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何処にでもある闇

作者: 落葉愚人

 大川の人生の中で贈り物をもらった記憶はクリスマス以外に記憶にない。

 イエス・キリストの生誕の日だ。

 ケーキとおいしい料理。

 枕元に置かれた玩具。

 一年で最も楽しい日だ。

 大川の家そのものは真言宗ではあるが、決して意識することもなく、年始の神社にも行く。

 玩具が枕元から消えたのは、小学生になってからだろう。

 ケーキは、小学生の高学年まで続き、それ以降は大学生になるまで、大して意識することもなかった。

 大学生になって、再びクリスマスが年間の行事になったのは、友達の家に遊びに行くことで、きらびやかなクリスマスを満喫する様子を見てからだった。

 大学を卒業すると、再びクリスマスは沈黙を続けた。


 大川は大手鉄鋼会社に就職した。

 当時は、日本の基幹産業ともてはやされていた時代だった。

 社員の平均年齢は40歳代と高く、職人肌の人間、スポーツ選手からの社員がいたり、2万人近い人材が、全国に散らばっていた。

 社会人になって、大川には、その激しい性格が災いして、殆ど友というものはいなかった。

 大川は、正しいと思ったことを貫き通す性格で、それを仕事の上で実践するものだから、成果は上げるのだが、彼の上司とは、常に対立し、そのだれもが、大川を非難し、憎んでいた。仕事に対しては、全力で向かい、その結果だけを重要視した。

 自ずと、同期の入社の中では一番の稼ぎ頭となった。

 容姿は悪くないのだが、その性格と忙しさのために、寄ってくる女性や寄っていくこともなく歳ばかりが過ぎ去っていった。


 会社の中では、派閥の権力闘争が激しくなっていた。

 社長派とM&Aで入ってきた取締役派と、会長派とそしてどこにも属さない無派閥とである。当然のことながら、大川は無派閥に属していた。

 この権力のヒエラルヒーの中では、無派閥は最下層に位置付けられていた。

 何の影響力も無く、他人といがみ合うこともないと思われていた。

 大川は、このヒエラルヒーとは全く無関係に社会人を送ってきた。

 傍から見ると、自分を貫く姿は、虎や狼、熊に囲まれたスピッツに見えた。

 大川が自信とする強みは、自分が積み上げてきた実績だけだった。

 この15年間だけで、大川の実績は、5つのプロジェクトを成功させた。

 今やそのどのプロジェクトよりも会社への収益に貢献していた。

 他のプロジェクトは、良くてトントンか殆どが赤字だった。

 そのため、会社中の皆が大川に一目置いていた。

 もし、どれかの派閥に加わっていたとするなら、出世は思うままだと言われた。

 そのため、余りにも目立ちすぎたのか突然左遷された。

 38歳のクリスマスイブだった。

 常務の狭山に呼び出された。

「確か君はプロジェクト推進室の首席主任だったね。早い出世だ。確か同期の中では一番に主任に任命されたんだよね。今日からは、営業管理室の管理課の課長だ。社内的にも君の実力は本当に評価に値する。会社的には、左遷部署だのって言われているが、これからの部署だから頑張ってくれたまえ。」

 代々その部署は、辞める前の最後の身の置き場所として、会社中に知られたところだ。

 大川の知る限りでは、それまでの、プロジェクト推進部とは違い、皆、無派閥派の覇気のないものが、40名程の課であった。現在は、退職者が続出して、3名ほどの部署となっていたはずだ。

「確か、営業管理室の業務は殆どないかと」

「そうそう、昔は営業の基幹部署だったのだが、ここ何年かで機能しなくなってしまってね。どうも各部署が勝手にやるもんだから、事業管理がうまくなくてね。会長もひどく気にしていてね、そこの立て直しをしたいと思っていたんだ。そこでね、社内で多くの実績を上げている君が一番その役目がいいと決まってね。君にとっては左遷と思うかもしれないけど、これはこの会社の命運がかかっていると思ってくれ。相談したいことがあったなら、いつでもこの部屋をノックしてくれ。秘書にはよく言っておくから。」


 突然の異動に、戸惑いながらも、主任から課長職への実質昇格は、年収ベースで200万は上がる。通常、昇進は4月だが12月の異動は異例だ。

 これは会社に何かあったか、もしくは、何かしでかしてしまったか。

 やはり、後者なんだろうな。

 多くの心当たりを探してみるも、決定打には至らない。

「敵を作りすぎちゃったかな」そう思うと、これまでのプロジェクト推進部の連中の目が異様に厳しかったかな。誰も声を掛けてくるものなどなかったしな。

 さして嬉しくもないクリスマスプレゼントだ。


 ダンボールを抱えて、ビルの12階から地下2階の営業管理課に向かった。

 社内のヒエラルヒーの中で、本社の32階をトップに、上の階ほど重要とされている。

 地下2階の課長クラスでは、31階にある常務室をノックすることは不可能だった。


 課長席に座って見渡してみると、一癖も二癖もありそうな人間ばかりだ。

 社内不倫で追い出されたもの、社内的には問題はないのだが、多くの借金を抱えたもの、

 すぐに上司と喧嘩をしてしまうもの、態度がいつもおどおどして仕事にならないもの、剽軽だが口が悪く冗談と悪態を交互に言うもの、集まりだった。男性 2名に女性 1名だ。

 大川が席に着くと、誰もが顔をあげた。

 生え抜きの社員として、実績を上げ誰もが期待していた若手のホープの突然の異動に、誰もが「どんな失敗をしたんだろう。」という顔つきである。

 上に嫌われたんだろうな、しょうもない奴だと誰もが思った。

 まあ、この部署にいる人間にそう思われたと思うと、大川の心はずたずたに引き裂かれた。

 この部署から出世した人間は一人もいなかったし、そのまま働いても他の部署への異動は決してない。あるのは辞めていく道しか用意はされていなかった。

 ここには、40人ほど居たようだが、皆、辞めていった。

 残ったのは3人。

 癖のある集団だけにまともに仕事なんかしやしない。

 パソコンは課長席と主任席にあるだけだ。

 日報は紙で提出し、印鑑を押す。何か仕事らしい仕事は無いようだ。

 そもそもこの課には課長はいなかった。

 大抵は、役職をはく奪されて流れてくるので、席はあるものの主任すらいなかった。

 誰もが、仕事中だが暇そうにスマホをいじっている。

 フロアの片隅に壁に仕切られているので、その中で誰が何をしていても、他の部署に見られる恐れはない。他部署は、情報システム部の分室として、多くの外注が常駐していた。

 まあ、何があっても告げ口される恐れはない。それが、営業管理課の社員の増長に拍車をかける。

 噂によると、昔は、ビルの20階にいたということだから、だいぶトップに近い部署だったようだ。プロジェクト推進室よりは優遇された部署だったはずだ。

 一人の30代の女性が大川にお茶を入れた。

 確か、契約課で庶務をしていた女性だ。線が細くものすごい美人だ。

 上司の課長と不倫関係に陥り、すったもんだの挙句、課長は地方に飛ばされ、彼女はこの課に異動になった。どうやら関係となったのは、課長だけではなく、主任や総務部の次長ともどうやら深い関係にあったという噂だった。

 確かに、その容姿と美しさの中に甘えるような笑顔に、誰もが惹かれるのが理解できる。

「ありがとう」

 大川がこの課に来て初めて発した言葉だ。

 気になったのは、その女性の距離感だった。大抵の人間は、人との距離を設ける。

 殆どの人は、50センチほどだろうか、しかし彼女は20センチぐらいの距離だ。

 これは絶対に誤解される距離だ。まあ彼女の欠点は、この生活距離を長くすることだな。


 この課の中でだれも大川の就任の挨拶を期待などしていなかった。

 大川は席に座ると、机の上に放置された資料の山を呆然と眺めた。

 この天山山脈に思えるこの仕事内容を引き継いでくれる人などいなかった。

 さて、この課の仕事はなんだろう。

 営業管理課、業務内容の明確な規定は無いようだ。

 会社の業務命令書には、新規事業所の立ち上げ管理、購入に対する送金の手続き、イベントの開催と調達、清算、顧客からの問い合わせ対応。社内駐車場の管理。社内不動産管理、子会社の運用管理等、様々な業務がこの課の仕事らしい。

 この人数でやれる仕事ではない。大川は周りを見渡すと、広々とした部署に墓標のようにブックスタンドが立っている。


 各人の日誌を見てみると、皆、一様に顧客からの問い合わせ対応となっている。

 しかし、電話の一本すらならない部署で、顧客管理はありえない。

 パソコンで、社内人事情報を確認すると、これは課長以上が見ることが出来る情報だ。

 それも、自分の部署に限ったものだ。

 部長は自分の部の情報を、本部長は、部長の情報、取締役は殆ど全員の情報を見ることが出来た。

 営業管理課は、子会社の情報を一括管理できる。

 大川は前任川上の年前の稼働時の情報を見てみた。

 当時の課長は、年齢50歳、地方の国立大学を出て、コンサルティング会社に勤務の後、法人営業部に配属、係長を経て業務管理課の課長となるも、程なく業務上横領により退社となっていいた。

