第二章 マダツ島──聖なる子の旅たち──
少ない星が闇空の中を瞬く頃、一人の少女が歩道を歩いていた。
夜となって一際ざわめく人々の間をすり抜けていく彼女の表情は、街を彩る灯りの下でもはっきりとわかるほど暗く、青ざめていた。それは多分、寒さのせいではないだろう。
周りの者に比べるとかなり薄着である彼女は、無遠慮な視線も気にならぬ様子で、止まるのを恐れるかのように歩き続けていた。
「なぜ……」
純白の服は、漆黒の闇夜にあっても光沢を放ち、清らかな雰囲気を醸し出していた。
見る者を惹きつけてやまない美貌は、翳りがあるもののそれがかえって繊細さを加えた美を作り出し、すれ違う男達の視線をさらっていたが、当人は熱いまなざしに気付きもせず、首から下げられた紅玉の宝石に目を落とした。禍々しいというよりは、鮮やかな炎を移したかのような色をしている宝玉を凝視した少女は、何かを堪えるかのようにきゅっと唇を引き結んだ。
自然止まった両足。
歩き疲れたのではない。
こみ上げてくる想いが少女の足を止めていた。
歩道の真ん中で立ち止まった少女は、紅玉から目をそらし、顔を上げ、自分を邪魔そうに避けていく人達を霞みがかった双眸でぼんやりと見つめた。
虚ろな瞳が、ふと揺れた。
冷たい風が、むきだしの二の腕を刺していく。
『寒い』という感情が、少女の瞳に再び光を取り戻させた。
ここは、住んでいた島よりずっと寒かった。冷水に浸かっているかのような冷たい風が、全身から温かさを奪っていく。すでに寒いのを通り越して、痛みしか感じなかった。むきだしの肌が冷気に触れて、ちくちくと痛む。
けれども、そんな痛みも少女の心を強く揺さぶることはなかった。
首に飾ってある紅玉をそのままはめたかのような双眸は、切なそうな光を宿し、異郷の地を映し出していた。
少女――イブキは、苦痛をやり過ごすかのように眉を寄せた。
潤んだ瞳からは、透明な雫が零れ落ちそうだった。白を通り越し、病的な青さを宿す彼女の顔は、今にも崩れ落ちてしまいそうなほど儚かった。怒りと悲しみに彩られ、絶望に沈む瞳が、ぎゅっと閉じられた。
(なぜあんなことに……!)
それは予期していなかったこと。
夢であったならと何度思っただろう。
たった数時間前まで平和だった島は、マダツの血を引くものによって破壊されたのだ――。
最初に異変を感じたのはイブキだった。
(…っ、くる、…し………)
胸を圧迫する威圧感。
産毛が逆立つほど感じる視線。
この感じ、知っている。
けれど思い出せない。
イブキは、羽毛を除けると祖父の部屋を目指して駆け出した。
「お祖父さま!」
取り乱したイブキを訝しく思うでもなく、ハスナギは厳しい瞳で頷いた。
「さぁ、来なさい。私が前に言ったことを覚えているな?」
手招いたハスナギは、首飾りを外すと、動揺を隠せないでいるイブキの細い首に掛けた。
「! これは代々長のみに受け継がれてきた物ではありませんか! たとえ一時であろうとも、長以外の者が身につけるなんて……!」
小さな丸い水晶と金剛石を糸でつなぎ、中央に親指ほどの紅玉が燦然と輝く首飾りは、長のみが身につけるものであった。
紅玉には、神の力が込められていると言い伝えられているせいか、だれもが憧れ、手にすることを夢見ているというのに。
「持っていなさい。もう私には無用の長物」
「!? それはどうい……――ッ」
突然、地が震えた。
大地が怒り狂ったように暴れ、立っているのもままならないほど激しい揺れだった。
思わず地面にへたり込んだイブキの腕を力強く掴んで立たせたハスナギは、厳しい面持ちで叫んだ。
「外へ!」
脆そうに見えても、力を使って建てた家のため、ちょっとの揺れでは崩れることはなかったが、地面を裂くような勢いは、このまま島全体を海に沈ませてしまいそうであった。
ハスナギに背を押され、ふらつく足取りで壁に手をつきながら外に出たイブキは映し出された光景に目を見張った。
「気味が悪い……」
飛べないイブキは、激しい揺れに、倒れそうになるのを賢明に堪えながら、空を仰いだ。日が傾き始めたというわけでもないのに空は薄暗くなっていた。こんなことは初めてだ。冬期の時期ならば、天候の変化など気にもとめなかっただろうが、今は恵期。神が支配するこの守られた島で、何千年も変わらなかった天候が突然荒れるのは不吉なことの前兆でしかない。底知れぬ不安を感じながら、それが杞憂でありますようにと祈れずにはいられなかった。
