第九章 都の岬──聖なる子の笑顔──
遅くなりましたが続きです。
「────王、そろそろお時間が」
鈴死がそっと口を挟んだ。
千珠は頷くとイブキに手を差し出した。
ほんの少し躊躇したイブキの手を千珠は鮮やかにさらっていく。
瞬き一つの間に場所を移動していた。
色のない世界に、和樹と百合の姿が空中に並んでいた。
「叔母様……っ」
駆け寄ろうとしたが、千珠の手に阻まれた。
なぜ……っと悲しくなりながら振り返るが、彼は和樹を見つめていた。
「声が聞こえているな? お前に選ばせてやろう。自分の命と百合の命。どちらを取るか」
「う……っ、せ……ゅ、……。助かる……? あぁ、俺は生きていく価値のない男だ。ずっと過去に囚われていた。関係のない百合まで憎み……。千珠、お前には答えがわかっているんだろ。その通りにしてくれ。――イブキ、そこにいるか?」
「は、はい」
「百合に……愛していると。輪廻転生など信じるつもりはないが…もし、この俺に来世があるのだとしたら…次は、次こそは百合を……百合だけを愛そう。…どこから狂ってしまったんだろうな。あぁ…、だが悪くない。飛鳥も百合も俺にとってはかけがえのない存在だった。……ぅ…イブキ、頼む……。百合に愛していると…そう伝えてくれ。あいつは飛鳥を失って荒んでいた俺の心を癒してくれた唯一の女だった」
「えぇ……必ず、必ず伝えます」
イブキはぎゅっと唇を噛みしめて涙を堪えた。
和樹が死ぬ。
その事実が悲しかった。
二人とも助けられる道があったらよかったのに。
けれど命の代償は命でしかあがなえないことをイブキはちゃんと知っていた。
死んだ者を生き返らす術は高度で、しかもかわりの命が必要となる。
だからこそ千珠は、和樹を殺すなと言っていただろう。
千珠がゆっくりと和樹のもとに歩いていく。
百合が助かるというのに、イブキの心は冴えなかった。
人が死んでいくところは辛い。
イブキは、目を瞑り、術が完成するのをただ待っていた。
百合が目覚めたのは戦いの日から一週間も経った頃であった。
「イブキ……? あぁ、わたくしは死ねなかったのね……」
寝台の上で目を覚ました百合は、状況を察すると苦笑を浮かべた。
「叔母様! よかった……本当に」
ずっと眠らず側についていたイブキは、喜びの声を上げて百合に抱きついた。
「でも、どうして……」
あの場所にいたのですか。
そう問いかけるイブキに、百合はため息を零した。
「和樹さんの様子が変だと気づいて、密かに動向を探っていたの。そしたら、千珠と和樹さんがあなたを殺す話しをしていたのを聞いてしまったの……。もう、これ以上和樹さんに罪を犯してほしくなかったのよ。前に話したでしょう? わたくしは和樹さんに今もずっと片思いをしているの。なぜかわかる? あの人の心の中にはいつも別の人がいたからよ。飛鳥さんといってね、とても美しい方だったわ。女のわたくしから見ても綺麗で、優しくて、明るくて……本当によい方。和樹と並んだ姿は、美男美女で……とてもお似合いのカップルだった。二人とも仲が良くて、皆羨んでいたわ。けれど、大学も卒業間近の頃、飛鳥さんは事故で亡くなってしまったの。
――――本当は、見ているだけで良かったの。でも、本心は違ったのね。彼を独占したくてしょうがなかった。わたくしは飛鳥さんを知らぬ間に憎んでいたのよ。だから、飛鳥さんが亡くなった時、心のどこかで安堵していたの。彼は自由の身だってね。そんな卑しい思いが嫌で、でもそれが事実だからどうしようもなく悲しかった。自分がそんな感情を持っていたなんて信じられなかったの」
百合は溜め息を吐くと、目を瞑った。
「わたくしの醜い心はだれにも知られていないと思っていたわ……けれど、お父様はご存知だったの。わたくしが和樹さんに恋心を抱いていたのをご存知だった……飛鳥さんがいなくなればいいと思っていたのもご存知だった……だから…、あぁ、恐ろしい……! イブキ、悪いのはわたくしなのよ。わたくしが和樹さんを好きになってしまったばかりに、愛し合い、お互いを支えあっていたカップルを引き裂いてしまったの……」