 当時は、40人ほどの部署で活気のあったようだが、その課長が退社してからは、どうやらこの部署が、今の扱いに変わったようだった。

 今いる人間の職務経歴書を見た。

 安西友則28歳、西海大学の理工学部だ、新卒で、情報システム部に配属されたが、どうやら借金を抱えているようで、会社への問い合わせが頻回にあり、情報システム部に置いておけないという理由で、こちらへの異動となったようだ。異動になって早3年が過ぎようとしていた。

 多賀俊也、32歳、中野坂上ビジネス専門学校卒、中途採用で2年前に東日本鉄鋼開発部に配属、その3か月後には、異動になり営業管理課に配属。

 前職は、ITベンチャーに勤務も、会社の倒産と、その後再び、ITベンチャーに勤務するも、どうやらブラック企業だったようで、半年で辞めている。

 どうやら、彼の親と副社長の藤堂と知り合いらしく、そのコネで入ったようだ。

 一攫千金的な気質が抜け無さそうだ。

 岡沢咲子、35歳、藤が丘女子大学の出身。中途入社だ。

 卒業後、大手出版社に勤務、8年前に転職後、この会社に入社。

 契約課で庶務を担当するも、2年前にこの課に配属。

 仕事ぶりはいったって真面目で、事務能力も高そうだ。

 営業管理課の生き残りメンバーはこの3名のみだった。

 3人とも大川をまるで居ないかのように、自由にふるまっている。

 安西の席から、爪を切る音が、広いフロアに響く。


 さて、左遷された身とはいえ、仕事はしなきゃならないな。

 どこから始めようか。

 まずは、飲み会からだな。

「岡沢さん」と問いかける。

 岡沢は、沈むように机に伏せていた顔を上げ、嬉しそうに大川の方に顔を向けた。

 きらきらとした美しい笑顔だ。これは、誰もが虜になるはずだ。

 岡沢が立ち上がり、大川の机の前に来る。

「今週、どこかで皆の都合に、合わせて飲み会を開こうと思うんだが、適当な店を探してくださいな。予算は、一人五千円ぐらいでね。」

 その言葉に、安西、多賀が迷惑そうに顔を見合わせた。

 静かな、フロアが更に静まり返る。

 彼らは、本当にこのままでいいと思っているのだろうか。

 岡沢は自分の席に着くと、自分のスマホで探し始めた。


 相変わらず、電話一つならない。

 大川は、課長席に置かれた資料の山を見た。

 事務スペースは、机に置かれたパソコンのキーボードの部分だけだ。

 パソコンは、更新されなくなって久しく思うように動かない。

 それまで、最新のタブレットが配布されていたのと雲泥の差だ。

 大川は、資料の裏に隠されるように置かれている、電話をとると情報システム部の主任に電話をした。

「橋元かい。大川だけど。」

「おお、元気か、なんか異動になったんだってな。突然の異動で、社内中でお前のことで評判になっている。なにやらかしたんだ。」

 橋元は大川の同期入社で、ごくごく平凡な男だ。

「何もしていないつもりなんだがな。まあ主任から課長だから収入面では出世かな。」

「同期では初めての課長だから、頑張れよ。それより、どうした。」

「パソコンなんだけど、どうも調子が悪いんだ。申し訳ないけど、タブレットを払い出ししてくれないか。払い出し伝票等は岡沢さんにお願いするから、出来れば4台欲しいんだ。業務をするうえで、IT化されていないのはこの部署だけだからね。」

「突然言われても、困るけど、お前の頼みじゃ断れないしね。前回、入れてもらったグループウェアの恩もあることだしね。因みに、狭山常務の了解はとれているのかい。」

 確かに、欲しいと思って手に入れられるものではないな。30万くらいかな。

 課長の決済は、月20万までだから、稟議書が必要となるな。

「常務は大丈夫だと思うんだ。この後電話を入れてみるけどね。」

「まあ早急に稟議書を上げてくれ。金額はうーん。28万と消費税だね。見積書はお前の社内メールに送っておくから。まあ、新しい部署頑張れよ。同期の中では初めての課長だからな」

 そういうと、橋元は電話をきった。

 大川は、受話器を手にしたまま、常務室の秘書に電話をした。

「営業管理課の大川だけど、狭山常務はいらっしゃいますか。」

「常務は、今、東日本統括本部へ出張に出かけてます。明日には戻られるかと思われます。」

「それでは、稟議書を社内メールでお送りしますので、承認の程よろしくとお伝えください。」

 さて、狭山常務は会長派だ。そして味方なのか敵なのかは、皆目見当がつかない。

 狭山は、会長派でありながら、取締役派の筆頭の増岡と非常に仲が良く、よく飲みに行っているのという噂であった。

 社長派は、専務と各統括本部長だ。

 大川は、橋元から送られてきた社内メールに添付されている見積書を確認すると、稟議書を書き上げ、それを添付しワークフローに載せるとともに、狭山常務あてに申請理由を書き込み送った。


 積みあがった、未処理で月日が相当たった書類の束を、一つ一つ確認して印鑑を押し

 元の部署に返した。

 その中には多くの督促状が届いていて、殆どが未処理のまま放置されていた。

 社内駐車場の購入の支払い確認書があった。

 どうやら支払いが滞っているらしく、督促状が5通も届いていた。

 最後の日付は、半年前だ。驚いて、机の上の書類を全て確認すると、稟議書、発注書、建設確認依頼書等、多くの未処理の資料が出て来た。


 大川は、驚いて課内の3人を呼んだ。

 早急に処理しなければならない、未処理の督促状が100通近くのその束を3人に見せた。

「この督促状は、本来誰が処理すべきものなのか。」

 3人はお互いに顔を見渡した。

「私たちは、そんなのが届いているとは、少しも知りませんでした。本当なら課長が処理するんですが。僕らは平ですし。」

 年長の多賀が答えた。

「しかし、他のメンバーがいない今、この課の責任は君らが負っていなければならないのじゃないか。放置していた責任は看過できないのだが。」

「そんな話聞いてないです。」

 岡沢が顔を紅くして言った。

「まずは、このままでいる訳にはいかない。何より、これからしばらくはここにある伝票の処理を1か月以内に終了させることだな。必要とあらば、他部署への交渉は私がやるから、手分けしてやってくれ。まあ何もしないで一日ぼーっとしているより、死に物狂いで働いたほうが、皆のためだ。人が足りなくなったら、補充や助っ人を用意するから、まずはやってみろ。¬多賀さんはこの督促状の支払い状況と、経理への照合を先に行ってくれ。安西さんは、

 発注書の状況確認と納品の有無ともし発注がなされていない場合は、稟議書を確認の上、至急発注。岡沢さんは、建設確認の為、建設会社と話して、担当部署と建設内容の確認をしてくれ。私の方は、この古い資産管理台帳を洗いなおして、資産管理部と照合する。まあ、忙しくなるが、ここは正念場として、頑張ってくれ。」