「イブキ! よかった。無事だったんだね。ずいぶんと遅かったから心配したよ」
空中で制止していたイナミは、イブキを見つけると安堵したように微笑し、優雅に着地した。
「一体何が起きているんだい?」
顔に似合わない力強さでイブキの細い腰に手を添えると、彼は呪を唱え、再び浮上した。
「わからない」
イナミの胸元に手を回すと、落ちないように抱きついた。
空は、すでに呪で浮かび上がった住人でいっぱいだった。彼らは、倒れていく木々を恐ろしげに見つめていた。けれど、それが真っ二つに割れた地面に家が吸い込まれていく場面となるとあちこちから悲鳴があがった。
何百年、何千年という歴史に耐え、思い出に包まれた住まいが一瞬にして崩壊していく光景は、思わず目をそむけたくなるものだった。
身一つで地から離れた民に残された品といえば、本当に微々たるもので、ほとんどの者が持ち出す間もなく宙に浮かんだため、長い年月の間に作られた品は家とともに散った。
大切なモノが家ごと飲み込まれていくのをある者は涙を流しながら、またある者は唇を噛みながら見下ろしていた。
イナミも辛そうに眉を寄せると、無残な光景から目をそらし、唯一建っている長の住居に目を移した。
「長はまだ中に?」
その言葉に、祖父の姿がないことを知ったイブキは、慌て自分の家を見た。
「お祖父さま……! どうしよう、イナミ。お祖父さまはきっとまだ家の中にとどまっていらっしゃるんだわ。柱が崩れたら……お祖父さまは………」
その時。
唯一の出入口から祖父が姿を現した。
ハスナギはイブキとイナミに気付くと、力強く地を蹴り宙に浮かんだ。
「イナミ、死傷者どうなっている?」
イブキに一瞬視線をやり、無事なのを確認すると眼差しを鋭くし、イナミに問うた。
「死者は幸いにもおりません。棚から落ちた陶器の破片で肌を傷つけた者や足や手に傷を負った者はおりますが、癒しの呪で完治済みです」
「そうか……。命があれば重畳」
わすがに目を眇めたハスナギは、眼下の災害に呆然としている民を一瞥した。
「お祖父さま、その手にしている物は……」
黙って二人のやり取りを聞いていたイブキが、困惑もあらわにすっと指を伸ばすと、ハスナギが手にしている剣を指した。
この場には不釣合いな長剣。
イブキはその剣に見覚えがあった。
「これは魔剣だ」
「魔剣……!」
魔剣といえば、代々長のみに伝わる剣だ。
古くは、神々と共存していた時代にまでさかのぼる。その威力はまさに神の御力が宿っているとされ、崇められると同時に畏怖の対象でもあったが、魔剣が活躍していた暗黒の時代は終わりを告げ、神々も天に還り、平穏な時代へと時が移ろう頃ともなるとその存在は忘れ去られた。
イブキも幼い頃に一度だけ祖父に見せられたことがあったので知っていたが、普通の者は存在自体知らないだろう。
現にイナミも魔剣という言葉に眉を潜めている。けれど決して口をはさもうとはしない。邪魔にならぬようにと気配を断ち、空気のようにそこにいた。
イブキもハスナギもイナミの存在を忘れ、まるでこの世に二人きりのように視線を交わした。
「なぜ魔剣が必要なのですか?」
問う声は強張っていた。
イブキにはわかった。
ハスナギが家宝であるからという理由だけで持ってきたのではないということを。
「何が起ころうとしているのですか?」
「――すまない。イブキ」
「おじい、さま……?」
苦渋に満ちた声音で謝られ、意表を突かれたイブキは、不可解そうな、それでいてどこか不安そうな面持ちでハスナギを見ようとしたが、すっと視線を外された。
ハスナギは、しばらく黙り込むとふいに決然とした顔で面を上げた。
「皆の者、よく聞け」
深みのある声が、島中に響き渡った。
何が起きたのか戸惑い、ざわめいていた人々は、力強い長の声を聞いた瞬間ぴたりと口を閉ざした。神妙な面持ちで彼の言葉に耳を傾ける。
