その六
翌日、日の出とともに起き出したイブキを、すでに身支度を整え終えたハスナギが待っていた。
藍の間というのは、主に重要な事柄を決めるときに選ばれた者たちが集い、話し合いを行う部屋だ。近頃では、使用の頻度も減り、ハスナギが考えをまとめるときに使っている。
一段高くもうけられた場所に座していたハスナギは、緊張した面持ちで入ってきたイブキに座るよう促した。彼女の顔色は思っていたよりもよく、移転の呪の後遺症もないようだった。
イブキは、一段高くに座っているハスナギを一瞬驚いたように見つめたが、すぐにこの島の最高位に対する礼をした。
「おはようございます。長をお待たせして申し訳ございません」
裾をゆるくつまみ、膝をななめに折って腰を落とす。視線を一度床に定め、たっぷりと間をとってから頭を上げた。
「おはよう。よく眠れたか?」
問いかけにゆるりと首を振ったイブキは、優雅に裾をさばきながら正座した。その顔に笑顔はなかった。
イブキはなにか異変を感じ取っているのかもしれない。
いや、ハスナギ自身がそう感じるようし向けたのだ。
「なぁ、イブキ」
微かな緊張感が二人を包む中、ハスナギは口火を切った。
「なんでございましょう、長」
「運命とはなんぞ」
その問いかけにイブキの美しい顔がしかめられた。
「運命にございますか……? さあ、それは書物を解き開いても答えは出てこない難問にございます。けれど、わたくしたちは神々のご寵愛を一身に受ける種族。なれば、運命とは、神々が定めた道そのものと心得ます」
「そうか……ふむ、それも一理ある。だが、しかし。それでは人の生きたる道とは、神のものであり、その者のものではないな。では、我らの意志はどこへいく? この感情さえも偉大なる方々がお考えあそばしたものか?」
「それは……」
思いもかけなかった鋭い返しに、イブキは口ごもった。
「よいか、イブキ。あの至高なる存在の御前では、我らなど塵に等しい。それこそ風の悪戯で簡単に空中に舞うほど憐れでちっぽけな存在ぞ。だからこそ、イブキ。決してくじけてくれるな。神々の下では我らは弱い。たとえ力を授かっていようと偉大な太陽を前に一滴の水が勝てるだろうか。一瞬で蒸発して魂もろとも冥府へと落ちていくだろう」
「長、冗談が過ぎます」
イブキの心は不安に揺れていた。
この頃のハスナギはどこかおかしかった。前までは神々を敬っていたというのに、最近神々に対する暴言が目に余る。
「これが現実だ。神々は我らひとりひとりの道筋を書かれた書を有しておられるのかもしれん。けれど…イブキ、神々の筋書きであろうと自分の意志であろうと、運命を恨むな」
「え……」
「そして私を憎んでくれるな」
「おじ…長を憎むなど……っ」
「ユウキが実は生きていると知ってもか」
「!」
それは突然すぎる事実であった。
その言葉をうまく咀嚼できず、ただ呆然と目を見開くイブキを、なぜか悲しげに見つめたハスナギはため息混じりに呟いた。
「イブキ、すまない……。私はお前にすべてを押しつけてしまう……」
苦しげに目を瞑ったハスナギの胸中に去来するのは、イブキとよく似た眼差しを持ったユウキの姿であった。
ハスナギは気分を落ち着かせるように、顎を撫でた。そして深く呼吸をし、未だ放心状態のイブキを憐れむように一瞥したが、次にイブキを双眸に宿したときには強い光りが宿っていた。揺るがない双眸は、さすがに長と呼ばれるだけあって鋭い眼光であった。
「イブキ」
彼は静かに孫の名を呼んだ。
たったそれだけで、おぼろげだったイブキの瞳に生気が宿る。
「イブキ、……あぁ、何から話そうか」
イブキは、何か言いたげに小さな口を開けたが、それは声になることなく口の中へ消えた。衝撃の過ぎ去った顔に、ハスナギの言葉を聞こうという意志が見て取れた。
「そうだな。お前は知っておるか。ユウキがどうやってこの島に流れ着いたのか。いや、きっと知らぬだろうな。ユウキとお前の母――ハスノのことは、だれもが口を濁すだろうからな。…なに、だれも悪意あって黙っていたのではないだろう。二人の死があまりにも突然すぎて、その悲しみゆえにだれもが口を閉ざすのだ」
事実、ハスノに続きユウキまで天に召したと知ったマダツ島の人たちの反応は、思い出しても胸が痛むような光景であった。一度は、ユウキを拒絶し、反抗的な態度を取った彼らであったが、仲間と認めればどこまでも優しく、同胞のように接していた。