 人は、忙しければ全力で仕事をするのだが、一旦、その糸が途切れると、とてつもなく怠け者になる。そして急に忙しくなると不平を漏らすのが常だ。

 プロジェクトを幾つかこなしているうちに、そんなメンバーをよく見て来た。このメンバーも同じだろう。

 はたして、3人とも顔を下に向けて、途方に暮れているのがよくわかる。

 大川は、動き出したら止まらない男である。

 自分の思ったことを実現するためには、もっともらしくディベートもよくやる。

 信じていないことも、本来、もともとそうであったかのような振る舞いをする。

 その行為が、どうやらメンバーに気に入られない要素でしあった。

 また、人は善だけで生きていないこともよく知っていた。

 普通のサラリーマンは、権限のないうちは、善を好む。しかし一旦権限を握ると、豹変する者が殆どだ。大川がプロジェクトをこなすうちに、知った社員の実情だ。

 決してそうならないぞと思うことでもあった。


 資料の山越しに、大川と3人が黙って、立ちすくむ。

 ここが動き始めると、皆修羅場になることは自覚していた。

 今のままののんびりゆったり時間通りとはいかなくなる。

 声を発したのは、多賀だった。

「やりましょう。」

 ITベンチャー出身ということは、相当辛い思いもしただろう。

 その言葉につられるように、残りの2人も頷いた。

 それまで彼らの中には、このまま何時辞めるんだろうということしか頭になかった。

 大川は、この営業管理課をこのままにしておく積りはなかった。

 ここに送り込んだ人物は、大川の覇気を削ぎ、いたたまれないうちに辞めさせようという意図を感じていた。

 決して負けない。強い意志が必要だった。


 それからの営業管理課は、電話の嵐だった。

 3人は堰を切ったように電話をかけまくり、現場に赴き状況を確認し、夕方戻ってくると大川への報告書を書いた。

 タブレットの購入の件は、翌日には稟議決裁が下りていた。

 狭山常務のコメントには、「業務推進上必要不可欠。早急に」と短いながらうれしいコメントだ。


 3人から上がってくる報告書を見ると、営業管理課が機能しなくなって以降、会社の資産管理台帳との矛盾、請求書の支払いに矛盾が多く出ていることに気が付いた。


 ここにきて、営業管理課の仕事は一気に増えた。

 まあ、ゼロからスタートではあるが、負の資産の処理と、本来の業務が再開されたことに、他部署も気が付き、新規業務が増えていった。

 皆の帰りも、10時を優に過ぎ、社内の照明も一番遅くまでつくようになった。

 隣のシステムの外注さんたちは、開発のピーク以外は、定時上がりだ。


 タブレットpcは、思ったより早くやってきた。

 情報システム部の橋元が様子を見るかのように、持ち込んできた。

「おう、元気か。」

 橋元は、笑顔に愛嬌がある、細身の背の高い男だ。

 大学時代には、バレーボールで名を知られた人間であったが、4年の時に膝を怪我して、バレーを諦め、一般企業に就職した。

 身長 192センチの橋元の両脇に抱えられたタブレットは、玩具のように小さく見えた。

 タブレットは、キーボードが折りたためる機種で、パソコンにもなる優れものだ。

 CPUはcorei9メモリ16ギガ 64ビットだ。OSも最新のものだ。

 皆の喜びは半端ではなかった。夜遅くまで残っているのも、それまで3人が使っているパソコンは、1台しかなく、誰かが使い終わるのをまってから作業を始めるものだから、何時まで経っても仕事が終わらない。

 これで皆、2,3時間は早く帰れそうだ。そうそう飲み会もやらなきゃならないしね。そう大川は思うと、パソコンの到着は本当に助かった。

 橋元は、営業管理課の中を興味深げに見渡した。

「入社以来初めて、この部署に足を踏み入れたよ。俺が来るのは隣だけだがね。それにしても、ここに4人とは何とも寂しいね。」

「橋元、ありがとう、うちにしては早い対応だね。どうしたんだ。2、3週間は当たり前だと思っていたのだけど。」

「俺もそれぐらいかかるかと思っていたんだけど、稟議が思ったより早く回って来てね。まあ稟議承認権のある狭山常務と神保副社長、三原会長の承認が押されていたのでね。なにかありかなって思ってね。それにしてもすごいところだねここは。」

「そうだろう、元々は40人ほどいた部署だからね。今じゃ俺を含めて4人だけど、業務が忙しくなってきたら、増やそうと思っているんだ。それより、確か、橋元も無派閥だったよな。」

「まあな。基本、情報システム部は全員、無派閥な部署だから、因みに俺らの同期も無派閥だしね。」橋元は嬉しそうに大川に言った。

「派閥だなんだかんだ言っているのは、部長以上の人間だけだろう。あまり気にならないけどな。ただ、稟議がこんなに早く下りるって、少しは派閥の影響力は否めないな。情報システム部の部長だって、無派閥だろ。」

「彼は、外資系のシステムメーカーからの転職組だから、派閥とは無関係なんだよな。そのおかげで、皆、自由にやらしてもらっているけど、どうやら、最近、奈良山副社長派が、うちの部長の蹴落としにかかっているらしいってことだけど、もし奈良山一派が次期システム部長となったら嫌だな。俺らは専門職に近いから大丈夫だけど。」

「いずれにしてもこのままじゃいけないな。役員会の中で一番勢力の弱いのが会長派だろ。あとは、社長派と奈良山副社長派が拮抗しているし、会長派がどちらかにつくと均衡は一気に決着がつくだろうけどね。まあ3派とも仲が悪いからね。」

「まあ、頑張れよ、同期の誼だ。助けられるところは、全力でフォローするから。」

 橋元はガッツポーズを大川に見せた。

 大川は、橋元に何の力も無いことを知っていた。その言葉が、一番頼りない人間が口に出す方便であることも知っていた。

 大川は、素直にその言葉に頷いた。


 橋元がこのフロアから出ていくと、急に静けさが戻ってきたようだ。

 この広い空間に、やたらと3人のタイピングの音が響く。

 橋元と大川の会話は、皆には聞こえていたようだ。

 少し、皆の顔に明るさが戻ったような気がした。

 それまでの死んだ魚のような絶望的な様子は、無くなったようだ。

「岡沢さん。今日、飲み会だったね。場所は大丈夫。」

 3人のパソコンに向かう顔がこちらに向いた。

「ええ、美味しい店を予約しました。このビルから200メートル先にあるお洒落な居酒屋です。個室ですから自由に話が出来ますよ。ただ、少し予算が6千円ほどになるのですが。」

「いいよ、今日は俺のおごりだから、会社に気兼ねなく飲めるから。」

 安西と多賀とがお互いの顔を見渡して、ガッツポーズをした。

 予算は3万円ぐらいかな。少し懐に厳しいが、これは一つの儀式みたいなもんだと割り切った。


 その日は比較的電話の数も少なく、7時にはあがれた。金曜日とあってどこの部署も早く帰るのに躍起だ。

 最近では労働基準監督署が厳しくなって、企業規模が大きくなればなるほど、残業に厳しくなってきた。

 それでも労働基準監督署と言う部分で言うと、この会社はまだまだ戦前の体質を色濃く残している。

 変革を考える人は、これまで居なくはなかったが、決して表舞台に出ることは無く、葬り去られてきた。

 最近では労働基準監督署がしっかりと守られているかが、企業イメージを左右する。

 不法残業で、自殺者まで出した日には、企業トップの責任は、拭いきれなくなっている。

 優良企業ランキングと不良企業ランキング、大企業は格付けされる。

 この会社の実態を知らない公表された情報では、優良企業の一番最下位にランキングされている。国はわかっていない。無派閥の社員の本音だ。優遇されているのは、派閥に属している社員だけだ。

 小さな会社だと、そういう訳にはいかず、企業へ無償の奉仕を強いている。


 自由平等博愛のもとで、フランス革命は、起こった。

 果たして人類はそれらを得たのだろうか。

 確かに、能力の上では、一部の国の中で社会的に、実現しつつあるが、企業に属す人々は、企業のヒエラルヒーの中で、あがき苦しむ。

 人生の殆どを費やす会社生活での自由平等博愛はまだまだ発展途上だ。

 いつか、ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」のように三色の旗を掲げた女性が先頭に立ち、背広を着こんだ会社員を引き連れた革命が起こって欲しいものだ。


 夜の都心、街路樹は黄金のイルミネーションで装飾されそこを多くのカップルが、腕を組んで通り過ぎる。

 岡沢を先頭に、大川、そして安西と多賀が並んでついていく。

 イルミネーションが途切れるあたりで、コンクリートの螺旋階段を上った上に古めかしい引き戸のついた居酒屋に着いた。

 ゴロゴロと言う音とともに、引き戸を引くと、中はびっくりするほど広く、天井は優に3メートルはあろうかという程高く、異国に来たかと思えるほど、外人で溢れかえっていた。

 調理場は、全面ガラスで覆われ、調理している様子が、外からでもよく見える。

 焼き物は、備長炭で焼かれ、時折、調理人がガスで熱した備長炭を数多く並べられたコンロに継ぎ足していく。

 その雰囲気に、大川を始め、安西や多賀は圧倒された。

 岡沢は、何回か来ている様子で、三人を勝ち誇った様子で、三人を見た。

 料理は、超和風で、余りにも和風過ぎて、違和感を感じてしまう。

 お通しは無く、これはここのお客の殆どを占める、外人向けだ。

 そう言えば、ガラス越しの調理場でも、明らかなコーカソイド、モンゴロイド、ニグロイドが入り乱れて、調理している。

 手つきは、日本のベテラン調理人と変わらぬように見える。

「ここは日本に駐在する外国籍企業の御用達の居酒屋です。日本人の中では、知られていないのですが、外国の案内にはぜひ訪れる場所として、どのガイドにも載っているようです。」

