋は見つからなかった。
*****
「おっ。来た来た」
スマートフォンの画面にずっと視線を注いでいたくせに、随分と遠くから俺の姿を見つける。友梨佳は閉ざされた校門にもたれかかっていた。
「おーそーいぞー」
右の手を口元にあててメガホンを作って、声を投げてきた。「寒い中、女の子を待たせるなんて何考えてんだー」と付け加える。お互い三十路近いくせに。
ショートカットの髪は栗色に染められていた。薄化粧をした彼女は相変わらず、いや、よりいっそう綺麗になっていた。首にはストールが巻かれ、その下はポンチョがすっぽりと覆っている。暖かくも、動きやすそうだ。
「お、おう……」
校門にもたれかかっていたところから立ち上がる。彼女のつむじがちょうど鼻先のあたりの高さ。シャンプーの香りが鼻孔を刺激した。――思わず紅潮してしまう彼女の気迫は、相変わらずだ。
彼女の線の細い手が伸びて、俺の頭のてっぺんに置かれた。
「大学入ってからも背伸びた? 昔は私よりちっちゃかったのになあ」
それは高校に上がるまでの話だ。そう言うと彼女は口をへの字に曲げた。
改めて校門を見やる。あの頃よりも赤錆の量が心なしか増えた気がする。そして、その高さはやはりあの頃よりも低く見える。友梨佳が言った通り、大学に入ってからも少し背が伸びたからなのか。いいや、大人になったという感慨がそうさせるのか。
「で、なんで昔の帰り道を歩こうって話になったんだ?」
「んー? だって懐かしいでしょ」
それはメッセージでもやった会話だ。何をもったいぶっているのか。
そう問い詰めると、「相変わらず、情緒というものがないなー」と一蹴された。
懐中電灯の灯りを降り注ぐ雪たちが反射する。俺たちは二人して白い息を夜の帳に溶かしながら、あの頃の帰り道を歩いた。
側道の溝をわざとなぞったり、道路と歩道の境目、盛り上がったコンクリートの分離帯をわざと歩いたり。あの頃にやったとりとめもない遊びも交えながらだ。
「はあ。寒いから温かいもの買お」
途中にある自動販売機。真っ赤なボディに白熊のイラストが描かれているのは相変わらず。ここも買い食いスポットのひとつだ。
「コーヒーでも買うのか」
「買わない買わない。私、缶コーヒー嫌いだし」
そう言えばそうだったっけと思うまでに、彼女の口から思ってもみない言葉が飛び出した。
「それに今、私、妊娠してるし」
「えっ」
思わず変な声が出た。俺の様子を見て彼女がけらけらと笑っている。
小銭を取り出すために外した手袋。露になった右手の薬指には銀色の指輪が輝いていた。
「あはは。何そんなに驚いてんの」
ああ。とっくに俺は結婚はしている。だけど、彼女が結婚しているとは聞かなかった。それに妊娠しているなんて。ポンチョがなければ、腹部の膨らみが目立ったのだろうか。
「教えようとはしたけどさ。お互い、親元の家も移っちゃったからさ。にしてもそんなに驚くって、もしかして妬いた?」
「いや、俺も結婚してるし」
「えー、そっちの方が驚きだわー」
なんともデリカシーのないやり取り。お互いに初対面だったら、引っぱたき合ってただろう。
がこんという音がした。自販機の取り出し口から彼女はコーンポタージュの缶を取り出した。
「和寿。何飲むー?」
「自分で買うからいいよ」
「おごってもらっとけって。私、結構稼いでんだから。今、産休中だけど」
彼女の成績を超えれたことは中高と一度もない。上京した彼女と地元の工場で働く俺。比べるまでもないだろうが、面と向かって言われると癪だ。
「じゃあ缶コーヒーで」
不機嫌な口調で応えた俺に、おざなりなふたつ返事が返された。
「はい。これ、ささやかだけど今日のお礼っ」
缶コーヒーを俺にわたす時に、彼女は言葉を添えた。
にっこりと上目遣いの笑顔を向ける彼女。さっきまでの不機嫌が、ふわっとどこかに飛んで行った。そんな自分の単純さに辟易する。第一、お互い既婚者だぞ。
缶コーヒーの苦みで、少し気分を落ち着かそう。そう思って口に含んだコーヒーは、なぜだかいつもより少しだけ苦かった。そう、少しだけ。
しばらく歩くと、川が見えた。
「ちょっと休もう」
彼女は河川敷まで降りて、ベンチに座った。そして、座るや否や空を仰ぎ見て、缶の飲み口に口をつけて、缶を上下左右に振る。底に残ったコーンを食べようと悪戦苦闘しているのだ。
休むというより、それがやりたかっただけじゃないのか。
心の中で毒づきながら、友梨佳の隣に座る。
「ほんと、友梨佳はマイペースだな」
「それは褒めているの?」
「もうその返しがマイペースだ」
