その二
ブーン
ハスナギの声に呼応するかのように虫の羽音が聞こえてきた。
虫にしては大きすぎる音に、天を仰いだ人々は、そこに空と同じ色の翼を持った異形の存在を目に留め、悲鳴をあげた。
「怯むな! あれこそが我らの敵! 敵を討つ方法は、我らの身に流れる血が記憶している。さぁ、思い出せ。戦う方法を」
ハスナギが恐怖をはねのけるかのように叫ぶ。
その声に導かれるようにしばしの間瞑想していた住民は、自然に身を任せ、これまで口にしたことのない呪を唱えた。
「イナミ、イブキを頼んだぞ。この子だけはどんなことをしてでも守ってくれ」
イブキの周りに結界を施していたイナミは、長の重々しい声に顔を強張らせた。
すでに戦いは繰り広げられている。
悲鳴や爆発音、剣がぶつかりあう音が響き渡った。
イナミの呪に被せるようにハスナギがイブキに守りの呪をかけた。島の実力者二人がかけた二重の結界は、敵が切りかかってきたとしてもイブキに傷一つつけることはできないだろう。
「イブキ、マダツ島の聖なる子( クレス リー )。私はお前のことをだれよりも誇りに思っている。戦いが終わったなら、お前は新たな長となりみなを導いていきなさい。新しい時代が開く。きっとそれは平和に満ちた今までよりも輝きに満ちた時代だろう。イブキ、お前は生きるんだ。決して長の家系の血を絶やしてくれるな」
「長!」
「お祖父さま?」
今生の別れのような言葉を口にするハスナギに、イナミの顔から血の気が引き、イブキは涙目になっていた。
ハスナギは、剣を振り上げると彼らの方に向かってきた敵目掛けて突進していった。そのまま剣を振り下ろすと、敵の首を跳ねた。緑色のどろりとした液体が飛び散る。敵は胴体と頭が離れてもなお生き長らえてはいたが、甲高く鳴くとその肌は干涸び、塵と化した。
激しい抗争が続く。
赤い血と緑の血が交じり合い、地を染めた。
イブキのすぐ側では、イナミが敵からイブキを守ろうと必死に戦っていた。何もできないことをはがゆく思いながらも、イブキは辺りに視線を走らせた。瞳を上空に向けたイブキは、そこに異形を見つけて、目を見開いた。
「上よ!」
イブキの声に素早く反応したイナミが真上から襲いかかってきた敵に呪を投げた。黄金の炎は、魔物に当たると烈火のごとく燃え上がり一瞬にして焼き尽くした。
「あれが魔物……? 今まで見たことがないわ」
人の形をしてはいなかった。
瞬き一つしない大きな瞳は血走っており、頭部は毛がなく、血管が異常なほど浮き上がっていた。手足の爪は長く、鋭かった。長く伸びた耳はつねに動いていて、肌の色は浅黒かった。全体的に小柄だが、むき出しの背から生えた翼が背丈の二倍あろうかというほど大きかった。
「く……っ」
悪戦苦闘しながら敵を倒していくイナミの表情は切迫していた。切っても切っても敵は次々とやってきて息を吐く暇もなかった。
彼の瞳から徐々に焦りと疲労の色が浮かんでいくのをイブキは見逃さなかった。
守ってもらうしか能のない自分がもどかしくて、苛立った。
力が欲しい。
力が――───っ!