違う風を送り込んだユウキをだれもが大切にした。いや、その裏に罪悪感もあったのかもしれない。
もっと早くよそ者を迎え入れていれば、と――。
彼らは過ちを二度も繰り返そうとしていた。イブキが生まれなければ、きっと同じことを繰り返し、同じ悲劇が起こっていただろう。
孤島のせいか、一族の絆を大切にし、思い合うのはなによりも美徳だ。反面、よそ者に対してひどく過敏で、容赦のない冷徹な面もある。閉鎖的な空間は、いつしか変化を望みながらも、受け入れられず、排除してしまうようになったのだろう。
「ユウキがこの島に流れ着いたのは、……今でも昨日のことのように覚えている。晴れ渡った空がそれは美しい恵期の頃だった。波打ち際に打ち上げられていた彼を発見したのは、ハスノだった。すぐさま私も駆けつけ、彼の容態を調べたが、生きていることのほうが不思議であったよ。頭からは血を流し、全身に打撲と痣を作り、肋骨は折れていた。どこから流れてきたかは知らないが、よくこの島に流れ着いたものだと感心した。イブキ、その頃の私たちは、一族でない者に対してそれほど寛大でなかったんだ。混じり子であるお前にはわからないかもしれないが、よそ者に対して警戒心が強くてな。それでも、癒しの呪で治療したのは、その者が神の目に適ってマダツ島に流れ着いたからだ。神のご意志を無視することもできず、癒しの呪をかけたが……記憶だけはどうにもならなかった」
「記憶……?」
イブキには祖父の言葉が理解できなかった。
「ユウキは記憶を失っていたのだ。……多分、頭の傷のせいであろう」
「傷のせいで記憶が失われるのですか?」
驚くイブキに、ハスナギは少しだけ口元をゆるめた。
「我らには医者などおらぬからな。どんな傷でも……いや、ほとんどの傷ならば癒しの呪でなんとかなろう。だがな、イブキ。癒しの呪にも限度がある。それに精神的なものにはまったく効果がない。それと同様に、見えない傷を癒す術はもたないのだ。記憶障害は傷とはいえないかもしれないが、昔はまれにそういう者もいたのだよ。頭に強い衝撃を受けることによって、神によってつくられた人の体……もっと詳しく言えば脳も傷を負うのだろう。脳というのは、頭の中に存在している我々を動かす一つの器官だ。心臓と同じように、脳に異常があれば日常の生活は困難になってしまうことがまれにある」
「そんな……まさか!」
イブキはとっさに否定してしまったが、すぐさま表情を引き締めるとハスナギに詫びた。
「申し訳ございません」
イブキは次期長である。
信じられないからといって安易に否定してはいけない。それは自覚に欠ける思慮の浅さだ。
イブキは己を恥じるかのように頬を染め、ぎゅっと唇を噛んだ。
長となる者は、なにが起こっても対処できる柔軟な心と強靱な精神を持たなければならない。
これくらいのことで表情を変えてはいけないのだ。
反省するイブキをハスナギも責めはしなかった。知識が足りないのは、教授しなかったハスナギにも責任がある。
すでに五千を超える年であるハスナギが博識なのは、積み重ねてきた年月がイブキよりもずっと長いからだろう。
「記憶を失ったユウキは、我々の目から見ても幼く映った。まるで生まれたての赤子のように無防備で……、なんの力もない無力な子であった。ハスノはそんな彼が物珍しく、庇護欲をかき立てられたのだろう。私たちの制止の言葉も聞かず……いや、違うな。ハスノは知っていたのだ。彼を世話しなければ、私たちが見殺しにしてしまうということを……。あの頃の私たちは外の人間に対してひどく嫌悪感を抱いていたのだ。リノイも……いや、これは過ぎたことか」
失言とばかりに顔を歪めたハスナギに、イブキが反応した。
「リノイ……? イナミのお母様のことですね? 私が生まれるずっと前にお亡くなりになったと……」
「あぁ、そうだ。心を病んでしまってな……。今となれば悪いことをした。だからこそ、イナミがハスノの行動を擁護したのを驚いた。イナミは、ハスノとユウキの関係を快く思わないだろうと……だれもがそう信じていたからな……あぁ、話が脱線してしまったな」
ハスナギは緩く首を振り、苦々しく笑った。
リノイのことは今でも思い出すと辛い。
彼女を死に追いやったのはほかでもないハスナギたちなのだから……。
