その三
その夜、イブキは夢を見た。
彼女は真っ暗な空間にいた。
一歩先はおろか自身も闇に溶けるほどの漆黒が視界を覆い尽くす。
普段なら怖ろしいと感じる暗闇の中。けれど、身も竦むような恐怖は足の下からはってくることはなく、不思議と心が和らいだ。
「なぜかしら……」
だれに問いかけるでもなく呟くと、答えがすっと浮かんできた。
ここは、冷気をはらんだ空間ではなく、穏やかさを秘めた心地よい世界だった。まるで……そう、まるでイブキの体を守るようにまとわりつく柔らかな空気は、不安に怯える心までも包み込み、恐怖心を簡単に消してしまう。
漠然と感じるのは、ここが安全な所だということ。
イブキは好奇心に駆られて足を踏み出した。
刹那、鋭い視線が突き刺さった。
イブキの足が止まる。
肌が粟立ち、怖気がせり上がってきた。
奈落の底よりも深く、ねっとりと濃密な陰の気が、無防備な肌の上をなでまわし、足の先から首筋目がけてゆっくりと駆け上がっていく。毛穴という毛穴から脂汗が吹き出し、あまりの気持ち悪さにめまいがしてくる。
先ほどまで確かにあった安らぎの空間が、一変しておぞましいものへと変化した。夕焼けが藍色を帯びるよりも早く、それこそ瞬きの間の出来事に、何が起こったのか理解するのに時間がかかった。
「だ…、れ……」
声が掠れた。
空間全体を圧迫するような息苦しさに、イブキは呻いた。
「だれ、なの……?」
目を凝らすが、広がるのは闇ばかり。
――─闇は我らが同胞。
突然、間近で聞こえた声に、イブキは驚いて辺りを見回した。
しかし、人影どころか何も見当たらず、声の主がどこにいるのかも分からなかった。
――─我らは血で血を洗う。
背筋が凍りそうになるほど冷たい声に潜むのは、まぎれもない憎悪。
――─肉を裂き、魂を食らう。それこそが糧。
声は、空間の隅々まで行き渡り、反響していた。陶酔さえ感じさせる声に、イブキは彼が語る言葉を聞き逃してしまいそうになる。
「あなた、だれ……?」
――─くっ。わからぬか。我は、この時を焦がれるほど待ち望んでいたというのに。
押し殺した声には明確な殺意が含まれていた。
ぞくりと悪寒が駆け抜け、イブキは両の腕でしっかりと己の体をかき抱いた。
「なぜ…憎むの……? 私、知らない。あなたなんか知らないわ」
――─笑止! 無知というのはどこまでも愚かなこと。穢れなき神の子? 我が手の内からすべてを奪い、その両の手を紅き血で汚しながら、なおも声高に宣言するか? 我らこそが選ばれた者…と。
「な、に……」
なんのこと、という言葉は飲み込まれた。目に見えない視線がイブキを束縛したからだ。がんじがらめに絡めとられ、身動きどころか、心さえも縛り付けられた。
――─最も忌むべき、厭うべき血を引く娘よ。まがい物の光をまとい、神に近づけるとでも? さあ、堕ちよ。穢れた血と輝く魂を持つ者よ。我が元へ……。さすれば、我が願いは成就する。そなたの死をもって。
『死』という恐ろしい言葉を耳にしながらも、イブキはその魅惑的な声に酔い知れていた。低く、体の隅々まで侵す声音は、うっそりと毒を持って支配する。たとえ憎悪しかこめられていないとしても、惹かれるのをとめられない。
魂まで持って行くかのような美声の誘いに、何もかも忘れて声に従え、とイブキの心が囁く。
導かれるまま、ふらふらと声の方へ足を踏み出そうとした刹那、微かに残っていた理性が悲鳴を上げた。
───キケンッ───
警告を発する信号は、素早く脳へと身を潜ませる。
相反する二つがせめぎ合い、精神が軋む。
助けて──────っ。
声にならない叫びがほとばしる。
身の内から崩壊しそうになったその時。
『呪を力で使役しようと思うな。呪はお前の心であり、鏡だ。肌で感じろ。気の流れを』
呪術を教えてくれた師の言葉がなぜか浮かんだ。
力強い、朗々たる声が、壊れかけた心をふわりと包み込む。その声に動かされるかのように、唇を引き結び、額に気を集注させた。
イブキの頭が真っ白になる。
周りに漂っていた空気の温度がじんわりと暖かみを帯びる。それと呼応するかのように、身体中の血がざわめき、逆流した。その血は額に集まり、炎のような熱さを宿した。その瞬間、身体を縛り付けていた何かが、熱に当てられたかのようにすっと消えた。
「古の神の名の下に命じる。私は神の血を引く者。自然界に身を置く精よ、私の願いに応じ、
姿を現せ!」
刹那、一条の閃光が闇を切って現れた。
意思を持ったそれは、イブキを守るかのように膨れ上がると色を染め替えていった。
イブキは、それを見届けることなく闇の中にゆっくりと倒れこんだ
――─さすがだな。我が作りし結界に傷を付けるとは。忌々しい神の犬が我が作りし術を蝕んでいく。我が意識も長くはいれぬか。…まあ、よい。未だ力の加減はおろか、その術すら知らぬそなたを捕らえることなど、赤子の首を捻ると同じくらい簡単なこと。
声の主が笑った。皮肉な嘲りを言葉の端々に含ませながら。
――─くくっ。やはり……は争えぬか。我が……。
イブキは朦朧とする意識の中で、彼が楽しそうな声で何か呟いたのを聞いた。