 薄暗い仄かな灯りの中で、多くの人々が行きかい、まるで徘徊するかのように、お互いに声を掛け合っている。

 その熱気は、居酒屋で感じたことのないほど、暑かった。

 まずはビールだな。

 4人はビールを頼むと、英語、フランス語、中国語、日本語で書かれた写真入りのメニューを広げた。

 値段は、普通の居酒屋より、若干高く感じたが、立地等の条件を考慮すると、妥当に思われた。

 グループ毎に間仕切りがあり、それが20部屋程、調理場に向かって、30人ほどのカウンター席がある。

 両隣のブースには、アメリカの商社マンらしいグループと、香港からの家族旅行のグループのようだ。

 ここでは、どんな会話をしようと、誰も気にすることは無いだろう。

 ビールが運ばれてきて、乾杯が始まった。

 料理は、岡沢が気を利かせ、コースだそうだ。

 最初は、ボールに千切り大根とツナをマヨネーズとサラダオイルで混ぜ合わせた特盛だ。

 各人の皿に盛りつけると、サラダオイルが少しの灯りの中で、きらきらと光る。

 一杯目が皆の胃の中に消えていき、そして二杯目になるころ、大川の提案で、自己紹介をしようじゃないかということになった。

 大川は、口火を切った。

「プロジェクト推進部から転属となった、大川です。ここに昇進して来たことは、決して栄転とは考えていません。それどころか、左遷されたつもりでいます。新卒で入社し、5つほどプロジェクトにかかわってきました。無派閥ですが、ここを少しでも良い環境にしようと頑張るつもりです。皆の協力が必要です。よろしくお願いいたします。」

 大川の噂は、社内では伝説となっていた。

 不可能と思えるプロジェクトを様々な妨害に会いながらも突破して完遂する姿を、一部では英雄化する者も出るほどだが、別の噂ではそれを妬む人間が数多くいて、ワンマンだとか周りに当たり散らすだとか、手柄を独り占めするだとかという人間が絶えなかった。

 ここ、1週間ほどの大川と接して、3人はその伝説は信じても、残りの噂は決して本当ではないと思えた。

「大川さんは会長派だと思っていました。このところの稟議書は全て、会長派決済でしたね。」

 はす向かいに座っている多賀が言った。

「ああそれはね。ここへ来る際に、狭山常務に相談するように言われたのと関係があるかも。」

「狭山常務は会長派だね。」

 安西がこの会社の内情を良く知っているかのように言った。

「そう言えば、多賀さんは、会長派の藤堂副社長と知り合いかな。」

「私自身は、知り合いではないんですが、親が会社を経営していて、その付き合いの知り合いという関係でして。決して、何か特別な知り合いというわけではないのです。」

 多賀は、そう過大に期待をされては困るというように目を伏せた。

「多賀さんの親って会社の社長なんだ。」

 岡沢が、驚いたような声を出した。

「まあ、本当に小さな零細企業だけど。」

 多賀はさらに、肩をすぼめていった。


「それじゃ、私が次ですかね。」

 安西が、テーブルを時計回りに指を回しながら順番を決めるように言った。

「安西友則です。出身大学は、西海大学の理工学部です。元々情報システム部の出身です。

 橋元主任のシステム運用課とは違い、開発課にいました。営業管理課には3年前に配属となりました。当然ではありますが、無派閥です。なぜここに居るかって言うと、社長派の村山専務に嫌われたからです。」

「すごいな、そんな頂上の役員に嫌われるんだ。そりゃ大物だ。」

 多賀が茶化して言った。

「ごめん、言い間違えた。社長派の白石課長の開発プロジェクトでチョンボしちゃってね。責任とれって毎日のように言われ、結局、異動するまで日課のように、私の席までやって来ては、嫌味や責任とれって言われてね。噂では、借金だらけだとか、女癖が悪いだとか陰口を言われてね。まあ、営業管理課に来て大分静かになったようだけど、あのやり方は、ひどい。いっそ労働基準監督署に駆け込もうかと思ったくらいだけど。白石課長が村山専務がお前を嫌っているって言うもんだから。」

「今まで、僕らは、一緒に飲んだり話したりしたことは無かったけど、安西君も社長派からの睨まれ口か」

 多賀が突然、嬉しそうに言った。

「それじゃ僕の番かな。僕は多賀俊也、世に言うブラックなIT企業からの転職組です。安西君や大川課長とは違い、一般職の入社です。ゆくゆくは親父の社員20人ほどの中小企業を継ごうと思ってます。まずは武者修行と言うことで、勉強をさせてもらってます。中野坂上ビジネス専門学校卒です。入社して試用期間終了後すぐにこの部署にやってきました。当初は、八島工場の施設保全課だったのですが・・・まあ用無し扱いで、ここに来てすでに2年間が過ぎようとしています。無派閥ですが、一応社長派と言うことになっています。」

 一応と言うのは、コネの件だろうなと大川は思い、隣に座っている岡沢に挨拶を促した。

 そのタイミングで、和風グラタンが運ばれてきた。それぞれビールのお変わりを頼んだ。

 グラタンは、味噌バター風味のきのこと鱈が入った逸品だ。

 スプーンで口に運ぶと、微かに味噌の匂いが鼻を刺激する。

 口の中に、ゴーダーチーズの独特の味と匂いが広がる。

「私は岡沢咲子と申します。藤が丘女子大で、一般職の入社です。中途ですが、最初は契約課にいました。当時。契約課の課長は社長派の白石課長でしたが、パワハラとセクハラをする人で、余りのことに村山専務に話をしたところ、翌日にはこの部署に配属になりました。この部署にいた女性たちも、白石課長から同じような目にあっていたそうでした。」

 岡沢の目から涙がこぼれ落ちた。

「契約課の白石課長と言うと、今や社長室の室長をしている彼かな。」

 大川と白石は年齢が7つ違いの白石が上になる。

 課長・主任会が年に一度開かれるが、その中で、同じテーブルに座ったことがある。

 黙っているといい男に見えるのだが、口を開くと口が歪み、そこから発せられる言葉は、べらんめえ調で下品この上なかった。

 一瞬にして、不快な気持ちにさせられたのを覚えている。

 企業の面白いところは、決して生真面目な人間が出世することは無いということだ。

 どちらかと言うと、粗野で下品な人間ほど上に行く傾向にある。

 何故経営者はそういう人間を選びたがるのだろうか。

 どうやら、この会社のダークサイトは、社長派の連中のようだ。

 今迄、仕事に夢中で、周りを見回す余裕が無かったが、虐げられている人たちは良く会社を研究している。

 M&Aでやってきた奈良山副社長派とはうまくやっているようだが、やはり会長派を出し抜こうという話が大川のもとにも、まことしやかに伝わってくる。

 岡沢がハンカチでしきりに涙を拭いている。

「課長、僕らを助けてください。」安西が大きな声で言った。

 大川は、余りの声の大きさに、静かにと言う風に、周りを見渡しながら人差し指を口に寄せた。

「僕らは課長が多くのプロジェクトを成功させてきたのを聞いています。今じゃ社内の若手の伝説的なヒーローとなっています。無派閥だけど、上と堂々と渡り合って、実現していくとね。課長が左遷されたって噂が流れましたが、僕らには変わるきっかけになると内心うれしかったです。どうか僕らを助けてください。」

 岡沢も多賀も大きく頷いた。

「いやあ、俺には君らを助けるなんて、そんな力なんか無いしね。でも、やれることはやろうと思うけど。まずは、レコンキスタだね。」

「レコンキスタですか?」

 多賀が不可解と言う風に聞き返した。

「そう、失地回復だ。どうやら業務規程を見ると、営業管理課は解体状態だね。そこでだ、まずは4年前までやっていた仕事を全て取り戻そうじゃないか。それと、何故、本部の営業管理課がこんな状態になったのかを調べてみようと思う。その結果として、君らを救うことになるのなら本望だね。」

 大川には、実際、社長派と渡り合う勇気はなかった。だた、今のままじゃこの3人はきっと近いうちに辞めていくだろう。まあそうなると、大川自身もそうせざるを得ないだろう。

 ドン、と太鼓の音が店中に響き渡った。

 この店のイベントのようだ。2階には大太鼓が一つと小太鼓が5つ、それぞれ女性が打ち鳴らしていた。

 その音の大きさにびっくりした。激しい音がかき鳴らされる。

 そのリズムは、店全体が揺れているように感じられる。沢山のフラッシュがたかれ、その演奏に客たちが群がっていた。

「ここにきて、仕事が半端ない程、増えてきているのは、それもレコンキスタの一環ですか?」

 安西が、身を乗り出し太鼓の音で声がかき消されないように大川に聴いた。

 大川は、にこやかに笑いながら、大きく頷いた。

 月曜からは、更に忙しくなるだろう。

 営業管理課の印鑑なしには、契約が出来なくなるように、楔を経理部に打ったし、発注・清算も、業務規程書を盾に、各部署に通知したし、まあ、多分、社内中のクレームが押し寄せてくるだろう。勝手に各セクションがやっていたことは、稟議すら通っていないことだから、承認印を押すことが出来なくなるのは健全化にもつながる。