ハスナギは決してリノイのことを忘れないだろう。心を病んだリノイが結界の外へ飛び出し、その身が爆発したように四散するのを為す術もなく見ているしかなかったあの時。
幸いにもハスナギ以外にその光景を見た者はいなく、ハスナギは心を病んだ彼女が自害したということだけ島の者たちに伝えた。
尊い命が……まだ若い命が消えたと知ったとき、だれもが嘆き苦しんだ。
そう追い込んだのは彼らだったからだ。
もし、彼らが過ちを犯さなければ……ハスノとユウキを許したようにリノイたちのことも享受していれば惨劇は起こらなかっただろう。
もしかしたら新しい命が増えていたかもしれない。
そう思うと、だれもが悔い、時の女神に時間が戻るよう願ったが、神々は決して彼らの願いを聞き届けてくれなかった。
あやうくリノイたちのときのように同じ悲劇を繰り返そうとしていたが、神はそこまで非情ではなかったようだ。
もしイブキが生まれていなければ、繰り返されていた過ち。
リノイを母のように慕っていたハスノだからこそ、引き離されたリノイとよそ者のことを憂い悲しみ、ユウキをなんとしてでも守ろうとしたのだろう。
ハスノは長の威厳には欠けるが慈愛深く、降り注ぐ日差しのように温かい娘であった。生きていたならば、長の教育を受けているのは彼女のはずであった。なんの教育もしないまま彼女は逝ってしまった。
「お前が生まれ、なにもかもうまく行くと確信した矢先、ハスノは力尽きたように死んでしまった。お前を産むという大役を果たし、精力を使い果たしてしまったのだろう。癒しの呪も届かず、死せる世界へと旅立っていった。……泣くな、イブキ。お前のせいではない。すべては神の御心であったのだ」
「……泣いては…おりません」
母のことを思い出して双眸を潤ませていたが、盛り上がった雫が頬を伝うことはなかった。指先でそっと拭ったイブキは、
「母は……母に生かされたこの命、絶対に無駄にはいたしません」
わずかに震えの残る声音でそう言いきった。
イブキ自身が悩んでいたことをハスナギは知っている。母親の精を吸い取るかのようにして生まれたことを悔い、絶望していたことも。
けれど今、そのことをイブキは微塵にも表面に出さなかった。
イブキは、生きようとすることでハスノの死に報いようとしているのかもしれない。ハスナギにはどうやってその答えを導き出したのかわからなかったが、イブキもイブキなりに考えたのだろう。
「それに……父が…、父様が生きていらっしゃるのでしょ? どうしてお祖父さま黙っていらしたの? もしかしてイナミたちも知って……」
「いや、ユウキが生きていることを知るのは私以外いない」
イブキは知らないだろう。
この部屋に結界が施されていることを。長い年月をかけてハスナギはだれにも解かれない強力な結界を作り出していた。
そう、神でさえも……。
「ユウキならば、お前に庇護を与えてくれよう」
「わかりませんっ。私にはなにもわかりません。父様ことをだれにもおっしゃらなかったということは、長の深いお考えがあってのことでしょう。……だからこそ私は、憤りは感じでも長を責めようとは思いません。けれど、今更そのようなことをおっしゃるなんて……。長の――お祖父さまのお考えが私にはわかりません」
イブキは燃えるような赤い双眸に一瞬辛そうな光りを走らせると、次には強い意志をたたえてハスナギを正面から見据えた。
「父の国へ行きたいと申し上げたのはついこの間のことです。そのときに、どうして真実を話してくださらなかったのです。お祖父さまに、そう決断させたなにかがこの数日の間にあったということですか? 私は…そんなにも頼りないのでしょうか。いいえ、確かに次期長となる教育も終了しておらず、思慮足らずで考えも浅はかでしょう。それでもお祖父さまの右腕に……支えになりたいと思っておりました」
裏切られたというよりも、寂しげな声音が、強気な瞳とは裏腹に細く消えていく。
感慨深い思いでイブキの吐露を聞いていたハスナギは、いっそすべてを打ち明けてしまおうかとも思った。
けれど、彼は祖父である前に一族の長である。
民を守り、導くのが長の務めである。
私情によって計画を台無しにすることは絶対に許されない。
「イブキ――聖なる子。お前こそが我々の希望なのだ」
ハスナギの呟きは小さすぎてイブキの耳に届くことなく空気に溶けていった。




