その四
「イブキ様――!」
イブキの体が木の葉のように舞い落ちる様を目の端にとらえていた華澄は、瞠目しながら叫んだ。
「これで姫君も終りですね」
華澄の攻撃によって左手を失った鈴死は、声に愉悦を滲ませながら、そっと血が滴り落ちる腕を外套で包んだ。
華澄が怒りもあらわに鈴死を睨み付ける。
「イブキ様は殺させません」
儡糸がイブキの胸にナイフのように鋭い爪を突き立てようとするのを華澄の呪術によって防ぐ。儡糸の体は爪を残して粉々に飛び散った。
華澄は、空間を移動するとイブキの体を起こした。
「イブキ様」
華澄が名を呼んだ。
「カ、スミ……」
気を失っていたイブキは薄く瞼を開くと、顔を覗き込んでいる人物を認め、ほっと安堵の息を漏らした。
「起きられますか?」
「ええ、大丈夫よ」
イブキは墜ちてもなお、手の中にある剣に掴まりながら立ち上がった。
華澄は、一瞬凍るようなまなざしでその剣を見つめると、ふっと冷笑した。
「私はあの方の足留めを致しましょう。そのすきに、その剣を心臓に突き刺して下さい。そうすれば生き返ることもなくその身は霧散しましょう」
「鈴死はどうするの?」
霧散、という言葉に体を震わせたイブキは、千珠の死を振り払うかのように尋ねた。
「そうですね、あの方を始末する間だけ別の空間に移動していただきます」
「――わかったわ」
焼けるような痛みに顔をしかめながら、イブキは了承した。深呼吸をして、乱れる息を整える。剣を持つ手が小刻みに震え、脂汗が吹き出して、柄から滑りそうになる。歯を食いしばって耐えながら、上を仰いだ。そこには楽しそうに笑む千珠の姿と愉快そうな鈴死の姿があった。
愛しい人。
だれよりも好きで、大切な人。
本当は憎むべき敵なのに、どうしてこんなに愛しいのだろう。
気を抜けば溢れ出しそうになる涙を飲み込んで、イブキは柄を持つ手に力を込めた。包むような温かい波動が、手から全身に伝わる。
この戦いに終止符を打つには、どちらかが死ななければならない。
だったら――。
イブキは華澄に合図をすると、別々の方向に跳んだ。着地する瞬間、イブキはよろけそうになったが、とっさに剣を地面に突き立てたおかげで転倒せずにすんだ。
華澄の方を見ると、彼女は歪んだ地面を駆けながら詠唱していた。そして、唱え終わると姿を消した。驚いたのはイブキだけではなかったらしい。千珠と鈴死も視線をさまよわせる。
「どこだ」
千珠は低く呻いた。
「ここです」
ハッと千珠と鈴死が構えた時はもう遅かった。華澄は鈴死の体に触れた。刹那、鈴死の姿はその場から消えた。
「そう来たか」
千珠は横に飛ぶと、華澄を憎々しげに睨んだ。瞳には、憎悪以上の何かが宿っていた。
「これで終りです」
華澄は勝者の笑みを浮かべると、風を切ってこちらに飛んでくるイブキを視界の隅に捕らえ、千珠から離れた位置に移動した。
「さようなら」
愉快そうに喉を鳴らして、千珠に対して今生の別れを述べた。その顔にいつもの無表情さはなかった。子供のように無邪気な笑みを浮かべた華澄は、イブキが千珠に剣を向けたのを見て、笑みをかみ殺した。
「いやぁぁぁ――――っ」
イブキの絶叫が空全体を震わせた。哀しみに彩られた叫びは、聞いている者の心をも哀しみに曇らせるほど悲観さに満ちていた。
「……ッ」
剣先が千珠に届く手前で自分の方に向けるつもりだった。自分が、死ぬつもりだった。なのに、なのに彼は――。
『イブキ……』
ひどく優しい声音で彼が名を呼んだ。愛しい者を見るかのような目付きでイブキを見つめる。彼は、迫り来る刃に怯みもせず、ただイブキだけを見つめていた。まるで、イブキの姿を永遠に記憶するかのように。
『死ぬのは俺だ』
イブキの決意を知ってか知らずか、そう言い残すと、彼は柄を握るイブキの手に手を重ね、自ら剣先に身体を押し当てた。