 契約と清算を抑えれば、無駄がどれだけ多いか、気づくはずだ。土日でこの4年間で無駄となった金額と対象を洗い出さなきゃ、それこそ社内クレーマーの餌食となってしまう。

「それにしても、最初、どんな人が来るのかと戦々恐々としていたんです。噂じゃ、若手からは英雄扱いで、上からはとんでもない極悪人との評判で、実際に会ってみると、優しく思いやりがあって、それでいて、来てすぐに電話が止まなくなるなんて、ここに来てこんな状況は営業管理課始まって以来の出来事です。」

 多賀が、嬉しそうに言った。

「そうそう、今までは、飼い殺しで、他部署からはお荷物と思われて、まあ実際声に出して罵られることもあったし、少し自信がついてきました。」

 太鼓の音に合わせるように、安西が、ビールを飲み干して言った。

「おかわり。」

 来週からは大変になりそうだ。


 大川は、7時には会社にいた。

 過去4年間の処理を昨日までに終わらせ、おかしな点が沢山あることに気が付いていた。

 社内の不動産が、知らぬ間に関連会社の名義に書き換えられていて、その後第3者に格安で譲り渡されていた。

 担当者の印鑑は、現在社長室室長の白石となっていた。

 その右隣の印鑑欄には、当時営業管理課の課長をしていた田野峰の印鑑が付かれていた。

 田野峰は丁度この契約の直後に、辞職をしていた。

 どうやら、この契約が営業管理課を駄目な部署に追い込んだようだ。

 それ以外にも、多くのグレーゾーンと見なせるような契約が次から次へと現れた。

 まずは、最初の契約からだと、大川は思い調べ始めた。

 営業日誌には、田野峰とこれももう既に辞職している営業管理課の川上がその契約に同行していた。田野峰は、辞職後、越後屋交通の子会社の越後屋不動産の社長に就任していた。

 14:00関連不動産会社の取締役と面会。

 不採算駐車場の売却を検討。

 時価総額18億円。購入希望価格は16億円。

 昨年全面舗装済み、現在、社員マンションの駐車場で利用、主に西棟の社員が利用中。

 利用率20% 東棟の駐車場がマンション傍にあるため、社員の利用は限られている。

 主に、来客用に利用とのこと。

 関連会社であるなら16億もあるかなと大川は思い、次の冊子をめくった。

 関連会社の資産運用簿だ。日付は、購入後の半年後のものだ。

 川上が、何故次の冊子に敢えて目に付くように置いていたのか。営業管理課としては、関連会社の管理する

 立場だから、あっても不思議ではないのだが、余りにも解せなかった。

 帳簿を見ると、田野峰と川上が契約に同行した日以降に、16億の不動産の購入歴も資産計上もされておらず、越後屋交通に5億ほどの不動産売買契約が駐車場契約で売り渡されていた科目があるのみだった。

 現場を見る必要があるな。

 ホームページで越後屋交通を調べてみると、代表取締役は、越後社長の弟だった。

 越後屋交通は子会社でも関連会社でも何でもない都内の中堅輸送会社だった。

 やはりここに何かあるな。

 そう大川は思い、川上の残していった資料を読み漁ると、同じような事例が次から次へと出て来た。

 そろそろみんなが出社してくる時間だ。

 各人の営業日誌を机に並べる。

 出社した社員は、課長席から営業日誌をとって業務に入るのが決まりだ。

 営業日誌の一番下に、川上の日誌があった。

 大川は、それを手に取ると、読み始めた。

 川上が、田野峰と共に行動した詳細が克明に記載されていた。

 この営業日誌は、誰の目にも触れられずに、この机に眠っていたのだ。

 川上の営業日誌の最後の記載に、「私は脅されている」で終わっていた。

 昔、リクルートの江副社長が、企業の寿命は30年だ。といっていた。

 当社は、既に100年を超えようとしている。

 日本を代表する企業の一つだ。

 そういう意味で、この会社は寿命を3回まっとうしていることになる。

 会社は、人とひととの集まりの上で成り立っている。

 全ての人が悪人とは限らないが、ほっておくと悪いほうに人は流れるようだ。

 悪でも、質が悪いのは、悪人は悪人を呼ぶということだ。

 善人は淘汰されていく。

 まあ、原理としては才能がないものが上に立つと、それ以上の社員は育たないという法則があったはず。

 それに近いかな。

 おかしな伝票や越後社長の不可解な稟議書のコピーは、次から次へと出て来た。

 川上は、いずれ誰かに気が付いてもらえるようにまとめたのかもしれない。

 去年の当社の決算では、収支トントンではあるが、企業の決算報告書の内容など、本当にあてになるものではない。

 資料で確認できてわかるのは、田野峰がダークサイドに落ちていることがわかった。

 えらいことを知ってしまった。

 どうやら田野峰や越後社長は、この会社を自儘にしているようだ。

 それも誰がジェダイの騎士なのかさっぱりわからない。

 M&Aで入ってきた奈良山副社長派は、越後社長派とつるんでいるようだし。

 最近、三原会長と奈良山副社長が急接近しているという噂もある。

 川上の営業日誌の最後のページに、小さく携帯の電話番号が書かれていた。


 大川は、それらの資料を営業管理課の金庫の一番下の目立たぬところにしまい込んだ。

 鍵は大川しか持っていないことになっていた。

 ここなら安全だろう。

 そもそも、こんな重要書類が、営業日誌に紛れていること自体、不思議なことだった。

 誰も気が付かないまま時が流れて、今大川の元にあった。


「おはようございます。」という言葉と共に、多賀、安西、岡沢の順に入ってきた。

 以前とは見違えて、張りのある声だ。

 それぞれ、大川の机の上から、営業日誌を受け取ると、意味ありげに、微笑を投げかけ、すぐさま仕事にとりかかった。

 一本の電話が、営業管理課の広い空間の静寂を破った。

 それをきっかけに、部屋中の電話が、一気に鳴り始めた。

 先週仕込んでいた、営業管理課無しには業務が進まないように元に戻した作戦が功を奏したようだ。

 3人とも、電話の対応にひっきりなしだ。

 その姿は、誰もが会社から必要とされているという輝きで満ち溢れている。

 このまま順調に行ってくれればいいのだけど。


 昼休みに、大川は川上の携帯に電話をした。

 10回程のフォンコールのあと、川上が出た。

「はい、川上です。」

 大川は川上とは面識は一度もなかった。

 その声は、細いがしっかりとした力強い声だった。

「IDBホールディングスの大川と申します。」

 一瞬、電話の向こうで時が止まったのを感じた。

 暫く、沈黙が支配した。

「大川さん?大川さんと言うとプロジェクト推進にいた大川さんですか。」

 驚いたような声だ。

「ええ」

「なぜ、大川さんのようなエリートが電話をかけてこられたのでしょうか。」

「エリート、とんでもない。飛ばされてですね。先週から営業管理課に異動になりました。どうも上の気分を害したようでですね。まあいつものことですからこれも性分とあきらめているところです。実は、川上さんの営業日誌を偶然見つけまして、是非一度、お話をお聞きしたいと思いまして。」

「あれを見ましたか、あまり気にしないでください。出来れば捨てて頂ければと思っていますが。」

 どうやら警戒しているようだ。

「どうでしょう、今日の業後にでも、会って話せないでしょうか。」

「少しだけならいいですが。」

 気の乗らない声だ。

 もう会社を離れたのに、警戒しなければならない話だろうか。

 そもそも、サラリーマンは権力を欲するものだ。会社という封建主義の国家の中で、普通にダークサイドに墜ちる人を見かける。

 権力とお金が自由にできるとなると、ずっと先にそれが明らかになると知っていても、目が眩むようだ。

 大川は自分を振り返ると、多分、悪いことには手を染めないだろうと思う。

 その差は、何だろう。

 テレビでよく映る光景だが、捕まる前の犯罪者がまるで傍観者のようにインタビューに答えている。

 殺人者が、被害者を思いやる言葉。なんとあさましいことか。

「それじゃ、今晩7時に新宿の紀伊国屋1階のエスカレータの前でどうでしょうか。」

「ええ」という言葉と共に、通話が途切れた。

 果たして、川上はやってくるのだろうか?