今さら、それを正せなんて言うつもりはない。むしろ、彼女の調子が変わっていなかったことに、俺は安堵を覚えた。彼女と同じように夜空を仰ぎ見ると、無数の星々が瞬いていた。
「あー、もう、取れないや」
どうやら友梨佳は諦めたらしい。
「振ると確かにそこにあるのに。どうして取れないんだろ」
すっかりテンションが下がってしまっている。
表情の変化が忙しくて、マイペースでいつも俺を巻き込む。そんな彼女がいなかったら、俺の中高の学生生活は恐ろしく平坦だっただろう。事実、彼女と離れていた大学時代なんて思い出なんか数えるほどしかない。
そんなことを考えていると、気づかないうちに視線は、彼女の横顔に注がれていた。すると、こちらに向き直って目線を合わし、ずいと顔を近づけてきた。
「ねえ、今ずっと見てたでしょ」
「なんだよ」
「ねえ、もしさ。あの頃に戻ったら、私たち結婚すると思う?」
急に彼女は、もしもの話を持ち出した。
「んなこと聞くなよ。んなの分かんねえし」
とっくに既婚で、おまけに妊娠しているというのに。なんだその会話は。俺はやや乱暴な口調で返した。
「――私はしないと思う」
「はぁあ?」
おまけに俺が答えられなかった問いかけに、自分は簡単に答えてみせた。
「和寿といるとさ。なんにも気兼ねしなくていいの」
「そうだな。友梨佳からデリカシーへの配慮を感じたことが、まるでない」
俺は、今日一日の彼女の所業に毒づいた。
もちろん、彼女はそれに怯むことはない。
「でもそれって、好きとか結婚するとかとは違うんだなって。――私は好きな人と結婚した。けれど好きと結婚するも、また違うんだなって。
あの頃はさ。ずっと憧れて背伸びしながら付き合っていくのも、こんな風に他愛もない付き合いでとどめておくのも、全部自由だったよね」
そこで彼女は今まで見たことのない表情をした。感慨に浸るような。切なさを噛みしめるような。一言ではとても、言い表せない表情だ。
それを見て俺の心にも、戻らない時を憎む郷愁のようなものが、押し寄せてきた。飲み込んだコーヒーの苦みが再び蘇ってくるようだった。
「つわりのときは、旦那の前で何回も吐いたし。妊娠してから体重が三キロも増えてさ。なんかさ、こうやって憧れとかそういう淡い感情が、お互い削ぎ落とされていくんだろうなって。自由だったあの頃と今は違う。妊娠した今じゃ、もう何からも逃げられない。――なのに逃げたくなって、今、実家に帰っているの。そんな自分情けなくって。そんな姿見せられるの、和寿しかいないなあって」
「そういうことか」
彼女は自分を包み隠さず話せる時間を求めて、俺を誘ったのか。動悸は分かったけれど、頼りない俺は相槌を打つことしかできない。
「ご、ごめん。あまりかける言葉思い浮かばなくて」
「あはは。和寿は律儀だなあ。こんな愚痴に相槌以上なんて求めないよ。――聞いてくれてありがとう。本当はね、あんな馬鹿な誘い、乗ってくれるなんて思わなくて。今ものすごく救われている」
自分には持て余すものをぶつけられて戸惑っていた俺は、その言葉で嬉しくなってしまった。俺がひそかに緩めた口角。彼女はそれに気づいてにっこりと笑った。
気持ちの整理がついたのか、彼女はすくっと立ち上がった。
「さあ、続き続き」
川沿いを歩き始める。橋を渡り、川の向こう側へ。
待ち合わせ場所の母校への行きしな、通ったコンビニで缶を捨てた後。今度は駅とは反対側の方向へと歩いていく。
あとはもう真っ直ぐ進んでいくだけだ。
電柱の数を数えたり。小枝を拾って柵にかんからと当てて鳴らしたり。あの頃の遊びも忘れない。
「なんか、あんまり変わってないね」
「田舎だからな。建物の移り変わりもゆっくりだ」
コンビニを通り過ぎてからはほとんど、雪をかぶった田んぼを挟んでぽつぽつと建物があるくらい。
「でも、駄菓子屋はなくなってたよ」
「あー。だって、もうおばあちゃんがやってたお店だったし」
駄菓子屋の店主である、気のいいおばあちゃんの声が耳の中に木霊した。もうずいぶんと前なので、それが本当にその声なのかは分からない。確かめようもない。
そうこうしているうちに、あのころ住んでいたマンションに着いた。
マンションとはいっても小さいもので、三階建てでエレベーターもついていない。部屋数も九つと少ない。九つ並んだ郵便受けを眺めるふたり。もう住んでもいないマンションの郵便受けを眺めるなんて、考えれば考えるほど滑稽だ。
「“山崎”さんだって」
友梨佳が、今の住人の名を読み上げた。ちなみに、俺が昔住んでいた部屋の表札は、“橋本”となっていた。俺の名字の“細川”とは違う名だ。
「流石に、“東雲”はかぶらないだろ」
「あー。今は、名字は“小野”だよ」
ああ。そっか。