それは永遠とも思えるほど、長く感じた瞬間だった。彼は、激痛を感じてか小さくうめくと、凍り付いたように固まっているイブキを、息を引き取る最期までじっと見つめていた。
真紅の血が、錆びた匂いを充満させながらイブキの手を伝って流れ落ちた。
「嘘、よ……こんなの嘘よ――!」
千珠の体が突かれた場所から風化し始める。灰色に変化した千珠の体は、突然吹いた強風によって砂のようにさらさらになって飛ばされた。残ったのは、千珠の血と匂いだけ。
イブキは顔を覆うと、半狂乱になって叫び続けた。剣は、すでに宝石の中に消えていた。イブキの嘆きを分かち合うかのように、宝石も微かに左右に動いていた。
「兄様……っ」
覆った隙間から、手にこびりついた血と、イブキの涙とが混じり合って血の涙を作り上げた。ぽたり、ぽたりととどめなく流れ落ちる涙は、光に反射して本物の紅玉以上に美しい色合いを放っていた。
「クク…ック――――ハハッ!」
イブキが哀しみの声を上げる中、突如として甲高い笑い声が響き渡った。
「カ、スミ……?」
顔を上げたイブキは、気が狂ったように笑う華澄の姿を見て、背筋を凍らせた。
怖い。
清廉とした美しい顔は相変わらずであったが、三日月型に細められた双眸の奥に澱みを見たような気がして、心臓が嫌な鼓動を打った。
知らず掌に汗をかいていて、それに気づいたイブキは思わず拳を作った。
「イブキ様」
イブキの視線に気付いた華澄は、笑うのをやめた。いつもと変わらない声なのに、なぜか威圧感と恐怖を感じた。
「貴女はきっと覚えていらっしゃらないでしょう。私が記憶を封印しましたからね。――この声に聞き覚えはないですか?」
それは女性の声ではなかった。
千珠と同じくらい魅惑的な男性の声。
けれど、決定的に違うのは、その声に明確な殺意と殺気が含まれていたこと。
「――!」
冷や汗が頬を伝った。
底に封印されていた記憶が鮮明に蘇る。
「あな、たは……あの悪夢に出てきた……」
「そう。あれは夢であり、現実」
華澄は、狡猾そうに瞳を輝かせた。顔が二重に重なり、その下から似て非なる顔が現れた。
「我が名は魔帝」
そう名乗った彼は、華澄と酷似した容姿でありながら、違う雰囲気をまとっていた。長かった髪は短くなり、黒かった瞳は血のような赤へ。スカートは二つに切り裂かれると、漆黒の布地に変わり、二脚の足を包み込むズボンになった。上衣も女物から光沢のある黒い男性物のシャツへ変化した。
「カスミはどこへ行ったのですか!」
「華澄はわたしの仮の姿。そなたを監視するために、わたしが装っていたのだ」
イブキが息を飲む。
「わたしは、この日をずっと夢見てきた」
「どういうことです?」
意味がわからず眉を寄せたイブキに、魔帝がうっすらと残虐な笑みを浮かべた。そして、事の成り行きを把握仕切れていない和樹に顔を向けると、口を開いた。
「そなたを巻き込んだのは千珠だ。わたしが問うた時、そなたは頷いた。ならば、それ相応の対応をさせてもらうか」
「なにを……!」
和樹は片頬を引きつらせた。周りを囲っていた炎は、すでに鎮火していたが、足は地面に縫い止められたように動かなかった。魔帝の冷たく凍った瞳が全身を串刺しにする。息苦しさに眉を潜めながら、これから自分の身に何が起こるのか悟っていた。
魔帝が手を和樹に向ける。
和樹には、その様子がとてもゆっくりと感じられた。
掌から眩い光が飛び出し、和樹の視力を奪った。
イブキの叫び声が、どこか遠くに感じられた。
ああ、死ぬのか。
と、和樹は冷静に自分の死を受け入れた。もしかしたら、ずっと自分は死を望んでいたのかもしれない。復讐という名の鬼になってから……。
「……ッ」
ドン、と何かが和樹の体に体当たりした。勢いあまって、彼の体は土の上に吹き飛ばされた。刹那、遠ざかっていた意識が蘇ってきた。
「何が……」
死ねると確信していた和樹は、転倒したとき強く打った頭に手を添えて起き上がった。
そして、見てしまった。
一番見たくなかった光景を。