 その素っ気ない切り方に、ふと川上は、疑問に思った。

 その日の業務は、忙しく目が回るように電話が鳴りやまない。

 夕方に、皆が一息ついたところで、大川が声を掛けた。

「今日、都合で早めに帰ります。」

 皆、大川が何もなく、定時で上がる人間でないと思っていた。

 何かあるなとでも言いたげに、安西が多賀を見た。

 多賀が頷いた。

 二人は立ち上がると、大川の方にやってきた。

「僕らで出来ることがあれば、何でも言ってください。何でもしますから。」

 この手の社員は、相手に対する過度な期待を持つ。

 好ましいとは思うが、期待に添わない結果になったときには、その反発は激しいものとなる。

「おいおい、昨日の今日で何か出来ないよ。お袋の体調が悪くなってね。先日のことは大丈夫。いい方向にもっていくから。でも期待しないでくれよ。皆が思うほどの実力は無いからね。」

 期待してくれなどと絶対に言えない。そう言ったばかりに、大川は嫌な思いも沢山してきた。

 決まって最後に彼らが言うセリフは、「期待してくれと言ったじゃないですか。」だ。

 二人は、笑顔で自分たちの席へと戻っていった。

 まあ、彼らには、秘密は言えないだろうな。

 もし言ったとしたら、暇を見つけて、その話ばかりするだろう。好奇心で一杯だ。

 そうなると、上層部へ話は、超特急で伝わるだろう。

 それこそ、彼らはここにはいられなくなるだろう。それは大川も一緒だ。

 少し、うんざりした様子で、大川は、就業時間の終わりのチャイムを聴いた。

 外は、少し陰り始めてはいるが、まだまだ明るい。

 妙な解放感だ。

 この時間で帰れるのは、社員の多数を占める工場勤務者と、体育会の者だけだ。

 セキュリティで勤務表をかざし、退出する。

 夕焼けが、雲に映えて美しい。

 風が爽やかに通り過ぎていく。

 人の群れの中に紛れて、駅へと向かう。


 新宿は久しぶりだ。

 大学は京王線の沿線で、住んでいたのは方南町だ。

 丸の内線で、新宿まで出て、そこから京王線に乗り換え通っていた。

 その当時、新宿での待ち合わせ場所としては、アルタの前か紀伊国屋の一階だった。

 アルタは人混みが多く、大抵紀伊国屋だった。

 時間は、6時10分、大分早めだ。

 その間、紀伊国屋で本を見て回る。時間はあっという間に過ぎ去る。

 好みの本は、統計や経済の本が中心だ。

 最近では、統計学の本がちょっとしたブームになっているらしい。

 販売部数20万冊とかそういう文言が並んでいる。

 統計学がこんなに売れているとしても、多分書いている内容は、殆ど一緒のような気がする。

 結局、統計学の入門書は、同じ内容の繰り返しなのかもしれない。

 立ち読みしていると、ああこれはあの本で似たようなことが書いていたなとかよくわかる。

 しかし、統計学の本は本当に面白い。


 そうこうしているうちに6時50分だ。

 待ち合わせ場所のエレベータ脇に行ってみる。

 多くの人々が、待ち合わせで待っている。

 その中で、きょろきょろと辺りを見回している背の高い小太りのスーツ姿の男がいた。

 一目で、彼が川上であることがわかった。

「川上さん」大川は、その男に近づくと、尋ねた。

 川上は、大川を驚いたように目を瞬かせ、頷いた。

「よく私だってわかりましたね。」

「ええ、営業日誌の雰囲気がそのまま出てましたから。」

「それじゃ。少しアルコールでも入れながら話しましょうか。もちろん私のおごりですよ。」

 大川は、川上を安心させるように言った。


 二人は、近くにある居酒屋へと入った。

 どこにでもあるチェーン店だ。

 全体が太い木枠で囲み、4席で一つのブースが並ぶ。

 生ビールと焼き鳥の盛り合わせを頼んだ。

「はじめまして。」

 大川が口火を切った。

「実は、IDBの事は忘れるようにしているのです。嫌なことが多すぎましてね。今は、静かに中堅鉄鋼会社の経理をしています。私のようなものにどんな用事でしょうか。出来れば関わり合いになりたくないのですか。」

 大きな体に似合わぬ、怯えるような小さな声で川上が言った。

「わかっています。私は社内のどの派閥にも属していません。つい先日左遷されて4人ばかりの営業管理課に配属になったばかりです。確か川上さんがおられたときには、40人ほどの大所帯だったかと。」

「ええ、確かに大所帯でした。」

 懐かしむように目を細める。

「しかし、社長が代わって、田野峰や村山専務が権力を握ると、営業管理課はどうしてもその影響下で業務を行う羽目になりました。影響下というのは、社長へ利益を誘導するというということでした。私も、加担したように見えるでしょうが、これでも命一杯抵抗したつもりでした。それを知った社員は、社長派から嫌がらせを受け、次からつぎへと辞めていきました。辞めていった社員たちとは今でもたまに飲むのですが、皆、当時のことは忘れたくてたまらないのです。私ですら、パワハラを受けていましたし、命の危険すら感じていました。私が完全に辞めようと思ったのは、一人の女子社員が田野峰のパワハラに耐えかねて、自殺を試みたからです。どうにか未然に食い止めたのですが。」

「今の営業管理課にも、社長派の白石にセクハラを受けた女性がいますよ。社内中にあらぬ噂を立てられてね。田野峰は、今は会社を辞職し、小さな不動産会社の社長になってますよ。」

「その不動産会社は、越後屋不動産でしょうか。」

「ええ」

「その会社こそ、IDBホールディングスを食い物にしているトンネル会社です。」

 ということは、今でもそれが続いているということか。

 大川の中に社長派への怒りがこみ上げてきた。

「実は、今でも彼らから脅されているのです。」

 大川は、驚いて手に持ったジョッキを落としそうになった。

「何のために脅しているのでしょう。」

「時々、やくざ風の男がやって来ては、当時の資料を渡せと迫ってくるんです。シュレッダーにかけたと何度言っても聞きやしません。その上、先日は家に泥棒が入りまして、まだ犯人は捕まっていないのですが、散々荒らされて、盗まれたものは、貯金通帳のみでした。多分、そのやくざ風の男が絡んでいると思っているのですが、大川さんも気を付けてくださいね。これ以上この問題に首を突っ込むと、私と同じ羽目になりかねません。」

 川上は、本当に人の好い性格で、その性格が社長派に狙われたのだろう。

「資料は、大川さんの見つけたもの以外に、金庫の下に隠しています。あの重さじゃ誰も引き出せないのですが、ただ壁の後ろに、丁度手のひらが入る隙間があるのです。下まで手を通すと紐があるので引っ張ってみてください。A4の封筒が出てくるはずですのでその資料が決定的な証拠です。その資料は、彼ら全員が社内の不動産を格安で購入して転売したという実態が書かれています。その資料を大川さんがどう使おうと私の知るところでは無いのですが、社長派に渡そうが、シュレッターにかけようと、自由にして下さい。これで私の気が晴れました。この話は、これまでとしましょう。」

 そう言うと、川上は、ビールのジョッキを飲み干し、日本酒をたのんだ。

 その後の話は現在のそれぞれの状況や他愛のない話で意気投合し、遅くまで酒宴は続いた。

 それにしても、川上は本当に小心者ではあるが、気の好い男だった。

 別れ際に、川上が「くれぐれもお気をつけてくださいね。」と意味ありげに言った。

 大川は、少し不安を感じつつ静かに頷いた。


 翌日、大川は社長室に呼ばれた。

 つけられたかな。入社以来初めて社長室に入る。

 さすがに社長室は広い。

 袖長の机に大きなベージュの椅子が窓の外に向いていた。

 手前には、黒革のソファと一人掛けの椅子が二つの応接セット。

 ソファには、足を組んだ村山専務と、畏まって座っている白石社長室室長がいた。

 白石が、大川を椅子に座るように促した。

 大川は、入り口に近い一人掛けの椅子に腰を下ろした。

「大川君、ここに呼んだのは、心当たりあるかね。」

 村山専務が、その太い唇の脇に、唾をためながら、尊大な口調で口火を切った。

 大川にとってその太って濁った眼の村山が本当に苦手であった。

 廊下で顔を合わせても、少し会釈をするくらいで、殆ど初めて顔を合したようなもんだ。

「何のことでしょう。」

 大川は、川上に会ったことだと知りつつも、とぼけて見せた。

 村山は、手に持った資料をめくりながら、大川を見比べた。

「ほう、明応大学か、いい大学だ。確か、会長も明応大学だったんじゃないかな。まあこの会社には、学閥があるというが、君もその仲間か。」

 村山が白石と目を合わせながら言った。

 学閥、この会社に学閥があるというのは初めて聴いた。あったとしても大川には何の意味も持たないと思った。

「君の社内での実績は凄いものだな。人物的にはC評価だが、実績は特Aときている。大抵人物がC評価だと実績はそれ以下になるのだが。」

 相当上司に嫌われてたんだな。

「ほう、君が主幹したプロジェクトは、どれもうちの看板プロジェクトか、凄いもんだ。特Aをつけたがるのも頷ける。」

 どうやら村山の手元の資料は、人事考課表のようだ。

「実は、以前問題を起こして辞めていった人物がいてね、川上と言ったかね。」

「はい、川上です。」

 白石が、知り切った芝居をうつ。

「その人物と昨晩会った社員がいるのだが。」

「ああ、それですか、それは私です。以前の業務管理課の仕事内容を確認しようと思いましてね。大した話はしていないのですが、楽しくお酒を飲んだのですが。もう彼が辞めてかなり経過していますが、それほど、気にしなければならない程の人物だったのですか。」