「感じるだろう。この波動を。巨大な力が島全体を覆いつくしている。もうすぐ魔物たちが血を求めてこの地にやってくるだろう。だが、安易に死を望むものではない。戦う術は知らなくとも、血に流れる太古の祖先の熱き鼓動を感じぬか? 殺戮と血にまみれていた古き時代の記憶が過ぎりはしないか? ──戦士よ。神の御心にかなう使者よ、今こそ戦うのだ」
────戦う。
それは平穏な日々に慣れ過ぎたマダツ島の住人にとって、あまりにも非凡な言葉だった。
彼らの白い両の手は、花を愛で、愛する者に触れるために存在するのであって、決して無益な殺生はしない。
してはいけない。
そういう暗黙の掟があった。
それは、暗黒の時代が深く関係していた。
血塗られた時代には、多くの命が失われた。当時、神々と深くつながっていたマダツ島の者たちは、神に牙を向ける魔物と戦い、命を落した者の数は千を超えた。
暗黒の時代よりさらに前の時代では、土地の所有をめぐり、仲間内で内乱が勃発し、その血は土の色を染め替えたほど激しいものだったと伝えられている。それを憂えた神々が、一人の若者に魔剣を授け、マダツの島を統治させたという。
その若者の子孫が、ハスナギとイブキだ。
それからしばらくの間は平和が続いたが、神々が特定の者たちと関わりを持ったということで、神々と敵対していた魔物がマダツの者たちにも襲い掛かり、壮絶な戦いが繰り広げられたという。
数え切れないほどの屍が大地に横たわる中、勝利を手にしたのは神々とマダツの者たちであった。けれどその勝利にはあまりにも多くの血が流れすぎていた。
その戦いの激しさを物語るかのように、二万いた人口は千人に激減し、山と湖が広がる美しくも壮大な島は、無残にも半分以上が海の藻屑と消えていった。
儚く散った仲間のために、残った者は、悲惨すぎる過去を忘れるために武器を捨て、長い年月をかけて平和な世を築いた。
神々の助力もあり、人々が血なまぐさい過去を忘れるに時間はかからなかった。
穏やかな時が流れるマダツの地で、人々は平穏を享受していた。
「長……」
「なにを……」
「戦うなど無理です」
突然の言葉に、人々は驚きと戸惑いを隠せなかった。
動揺とざわめきが水面の波紋のように広がった。
その様子を彼らより少し高い位置で見ていたハスナギは、予想通りの反応に落胆の色は見せなかった。民の惑いを、目を閉じて聞いていたハスナギは、カッっと目を見開くと、猛々しいまでの声をあげた。
「諾々と殺されるのを待つか? 神の子が神の敵である者に殺されて神がお喜びになるであろうか。さぁ、今こそ我らの魂に刻まれた宿命を断ち切る時。行くぞ、我らの安寧を再び手にするために!」
ハスナギの熱意とは裏腹に、辺りはシンと静まり返った。
地割れによって崩れ落ちる木々の音と動物の危険を知らせるかのような鳴き声が響いていた。
尻込みしている民から賛同の声は上がらず、厳しい顔つきのハスナギもかすかに諦めの色を覗かせたその時、イブキを大切そうに抱いていたイナミが、動いた。
イナミは、イブキに空呪を施すと、イブキの側を離れ、ハスナギの正面へ飛んだ。敬意を表す礼をしてから、口を開いた。
「長、僕はまだすべてを理解していないけれど、この地を───愛する人を守るために戦います」
彼は不安そうなイブキを愛おしげに見つめると、顔を引き締めた。普段の穏和さを消し去り、毅然とした空気をまとったイナミは、とても凛々しく、男らしかった。
こんな状況だというのに、いつもと違ったイナミの新しい顔に、少し見惚れたイブキは、焦ったように彼から視線を外した。
自分のために戦ってくれると堂々と宣言してくれたイナミの言葉が少し嬉しかった。
率直でわかりやすい賛同の声だからこそ、ほかの者の胸にも響いたようで、愛する者のためなら戦うことへの恐怖心など微塵も感じさせない彼の姿に、渋っていた者も次第に決意を固めていった。
「えぇ、長。戦いましょう。我らが安住の島を守るために!」
「戦わずして負けるのは嫌です!」
「この地に平和を!」
思いが伝染していくかのように、皆は口々にそう叫んだ。その表情に、敵と一戦交えることへの不安はなかった。ただ、この島を、家族を、恋人を、友人を守りたいという想いだけが彼等の心を突き動かしていた。
ハスナギは、わずかに双眸を潤めると左手に持っていた魔剣を高々とかかげた。
「行こう! 神に選ばれた戦士よたちよ!」




