第七章 鈴形家──聖なる子の悲しみ──
夕方。
イブキが戦いに赴く事を伝えられた桔梗は、その日の予定をすべてキャンセルして屋敷を訪れた。仕立てのいい濃紺のスーツに身を包み、老いを感じさせない覇気を体中から溢れ出していた。
「行くのか」
桔梗はイブキが部屋に現れるとまずそう言った。その一言に含まれた複雑な想い。
桔梗は、イブキに危険な道を歩んでほしくなかった。なのに、彼女は進んで茨の道に身を投じてしまう。
止めることさえ出来ない自分に苛立ちながら、無力な自分を責めた。
一緒に戦いたい。けれど、力無き人間がいたら足を引っ張り、イブキに余計な負担を強いてしまうことは目に見えている。
「はい。本当に色々とお世話になりました」
深々とお辞儀するイブキに、桔梗は歩み寄ると抱き締めた。
「観ているのは駄目か?」
最後の足掻きとばかりに華奢な背中にそっと腕を回しながらそう提案した。
「危険です……! どこに身を忍ばせているのかもわからないのに……!」
イブキが即座に却下した。
「わかっている。だが、それでもお前の身を案じてしまうのだ。たとえ、この体が朽ち果ててもお前の勇姿を見届けたい。――それがどのような結果でもな」
死ぬな。
全身でそう訴えてくる桔梗に、イブキは熱いものが込み上げてきて瞼をぎゅっと閉じた。
「キキョウさん……」
「私も同じ気持ちよ」
そう言ったのは、後から入ってきた夏女だった。おそらく泣いていたのだろう。目を真っ赤にして立っていた。
「ナツメさん……」
幸せだと思った。
そして、心底この国に来てよかったと思った。
「――イブキ様」
その時、華澄が頃合を見計らっていたかのようなタイミングのよさで姿を見せた。
「カスミ」
今までどこに行っていたのかとは問わなかった。
どこにいても華澄は自分を見つけてくれる。
そして助けてくれる。
それだけで十分であった。
「行かれるのですね」
「ええ……」
なぜそのことを知っているかなんて不思議に思わなかった。
ただ、彼女もついてきてくれるという確信が、イブキには嬉しかった。
最後の晩餐。
それは、一流の音楽団の華やかな曲から始まった。
広々とした食事室に優雅な音色がさざ波のように広がる。
中央の長いテーブルを中心に、周りにはいくつものテーブルが置かれていた。その上には美しく盛り付けされたお皿が並んでいる。和洋折衷問わず作られた品は、どれも最高の料理人によって作られていた。多すぎる量の理由は、今日ばかりは無礼講とばかりに桔梗はメイドたちや執事も一緒に食べることを許したからだ。なぜ今日に限って? という疑問を口には出さず、みな食事を楽しんでいた。
桔梗は、無理やり笑んで話に花を咲かせる。夏女のほうは、イブキを引っ張り回してこれ、美味しいわよ? などと言いながら次々とイブキのお皿に乗せた。
楽しい一時。
桔梗と夏女から贈られた最後のプレゼント。
イブキは気を抜けば溢れてくる涙を堪えながら、夏女が勧めてくれた物を食べた。
これで最後かもしれないと思うと、恐ろしくもあったが、不思議と心は安らかだった。
バイオリンが奏でる切ないメロディーが、全身を淡く包む。音は見えない力となって勇気を与えてくれる。
「――カスミ」
食事会も最高の盛り上がりを見せた頃、この場にはいない華澄の名を呼んだ。すると、聞こえるはずはないのに音もなく華澄が姿を見せた。会話で弾んでいる人達には、華澄がいきなり現れた事に気付いた者はいなかった。
「お願いがあるの」
イブキは後ろに影のように控えている華澄の顔を見ずにそう切り出した。
「最後に、ユリ叔母様の所へ行きたいの」
ぎゅっと唇を痛いほど噛み締めてそう懇願した。
「わかりました。こちらのほうはもうよろしいのですか?」
「――お別れは言いたくないの。言ってしまったら、本当になってしまいそうだから。私はこのまま消えます」
夏女はデザートを取って来ると言って席を外していた。
「そうですか。ならば、この手をお取り下さい。目を瞑っていてもらえますか?」
イブキは振り向くと冷たい手の上に自分の手を重ねた。そして、静かに瞼を閉じる。絢爛とした光景が闇の中へと消えていった。目の端に、お皿を持った夏女の驚いた顔が映ったが、それもすぐに見えなくなった。
視界が回る。
体が吸い込まれてしまいそうな不思議な空間。
「イブキ様、着きましたよ」
「ありがとう。カスミ」
目を開けると、煌煌と明りのついた廊下にいた。目の前には焦げ茶色の扉があった。その扉の中央には彼女の部屋であるマークが彫られていた。清らかに咲き誇る百合の模様が、心を落ち着かせてくれた。
イブキは一呼吸すると扉を叩いた。
「――美鈴なの? 今夜はこの部屋に来ないよう言ったはずよ」
中から柔らかな声が聞こえた。けれど、その声は沈んでいて、震えていた。
「このような時間にすみません。けれど、どうしても――」
言葉がとぎれた。言い終わる前に扉が開いたからだ。
「イブキ……!」
寝巻き姿の百合が、泣き腫らした瞳でイブキを見つめた。
「あなた、どこへ行っていたの? 黙って姿を消して……とても心配していたのよ?」
百合は二人を部屋の中に入れるとソファーに座らせた。自らもティーセットを奥の部屋から持ってくるとテーブルの上に並べた。
三つのカップにお湯を注ぐ。
「今夜は、お別れを言いに来たのです」
「お別れ……? 何を言い出すの、イブキ」
カップの取手を持つ手がかたかたと震えていた。血の気が引いたようにその顔は真っ青だった。
「人生は自分で選ぶものだと。私はそう思っています。たとえその道が平坦でなかったとしても……。私が選んだ道は、決して楽なものではありません。だからこそ、別れを告げなければならないのです。険しい道を選んだ私に、再び地を踏む事が出来る保証はどこにもないのです」
「――死にに行くつもり?」
「いいえ。決着をつけに行くのです」
何の迷いもない決然とした声音。
百合は溜め息を吐くと、紅茶を口に入れた。喉がからからだった。温かい液体がゆっくりと嚥下し、渇いた喉を潤す。
「そう……。ならば、わたくしも決心しましょう。イブキの言うとおりだわ。人生……わたくしの人生だもの。いいのよね、好きに行動して。ねぇ、イブキ。わたくしの愚かさを嘆かないでね」
「ユリ叔母様……?」
弱々しい光を宿していた百合の瞳が、今は何かを決意したように強い輝きに変わっていた。
「わたくしも自分で決めた道を進むのよ」
この言葉にどんなに深い意味が含まれていたのか、まだこの時のイブキには知る由もなかった。




