スミカさんとチュウくん
ついてないなと思う。簡単な発注ミスだった。不注意といえば不注意に間違いない。けれど、電話で追加発注をすぐにかけたから事なきを得たし、いつもなら課長の福原さんだって、それくらいのことで怒ったりしない。むしろ、部下に好かれるために必死なタイプの管理職だ。それが悪いことだとは思わない。歯車を潤滑に回すため、福原さんは福原さんなりの仕事をしているのだ。けれど、時々、福原さんは粘着質の、今ちょうど私が背中に貼っているカイロの接着面みたいにべとべとした嫌みモードに入る。福原さんは男性だけど、これが大体月に一回ほど来るから、「福原さんの生理」と社員は陰で呼んでいたりする。今月はそのターゲットが私で、さっきまで小会議室で一時間ほど、ねちねちと喰らった。発注ミスから、日頃の生活態度に至るまで。クモに絡め取られた虫の気分で、はい、済みませんでした、を繰り返して。
名古屋市、久屋大通から栄の中央を貫く細長い公園の丸い大理石風の、本当に大理石かどうかは知らない椅子に腰掛けた途端、ため息が出た。いつものやつ、と思いながらもやはりそれなりに堪えるものだ。お店でランチをする気分にはなれなくて、コンビニで買ったサンドイッチとコーヒーを買って来た。すぐ太るから、ランチあんまり豪勢にするなと営業課で恋人の和也にも言われているので、ちょうどいい。
サンドイッチを食べていると、テレビ塔の見える北の方から少年が歩いて来るのが見えた。少年はうつむき加減で、一歩一歩慎重に歩を進めながら、私の近くへやって来る。なるべく真っ直ぐに歩いているようだ。そして、ちょうどこのまま行くと私の足が邪魔になると思った時、少年は顔を上げた。
「お姉さん、足どけて」
お姉さんと正しく言ったことに免じて、足をどけた。私の顔を見て、年齢を聞いて、大抵の人が驚く。言葉にこそ出さないが、その顔には「三十路は軽く越えてると思った」と書かれている。
少年は私の前を通過する。ぶつぶつと口が動いているのは、どうやら数をかぞえていたようだ。しかし、私を通り過ぎて1メートルくらいのところで、少年は足を止めた。
「あー分かんなくなった」
その声は悲鳴にも似ていた。少年は悲嘆に暮れるようにしょんぼりと、私から一つ飛ばした椅子に腰掛けた。俯いているその頬はややふくよかで子供らしい。睫毛も長いし、総じて可愛らしい顔をしている。きっとご両親は美男美女だろうと思いながら見ていると、少年はこっちを見た。
「お姉さんに声を掛けたら、数字が飛んじゃった」
批難されているのだと気付くのに数秒を要した。
「え、私怒られてるの?」思わず訊いた。
「怒ってないけど」と言いながらもその顔は膨れている。「ソクリョウしてたんだ」と続けて言う。
「ソクリョウって?」
「歩いて測るやつ」
「ああ測量ね。どこからどこまで?」
「久屋大通から、この公園の端っこまで」
「へえ」私は北の方をもう一度見る。「結構歩いたね」
「でもイトウさんに比べればまだまだだよ」
「イトウさん?」
「お姉さんは何も知らないんだね」ムカついた。でも、大人の余裕がかろうじて勝って、ははは、と乾いた笑い声で返した。
「イトウさんは、日本中を歩いて測量して、日本地図を作った人だよ」
そこで、ようやく気付く。伊能忠敬か。なんだか懐かしいフレーズに感じる。
「伊能さんね」
「うん。イトウさんは凄いんだよ」少年は間違いに気付いていないが、私は悪戯心で、訂正せずそのままにしておいた。
「イトウさんは凄いね。あれ、ていうか今日学校は?」
「創立記念日」
また懐かしい単語だ。私の小学校の創立記念日は確か七月で、灼熱の太陽の下、嬉々として友達と遊んでいた。
「友達と遊ばないの?」
「遊ぶ時もあるよ。でも皆、測量はいいって言うから」
それはそうだろう、とは思うが言わない。
「あぁもうちょっとだったのにな」少年の声は本当に悔しげで、急に申し訳なくなる。
「なんか、ごめんね」