「いや、そういう訳では無いが、もし問題人物と接触して、同じ問題を起こされてもと思ってね。」

「彼はどのような問題を起こしたのでしょうか。私には気の弱い、誠実そうに思えたのですが。」

「彼が誠実かって、何を言うんだ。彼は体制をひっくり返そうと企んだ人物だぞ。」

 大川はびっくりしたような顔を見せた。

「もし、彼から何か聞きだしたのなら正直に言うんだな。必要も無く、辞めていった者に会うことはあるまいし。これは、本当に問題だ。」

 その言葉に、それまで窓の方を向いていた社長の椅子がくるっと回った。

 その形相は鬼のように、大川を睨み付けた。

 何とも言えない、冷たい目だ。

「おい、お前、この会社で悪いことを企てる気があるのなら、本当に覚えとけよ。決して許さないからな。」

 越後社長のその言葉の中に、追い詰められたような焦りを大川は感じていた。

 このメンバーでこの場で、話されていたことが、容易に想像できた。

 まあ、この会社で悪いことを企てるか、それは、越後社長それは貴方じゃないのですか。

 大川は、心の中で思った。

「私は、会社に誠実に仕事をしてきたと思っています。今後ともそのつもりで、仕事をしていきます。口が悪いので、評価は悪いですが、今を上手く仕事ができる状態にしたいと考えての川上さんと話しただけです。それは安心していただいて大丈夫と思っております。これからも会社に誠実でいたいと思っております。」

「わかった。その言葉を信じよう。」

 それにしても冷たい声だった。

 その冷たさは、決して人を信じているという声ではなかった。

 大川は、一礼して、その場を去ろうとした。

「ああ、それと大川君、君にこの会社で将来は無いからね。一生課長どまりだから、その点了解しておくように。」

 村山専務が、追い打ちをかけるように言葉を投げかけた。

 まあ、大川にとって出世などどうでもいい話だ。

 再び、一礼して、地下の営業管理室に戻った。


 何やら騒がしい。

 大川が入っていくと、安西が駆け寄ってきた。

 岡沢と多賀は、その光景を呆然と見ているだけっだった。

「課長が社長室に呼び出された後、管理本部の連中が、入り込んできて、片っ端から、何か探し始めて。」

 探しているメンバーは、総務部、人事部、経理部、秘書室、情報システム部のメンバーだ。

 その中には、大川の同期の橋元の姿もあった。

 橋元は、照れくさそうに大川に近寄ってきた。

「イヤーごめん、俺まで駆り出されるとは思ってもみなかったよ。」

「いったい何を探しているんだ。」

「なんでも、以前この部署にいた川上さんの営業日誌や関連資料だそうだ。まあ川上さんの印鑑やサイン、直筆の物は全てと言うことでね。すまないね。一体、何があったというんだ。」

 大川は、その状況に返す言葉も見つからなかった。

「あったぞ。」

 総務部長の誇らしげな声があたりに響いた。

 金庫のところだ。

 まずいな、最後の切り札が見つかったか。

 総務部長の右手に抱えている資料は、金庫の一番下に隠した川上の営業日誌だった。

 確かに社長グループの不正を暴くには、決定力にかけるが、その実態を知るには十分な資料だ。」

 周りの人間が集まり、総務部長の功績をほめたたえた。

 橋元は、肩をすくめて大川を見た。

「まあ、気にするなよ、俺はいつだってお前の味方だから。」

 そう言うと、大川の肩を二度ばかり軽くたたいて、自分の部署に戻っていった。


 彼らが、意気揚々と去っていった後には、大川、安西、多賀、岡沢が残された。

 誰もが、不安気な様子で、大川を見ていた。

「大丈夫、気にすることは無いよ。さあ、いつも通りに仕事を続けようじゃないか。」

「でも、これは社長に対する反逆と思われたんじゃ」

 多賀の不安がひしひしと伝わってくる。

「そうかもしれない。でもそうだとしても、君たちは何もしらないはずだ。今回の責任は全て私にある。気にすることは無いさ。さあ席に戻った、戻った。ほら、電話が鳴っているじゃないか。」

 大川は、手で彼らを追い払った。

 彼らは、しぶしぶ大川の指示に従った。


 見つかったのは、営業日誌だけだ。確かに、川上の営業日誌は彼らの行動を裏付ける重要な書類だが、決定的な証拠は金庫の下にある。


 この件で大川は、この会社で、誰が味方で、誰が敵なのかは全く分からなくなった。

 社長派は、副社長派と懇意だというし、社長派は、会長派と通じているという。

 明らかなのは、大川はいつ首になってもおかしくない状況にあるということだ。

 近いうちに、左遷の辞令が下るだろう。

 東北か、九州か。

 本社で、営業管理課以上の底辺は無いから、多分、そうなるだろう。


 その晩、大川は、皆が帰った後で、金庫の裏に手を差し込んだ。

 その狭い隙間は、思った以上に狭く、大川の手では入らない。

 ロッカー室から針金のハンガーを長く伸ばし、金庫の裏に差し込んだ。

 その先にある、紐に引っかけて引っ張ると、薄い茶封筒が姿を現した。

 その中は、社長と越後屋不動産との売買契約書とその後の転売の念書の原本があった。


 社長が必死になって探していたのは、この原本だ。

 大川は、内ポケットに丁寧にしまい込んだ。


 もしかして、これが公になることは無いかもしれないが、ここに置いておくよりは、安全だろう。

 越後社長の蛇のような冷たい目が、瞼に浮かぶ。

 明日から辛い日々になりそうな予感がした。


 大川が辞めていった川上と会ったことや業務管理課に手入れがあったことは、会社中に知れ渡っていた。そして、総務部長が英雄に祭り上げられていた。


 大川が廊下を歩くたびに、出会う社員が、まるで犯罪者を見るような目で、睨み付けてくる。

 また、聞こえよがしに「大川はもう終わったね。次は車両課かな。」言っている者もいる。

「総務部から、明日には異動の内示が出るんだってよ。それも平に落とされてね。」


 総務部は会長の管轄だ。総務部長の中塚の活躍による社長派と会長派の接近は、完全に大川を孤独にした。それまでは、会長は少し、社長派の牽制する存在と思っていたのだが、どうやらそれも無くなったようだ。


 安西や多賀、岡沢は気を使ってか、出来るだけ大川を避けるようになった。


 心が潰れるような感覚が大川を襲った。呼吸が苦しくこれまでに味わったことが無い感覚だ。こんな大企業で、こんなことになるなんて入社した時の夢いっぱいに抱えていた希望が全て失われていくようだ。

 今迄、多くのプロジェクトを手掛けて来た。

 その中には、気の合わない同僚や先輩もいたが、そんなのは何の苦も無く、無視することができた。

 だが、今回は、完全にそれらとは全く違った感覚だ。

 途方もない重い重圧で、大川の首を絞めつけるような、そんな感覚だ。

 思わず、今まで多くの人が大川に言ってきた言葉が、心の底に浮かんだ。

「たすけてくれ。」

 そう思いつつ、誰かが大川の立場を理解しているとは思えなかった。

 大川は、そう言ってくる人がどのような状況であるか、いつもわかって接して、手を差し伸べていた。

 その立場になって、大川の状況を知るものなどいなかった。

 そうなると、誰もが興味本位に大川のことを、悪しざまに言うようになってきた。

 それも極悪人としてだ。どうやら大川は、社長に生意気な暴言を吐いたようだった。


 そんな胃の痛くなるような日々が続いた。

 机の上の卓上電話が鳴った。

 大川が出ると、それは総務部長の中塚だった。

「先日は、忙しい中、本当に家探しして申し訳なかったね。実は、明日、取締役会があるのだけど、その中で君の人事の話が出るはずなんだ。発表までは未だ先だけど、君は間違いなく異動の対象となる。着任して間もなくて申し訳ないのだけど、覚悟してもらわなければこまる。それと、会長が最後に、君と話がしたいそうだ。多分、例の事だろうけどね。社長相手じゃさすがの君も、今回ばかりは打つ手なしだね。」