しかし、いくら望んでも手に入るものではなかった。彼女にできることといえば、声援を送ることと、敵がどこにいるか指示することだけだった。
「イナミ! 右斜め上!」
キィィッ、という声を残して、一匹また一匹と消えていく。
――どれくらい時間が経っただろう。感覚さえ麻痺した頃、辺りは骸と塵で覆われていた。
血が川のように流れていく。
純白の衣が真っ赤に染まり、手や首が引き千切られていたものもあった。
目は開かれ、絶命ではなく苦悶のために顔は歪んでいた。
時間と共に仲間の死体が増えていく。
時間が長引くことはイブキたちにとって不利であり、減らない敵相手に勝機はなかった。
「……ゥ! ……ぅ…んで、………っく、……なんで、」
イブキは、傷を負い、落下していく友の姿を目にして、泣きながら名を叫んだ。
頬を伝う涙が止まらなかった。
親しい人が次々と命を落していく。
自分だけなにもせず安穏としているのが辛くて、仲間の死をただ見ていることしかできないのが悔しかった。
死なないで。
そう祈ることしかできず、イブキはぎゅっと下唇を噛み締めて涙をぬぐった。
――まだ生きていたのか。いがいとしぶとい。
突然聞こえた声に、イブキは視線をさまよわせた。
地の底から聞こえてくるかのような声は低く、獰猛さが滲み出ていた。
羽を持った魔物の声かと思ったが、声はもっと上の方から聞こえた気がした。
声に気を取られた次の瞬間、闇色に染まった空から鈍く光る槍が雨のごとく降り注いできた。
槍が自分のところにも降ってきたが、結界にあたり四散した。それでもとっさに、己の顔を庇うかのように手で覆ったイブキは、悲鳴と断末魔の声を震えながら聞いていた。
(やめて……やめてっ)
地面に突き刺さる音が、苦悶の呻き声と重なって絶えていく。
充満する血の香り。
それだけで、眼下に広がる光景かどういうものか想像できた。
優れた結界を持つ者などそう多くはないだろう。
イブキは知っていた。結界をまといながら、ほかの呪を作り出すときは、呪の威力が分散され、結界の効力が弱まるということを。
ふいに体に触れた温もり。
ハッと目を開いたイブキは、そこに祖父の姿を見つけた。端正な顔は、険しいながらも、無事な様子のイブキに安堵しているようで、一瞬口元が緩んだ。
「お祖父さま……」
側に並んだハスナギの視線は、四方に散らされていた。
常にない緊張感が彼の周りを取り巻いていた。
ハスナギは、異形ではなく、姿なき声を追っていた。
「お前はセンジュの手の者か?」
ハスナギが天に向かって問いかけた。
それは抑揚のない声だった。
しかし射るように空を睨みつける瞳は怒りと憎しみに染まっていた。
――せんじゅ? ああ、我が王であらせられる千呪王紅蔵様のことでございますね。
答えたのは別の声だった。冷ややかで、冬期の時期の泉を思わせる声だった。
「何者だ」
ハスナギが鋭く言い放つ。
――我が名は鈴死。千呪王紅蔵様の一の側近にして、死を司る者。
この場には不釣り合いなほど柔らかな声と共に、空間を切り裂いて青年が姿を現した。彼は、顔に真っ白な仮面をつけていた。イブキたちと変わらない容姿をしているが、その身を包むものは限りなく黒に近い赤色の布だった。
「センジュオウクグラ……」
低く呟いたハスナギは、突然目の前に現れた鈴死を驚いた様子もなく見据えた。
不自然に長い爪さえなかったなら、完全に人であった。イブキよりも長い漆黒の髪が、風になぶられもせず肩から流れ落ちていた。
「長、危険です」
異形を一撃で確実に仕留めながら、イナミが空を翔け、やって来た。
――危険? 私が不意を突くとお思いか。ハスナギ、あなたは我らが王の外祖様ではございませんか。そのような方に、卑劣な行為は致しません。
「外祖……?」
耳慣れぬ言葉にイブキが首を傾げた。
――姫君。
鈴死はイブキにちろりと視線を向けると、彼女の横に移動した。魔を寄せつけない結界も彼にはきかないようだ。
驚いた顔のイナミが構えるが、鈴死は気にしないでくすくすと笑った。
――いいことを教えましょう。ハスナギが十七年前に犯した罪を。
――そうだ。教えてやるがいい。大罪を。
姿の見えぬ声が重なるように言った。
「やめろ!」
ハスナギが呻いた。