「いいよ。こういう時、悔しい時の呪文があるから」
「呪文?」
少年はおもむろに椅子の上に立ち上がり、叫んだ。
「マザーファッカー!」
ファッカー、ファッカー・・・・・・とオフィス街にこだました気がした。通りがかった、犬を連れたおばさんが、声に驚いて振り向いた。私は呆気にとられてから、笑った。
「なにそれ」
「だから、呪文」
「それ英語だよ」
「英語の呪文?」少年は真顔で訊いてくる。
「いや、それあんまり言っちゃいけないやつだよ。なに、学校で流行ってんの?」
「うん」
誰が言い出したんだろう、と想像する。映画かなにかか、それとも最近ヒップホップが若者の間でブームだというからそこからだろうか。いずれにしても小学校内で飛び交うマザーファッカーは、シュールだ。自分の小学校時代のことがまた思い出される。私はその頃から今まで、ずっとぽっちゃり体型で、三浦澄香という本名からとって「みうらすもうか」なんて呼ばれていた。それは端から聞けばいじめに近い響きだけれど、私自身が全然気にしていなかったために、そういう雰囲気にはならなかった。親しい女友達でさえ、「すもちゃん」なんて呼んでいた。よく男子と相撲をとらされたっけ。負けた記憶は無い。
「とにかく、あんまり良い言葉じゃないよ。アメリカだったら、銃で撃たれちゃうよ」
「えっ」少年は銃で撃たれたかのように心臓の辺りを押さえた。「銃で」
「でも心の中ならいいけどね」と私は言った。本当は心の中でも駄目なんだろうけど、面白いからいいと思う。
「君、名前は? 私は三浦澄香っていう、似合わない名前」
「田村沖」少年は笑顔で言った。
「チュー?」私が訊くと、「沖縄のおきって言う字」と補足してくれた。
「沖くん。可愛い名前だね」
「ネズミって呼ばれることもあるけどね」そう言って、少し暗い顔をする。
「なんでその名前になったの?」
「お父さんがね、船に乗って仕事してるの」
なるほど。
「いい名前だよ」私はコーヒーを一口飲む。ホットで買ったコーヒーはもうかなり冷めていたけれど、苦みが目の奥の辺りをしゃっきりと働かせる気がした。
「お姉さんもいい名前だね」
「ありがとう。沖くん、将来の夢とかあるの?」
「測量士」沖くんははっきりと言い切った。その姿は、私にはちょっと眩しいが、自然と心が温かくなるのを感じた。
「歩いて?」
「違うよ。現代の測量は。こういう、機械を覗いてさ」そう言って片眼を瞑って機械を覗く仕草をしてみせる。その目の先に、沖くんは何を見ているのだろう。私は、彼と同じ景色を見ることは、もうできないだろうなと思った。でも、私も私なりに今日の空は青く見えるし、ビル街は寒々しいばかりでなく、そこで働く人々の汗を、ため息を、笑顔を想像することくらいできる。
「お姉さんは」沖くんに訊かれた。
「夢は?」
うーん、と考えてから「良い人生を送ることだね」と言った。
「いい人生ってなに?」沖くんにはピンと来なかったようだ。それはそうだ。
「なるべく多く笑って、笑ってくれる人に囲まれて過ごす人生、かな」
私は和也を思い浮かべる。和也はよく笑う。目尻に皺が4本ずつできるその顔は、私を安心させる。
ふうん、と沖くんは言って、椅子から立ち上がった。
「じゃあね澄香さん」
澄香さん。くすぐったくなる響き。じゃあね、と私も言った。少年はまた歩き始める。一歩ずつ一歩ずつ。
私も立ち上がった。そして、オフィスまでの道のりを歩数を数えながら歩いた。186歩目で、事務所に辿り着いた。福原さんは相変わらず、眉根を寄せた表情で、私をちらっと見た。自分の席に座る前、隣の営業課が見えて、そこに和也が座っていた。上目遣いにこっちを見てにやけている。ラインが来た。
『生理、喰らったんだって?ドンマイ』
『大丈夫。ありがとう』私は返事する。それから、福原さんには見えないように、にやけた顔で、打った。
『福原、マザーファッカー!』
和也が吹き出す音が聞こえた。