 電話の向こうから嬉しそうで、嫌味な声が聞こえてくる。

 胃を鷲掴みにされるようだ。

「すぐに会長室に来るように。」

 中塚の電話を置く音が、営業管理課内に響き渡った。シーンと静まり返り、緊張感が支配した。


 会長室は、28階にある経理部、総務部、財務部の奥の部屋にあった。

 その部屋にたどり着くには、それらの部署の好奇心に満ち溢れた、目をかいくぐらなければならなかった。


 総務部にたどり着くと、中塚が待ってまっしたとばかりに、立ち上がり、満面の笑みを浮かべて、大川を迎え入れ、手招きで会長室へと案内した。


 会長室は、社長室と比べて、比較的狭く、部屋中の棚には本が並べられ、知的な雰囲気にあふれている。

 会長の三原は、老眼鏡の上から大川を、睨むように見た。

 越後社長ほどではないが、その目は冷たく、選ばれた頂上人の目だった。

 大川は、会長の前に立つと、もうこの会社にはいれないことを察していた。

 会長の横に仁王立ちしている中塚のにやけた面が、憎らしい。

「越後社長から顛末を聞いたよ。相当な暴言を社長に吐いたそうだが、君はこの会社に居たくないのかね。」

「新卒で入社していらい、必死に働いてきました。社長に暴言は、言ったつもりは全くないのですが、どこからそのような話になったのでしょう。ただ、気持ちはもうこの会社には居れないんだなと思っております。後日、中塚部長宛てに退職届を出すつもりです。」

「そうか、残念だな。君ほどの優秀な人材が、この会社から出て行ってしまうのは。明日、取締役会があるんだ、君の辞表の件はそこで議題にあげるとしよう。君を僕は相当、次の世代として期待していたんだが、本当に残念だ。そこでだ、君はあの営業日誌以外に持っている物があるんじゃないか。越後社長が必死になって探している物なんだが。」

 三原は、そういうと、老眼鏡を外して、大川を見上げるように、椅子に深く座りなおした。

 やはり、越後社長と三原会長とは同じ穴のムジナだったのか。

 もう辞めるつもりだ、川上が必死になって守ってきた資料ではあるが、大川は、早くこの会社とあとくされなく、決別しようと思った。

 心の中で、川上に詫びをいれながら、右の内ポケットにいれていたあの契約書の原本を差し出した。

 三原は、それを受け取ると、中身を確認した。

「ほう、これは越後社長も必死になるわけだ。これで越後君もほっとすることだろう。それと、君の辞表は、来週月曜日にでも僕のところまで持ってきてくれたまえ。」

 大川は、三原会長と中塚部長にお辞儀をし、出ていこうとした。

「ああ、大川君、退職の件は、辞表を私に出すまでは絶対誰にも言わないように。」

 三原は、周りに与える影響を考えてか、そう言った。

「わかりました。」


 会長室を出ると、それまで張りつめていた気持ちがふっきれ、楽になるのを感じた。

 もう恐れるものは何もなかった。

 明日の取締役会での話は気になるが、それももうどうでもよかった。

 次の就職先は見つけるのが大変になるだろうな。

 きっと、大川のことを良くは言われないだろうな。


 営業管理課に戻ると、葬式のような静けさだった。

 3人とも顔を上にあげることもせず、ひたすらパソコンに向かっていた。

 営業管理課は解散かな、そんな雰囲気だ。

 静かな時が流れる。

 今日は、殆ど電話はかかってこなかった。

 来た当初の営業管理課そのものだ。

 安西が、しびれを切らしたのか、立ち上がり大川のもとへ歩み寄った。

「課長、会長に呼ばれたそうですが、どんな話だったんですか。もし、課長の身に何かあったとしたら、営業管理課はどうなるんですか。」

 いつにない強い口調だ。

 新卒で入った安西にとって、この会社が全てだった。

 左遷されて、この部署に来ても、実は愛社精神が一番あるようだ。

 また、自分の身の置き所も気になるようだ。

「それは気にしなくてもいい話だったよ。営業管理課はこのままだ。君たちも気にすることは何もないさ。噂は勝手に聞き流していればいいさ。あまり低俗な輩の話を鵜呑みにしないように。」

 他の二人にも聞こえるように言った。

 ありきたりの話だった。あまりにありきたり過ぎの会話に、少し嘘くささも感じとれる。

 時は静かに流れていく。


 翌日は、昨日の静けさが嘘のように、忙しかった。

 取締役会があるせいか会社中が慌ただしく、まるで何かの変化があるかのようだ。

 12時になり取締役会が開催されるとピークとなった。

 取締役会が12時に開催されるのは、ランチョンだからだ。

 その代わり時間は長く通常、3時間程行われる。

 業績報告と経営方針、人事と多岐にわたる。

 社長室の隣の会議室で行われ、その扉の前の廊下には、

 部長たちがいつでも呼ばれてもいいように、資料を片手にずらりと並んでいる。

 彼らにとって、ここに並ぶのがステータスとなっていて、次の取締役以上の候補者であり、その並ぶ順番も、おのずと競争となっている。

 私語は厳禁である。以前、私語をしているところを咎められ、降格された者がいたらしい。

 もう何十年も前らしいが、それが伝説となり、そういう決まりとなったようだ。

 まあ、呼ばれなければ、活躍の場を取締役たちにアピールできないのだが。

 2時半に総務部の中塚が呼ばれ、他の部長に一瞬目をやり、誇らしげにに中に入っていった。

 その姿を、他の部長連中は羨ましそうに見送る。

 中の声は防音で全く聞こえない。

 暫くして、中塚が青ざめた表情で慌てて会議室を飛び出していった。

 その形相の凄さに、果たして中で何があったんだろうと、互いに顔を見合わせた。

 会議室の中からは、一切、声は聞こえてこない。


 10分ほどで、中塚が戻ってきた。その背後に、大川の姿があり、まるで中塚が警官で大川が犯人のように皆に映った。

 今の議題は、先日の捜索の件だなと部長たちは思った。

 これは大川の奴、確実にくびだな、廊下に資料を抱えている誰もがそう感じた。

 大川が、中塚に手を引かれて、恐るおそる会議室に入っていった。


 中は、ゴシック調の雰囲気で、照明も幾分暗めだ。

 越後社長を中心に左に三原会長、そして右に奈良山、神保、藤堂の3副社長が並び、村山専務、狭山常務、そして取締役たちがずらりと並んでいた。

 越後は腕を組み、大川が会議室に入ってくるのを見ると、今まで見たことのないような、怒りの表情を浮かべた。

 大川は、その場の雰囲気と、その表情に圧倒され、思わずうなだれてしまった。

 大川の退職は決まったことなのに、更に追い打ちをかけるようなことをするのか。


 議長は、三原会長のようだ。

「さて、中塚君ありがとう。さて解任が成立したところでだが。」

 その目は、出入り口の傍に直立不動でうなだれている大川に向けられた。

「越後社長、村山専務の後任を僕は考えているのだが。奈良山副社長に社長に就任していただこうと思っている。そして、村山専務の代わりを狭山常務にお願いしようかと考えているのだが。奈良山君どうかね。」

 奈良山は、三原を満面の笑みで、立ち上がり三原とがっちりと握手をした。

 会議室は、その決定に拍手で応えた。その中で、憮然として腕を組んで、大川を睨み付けている越後と村山がいた。

「ああ、大川君忙しい中、取締役会にようこそ。ここに居る大川君だがこのたび。」

 いよいよ大川の退職のはなしか。

「狭山常務の代わりにだ、そこに立っている大川君に常務をやってもらおうと思っている。大川君には併せて営業本部長も兼任してもらうことにする。」

 大川は突然のことで、驚いて三原を凝視した。

「大川君は若いが、しっかりした若者だ。彼が手がけたプロジェクトは全て、うちの大黒柱に成長しつつある。当社を活性化させるには、大胆な改革が必要だ。その役目を大川君に任せようと思う。いいかね、奈良山君。」

「ええ、もちろんです。早く、私の右腕となって、その辣腕をふるってもらいたい。」

「さあ、大川君、そんなところに突っ立てないで、早く席に着き給え。」

 大川は、この展開に驚き、恐るおそる席に着いた。


 会議が終わり、三原が近寄ってきた。

「大川君先日は、申し訳なかったね。今日の越後さんの解任をどうしても秘密にしておきたかったんだ。おかげで、うまくいったよ。最近の越後さんは、目に余る行為が多かったからね。その点で、奈良山君なら、銀行で揉まれただけあって、しっかりしている。君はね役員の中では、唯一の生え抜きだからねそれはもう会社の代表だ。恥ずかしいことはしないようにね。」

 そう言うと、中島に先導されて、会議室を出ていった。

 大川も会議室の入り口に向かおうとして、ふと会議室の中を振り返った。

 そこには、腕を組み、大川を睨み付けている越後と村山、そしてこれまで取り巻きでいた取締役が5名程そこにいた。

 見なかったことにして、出入り口に向かおうとした。

 背中に、越後の声が突き刺さる。

「おい、大川、てめえ覚えとけよ。」

 会社の代表が発する言葉じゃなかった。


 会議室を出ると、橋元が待っていた。

「中島さんから聞いたよ。ここで君を待っていてくれってね。無事でよかった。」

「ありがとう。」

「久々に聞く嬉しい知らせだ。今や会社中に今日の話は広まっているさ。近々で同期会をやろうじゃないか。そして、会社の未来について、語り明かそう。皆、君と一緒に夢を見たいのさ。」


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