――人間の年で数えて十七年も前のこと。この島に双子の赤子が生を受けました。片方は、陽の気を纏い、神々と通じる力を。もう片方の赤子は陰の気を纏い、この島に災いを引き起こす魔力をその身に宿し。生まれながらにし……っと、危ないですね。
ハスナギが話を中断させようと魔に向かって呪を投げたたが、彼はそれを掌で受け止めると握りつぶした。ぽす、と軽い音を立てて炎が消えた。
「そんな……」
その様子をハスナギとイナミ、イブキの三人は信じられないといった顔で呆然と見つめていた。先ほどの炎。あれ一つで湖を沸騰させるぐらいの威力はあった。それを素手でとめるとは……。
――私は姫君とお話をしているのです。邪魔な方々にはに相手をしてもらいましょう。砕吏、二人をお願いしますね。
――まかせるがいい。腕がなる。
心底楽しそうな声が空気を震わせた。カッと空が光ったかと思うと、ハスナギとイナミの姿は消えていた。
「お祖父さま! イナミ!」
――砕史が加減すれば、また会えましょう。それよりも、話の続きを。
「嫌! 私もお祖父さまたちの所へ行きます!」
恐怖心を飲み込み、イブキはそう言い放った。声が少し震えてしまったことを悔しく思い、きゅっと唇を噛みしめる。
ハスナギとイナミが側にいないという事実が、なんともイブキの心をもろくさせた。寂しいのとは違う。ひとりしかいないのだという状況が不安をあおり、ひどく心許なかった。呪の一つも操れないイブキは、自分がお荷物であることを知っていたし、こうして側にいる敵に好機とばかりに攻撃も仕掛けることもできない。
なんと弱いのだろう。
イブキはこんな自分が大嫌いであった。
――貴女の兄君のお話でもそう思いますか?
「え……?」
イブキは訝しげに首を傾げた。
兄と言ったのだろうか?
イブキは混乱した。
これまでそんな話聞いたことがなかったからだ。
「嘘よ……。私に兄などいないわ」
惑わされるものかと頭を振って、掌を握りしめる。
――先ほど、双子の話をしたでしょう。憎らしい神の力を宿したのは貴女なのですよ。
「双子……!」
イブキは動揺を隠せなかった。
双子の話をしていたときのハスナギの様子が変だったことを思い出したからだ。十七年前といえば、ちょうどイブキがこの世に生を受けたとき。確かに符号はぴたりと一致する。
――この島に災いをもたらすとされた赤子こそ貴女の兄君なのですよ。ご存じないのは道理。ハスナギが事実を伏せていたのですから。彼は、双子が生まれたことをだれにも告げず、生を受けて間もない赤子を殺そうとしたのですよ。島に災いをもたらすという理由のために。けれど、貴女の兄君はハスナギに戦いを挑み、双方深手の傷を負いました。そして、貴女の兄君は、傷を癒すために、島の外へと姿を消すと、見知らぬ土地で、ハスナギに復讐する機会をずっと伺っておられたのです。けれど、それも今日までのこと。貴女の兄君は、見事復讐を果たしたのですよ。
とうてい信じられない事実に、イブキは呆然とした。
この恐ろしい光景を作り出したのが、実の兄だというのか。
「まさか…、お祖父さまがおっしゃっていたセンジュというのは…………」
――ええ、我らが王にして貴女の兄君でございますよ。
その言葉を聞いた瞬間、イブキは意識が遠のきそうになった。
大切な人々を殺し、安穏な日々を奪った、恨んでやまない相手が実の兄。
血を分けた、もう一人の自分。
告げられた事実が頭の中をぐるぐると回り、気分が悪くなった。
どうしようもない不快感と、まだ信じられないという想いが、複雑に交錯する。
――鈴死。
砕吏と呼ばれていた声の主が、イブキの耳をつく。
――土産だ。
砕史がくくっと喉の奥で笑う。
次の瞬間、イブキの目の前に血まみれの首が一つと腕が一つ現れた。
見開かれた目。
滴る血。
紙のように白くなった顔。
それは、先ほどまでイブキと一緒にいたハスナギの顔であった。肩から切断された腕は、服の色をみるとイナミのものに違いない。
それを認識したとき、頭の中が真っ白になった。
「い…ッ、やあぁぁぁぁぁッ!」
イブキが半狂乱になって泣き叫んだ。
正気を失ったイブキの額がじんと熱を帯びる。
体中の血が逆流し、熱くなった額に集中した。炎に包まれているような感覚の中、意識が混濁していくのをイブキは感じた。