「飛鳥さんという方は事故で亡くなったのでしょ? なぜ叔母様のせいになるのです」
「わたくしもずっとそう思っていたわ……。飛鳥さんを亡くし、憔悴していた和樹さんを慰めていくうち、わたくしたちの間には愛が芽生えていったの。いえ、彼は愛じゃなかったかもしれないわ。彼が愛しているのは飛鳥さんただ一人だったんですもの。それでもよかったの。彼の側にいられるだけで……。結婚しようと言ってくれたときは嬉しかったわ。とても、幸せだったわ。彼はわたくしにとても優しかった。わたくしは飛鳥さんのように美人ではないし、頭もよくなかったから、彼がわたくしのどこに惹かれたのかはわからなかった。だからかしら。財産目当てだとそしる者は少なくなかったわ。週刊誌もマスコミも面白おかしく書きたててね……」
百合はメイドが新しく用意した冷めたアップルティーを口に含んで喉を潤すと、
「でも、彼はそんな不誠実な人ではなかったわ。彼はお父様の財産が目当てでわたくしと結婚したのではなかったの。わたくしを少しでも愛してくれていたのよ……。けれど、結婚して一年が過ぎた頃かしら、彼は突然人格が変わったかのように冷たい目でわたくしを見るようになったの。その時、わたしくは知らなかったわ。本当に知らなかったの……」
百合の潤んだ瞳から涙が一筋零れ落ちる。
「彼がわたくしを憎むようになった理由を知ったのは最近よ。お父様はね、飛鳥さんを事故に見せかけて殺していたの。多額のお金と引き換えに、殺し屋を雇ったのよ……。信じられる? そんなドラマのようなお話。でも、お父様はしてしまったのよ。わたくしのために……。わたくしの恋を実らすために……」
「そん、な……」
「お父様はわたくしのためならなんでも平気でやるのよ。けれど、そのことを和樹さんは知ってしまったみたいなの。そして、復讐するためにお父様を事故に見せかけて殺した……。皮肉ね、お父様も崖の上から亡くなったのよ。飛鳥さんと同じように……。そのあとお兄様も行方不明になって……わたくしはてっきりお父様のように亡くなっているものだと思っていたの。けれどお兄様が生きてあなたという可愛らしい子をなしたと知ってどれだけ嬉しかったか……」
語尾が震えていた。
「和樹さんは蓮波の血を恨んでいたの。富そのものを恨んでいたのかもしれないわね……。お父様を和樹さんに殺されたと知っても、わたくしは警察に行かなかった。行けなかったのよ。だって、最初に罪を犯したのはお父様なんですもの……。わたくしは沈黙することで平静を保っていたの。でも、あなたが来て……そう、何かが狂い始めたのね。いえ、元に戻ろうとしたのかもしれないわ。わたくしは和樹さんを救いたかった。たとえ死ぬことになっても……でも、わたくしは生きているわ。和樹さんの嫌う血はまだ残っているの……」
「いいえ、いいえ叔母様! 和樹さんは、叔母様を愛していると伝えてくれとおっしゃったわ。和樹さんはずっと叔母様のことを愛していたのよ。でなければ、叔母様のことも殺していたはずよ」
「和樹さん、が……? だって、そんな……」
「会社を潰してはしまわなかったのは、叔母様のためよ。お兄様……千珠が話してくれたの。叔母様は裕福な家庭でお育ちになったでしょう? 何不自由ない生活……けれど会社が……しかもトップが倒産してしまったらそれができなくなってしまう。和樹さんは叔母様に苦労をさせたくなかったのよ。和樹さんはずっと叔母様のことを想っていたんだわ」
「……っ」
百合の口から押さえきれない嗚咽が漏れ始める。
「和樹さんは、自分の命を叔母様に与えたのよ。これ以上の愛情表現ってないわ」
イブキのその言葉に、百合はひゃくりをあげながら泣き出した。
悲しみを全部流してしまうかのように。
そしてイブキは、そんな百合を黙って抱きしめていた。




