そのニ
空調機から流れる暖かい風が、イブキの冷たく冷えきった体を包んだ。凍り付いた心までも溶かしてしまいそうな暖かさに、涙が溢れた。もう、枯れ果ててしまったと思っていた透明な滴は、止まることはなかった。
「イブキ? 入るわよ? ココアを持ってきたのよ。体が芯まであったまるわよ?」
ドアが開いた瞬間、一瞬だが冷気が部屋に流れ込んだ。その冷たい空気と一緒に、夏女が入って来た。真紅のカーディガンを羽織り、スリップの入った長く、脚に張り付くようなスカートを身に着けていた。
「イブキ? どうしたの、その顔! どこか痛いの?」
夏女はテーブルの上にカップを置くと、イブキの顔を見て心配そうに眉を寄せた。
「いいえ、いいえ、違うのです……」
イブキは弱々しく首を振りながら、側に駆け寄ってきた夏女にすがりついた。涙で、夏女の服を汚してしまうと思いながらも、今は彼女しか頼れる人はいなかった。
「何があったのか知らないけど、今は泣きたいだけ泣くといいわ。女はね、泣いた分だけ強くなるのよ」
「ナツメ、さん……」
「長い時間、外にいたでしょ。あなたを見つけた時、本当に驚いたわ。体が冷えきって、まるで夢遊病のように歩いていたんですもの。薄着で、こんなに寒い外を歩いていたなんて無謀よ。ずっと探していたのよ。あなたが突然消えてしまったあの日から」
「え……?」
イブキは夏女の顔をくいいるように見つめた。今聞いた言葉が信じられないといったように。
「手紙、読まなかったのですか?」
言葉の疎通はできるが、日本語を書くのは難しかった。けれど華澄に懇切丁寧に教えてもらい、少しは書けるようになったのだ。
そこでイブキは、滑らかといいがたい文章で、これまで置いてくれたお礼と、兄を捜しに屋敷を出ることをつづった手紙を机の上に置いてきたのだ。
「手紙……? 何のこと? 私は知らないわよ。あの日、あなたを起こしに行ったメイドが、イブキがいないって私の部屋に飛び込んできたのよ。荷物もなかったから、出掛けたのかもって思ったんだけど、日が暮れても戻らないから人を雇って調べさせたのよ。でも、全然駄目だったわ。いくら探しても見つからなかった。防犯カメラにも映っていなかったし……。グリム童話に出てくる人魚姫のように泡となって消えてしまったのかと思ったわ。華澄もあなたと同じように行方知れずになるし」
「え……。華澄…は、私と一緒にいました。華澄が、私を助けてくれたのです」
そう呟くイブキの顔色は悪かった。
(なぜカスミはナツメさんに何も言わなかったの……?)
華澄は、イブキの居場所を知っていたはずだ。
そうでなければ都合よくイブキを助けに来れなかっただろう。
なのに、必死でイブキの行方を探していた夏女たちには知らせなかった。それは、なぜか。手紙の事に関しても、確かに目立つところに置いたはずなのに、それを見落とすだなんて絶対にありえないことだ。
もしかして華澄が――?
そこまで考えて、イブキはいいえ、と思い直した。疑心暗鬼に捕らわれてはいけない。華澄がやったという証拠はないのだ。それに、もしかしたらイブキの心に疑惑を植え付けるために千珠がやったのかもしれない。
千珠が……。
閉じられた瞼の裏にくっきりと浮かぶ千珠の顔。胸が締め付けられたように痛くなった。
「一緒に、いた……? なら教えてくれればいいものを。本当にあの子ったら……っ」
「ナツメさん……?」
「あ、いいえ、何でもないわ。それより、ココア飲まない? もうぬるくなってしまったかもしれないけど。美味しいわよ? うちのココアは」
夏女は、イブキの体をそっと離すと、テーブルに置かれていたカップを持ってきた。そして、だいぶ体温が上がったイブキの手に取手を握らせる。花の模様が描かれたカップから、かすかな湯気が立ち上ぼる。甘い香りが二人の鼻孔をくすぐった。
「美味しいです。とても」
コクン、と一口含むと、口の中に残るココアを味わうようにして呟いた。
「でしょう? うちのココアは絶品よ」
夏女はふふ、と艶やかに笑んだ。
そして、イブキの顔に赤みが戻ってきたのを確認すると、微かに安堵の息を漏らした。暖房のお陰で、だいぶ顔色が良くなったようだが、彼女を見つけた時は、本当に顔が青白くて、今にでも溶けて消えてしまいそうな雰囲気があったのだ。触れたら、壊れてしまうのではないかと憂慮するほど、彼女の存在自体が不安定だった。
一時間前、屋敷にイブキを連れ戻った夏女だったが、イブキは何も語ろうとしなかった。そして、夏女も無理に訊こうとしなかった。彼女に必要なのは、暖かい部屋と休息だと思ったからだ。
ありとあらゆる情報網を駆使してもイブキの居所がわからなかっただけに、夏女の落胆は大きかった。だから、イブキらしき人物がいたという情報を聞きつけ、町に出向いていったとき、本人を発見して嬉しかったのだ。これまでに誤報が何度もあったために、今回も人違いかもしれないという不安を抱えていた分、その歓喜は大きかった。
そのとき、ドアがノックされた。
夏女は、入りなさいと命じる。
「失礼致します。イブキ様宛てに手紙が届いておりましたので――」
夏女の部屋にいると伝えられて持ってきたのだと彼女は言った。
夏女はその手紙を不審そうに一瞥すると、イブキの代わりに受け取った。そして、下がるように指示するとイブキに真っ白な手紙を渡した。
「蓮波の社長夫人にこの屋敷にいると教えたの?」
「え……、いいえ。教えていません」
教える間もなく勝手にあの家からいなくなってしまったのだ。きっと百合は自分を捜しているかもしれない。行方不明となった悠貴を自分に重ねて。
百合ではないとしたら、だれが? と二人は顔を見合わせた。
イブキは自分の名前以外書いてないのを確かめると封を切った。
今夜零時に都の岬にて
たった一行。そう書かれていた。
「何よ、これは!」
最初に我に返ったのは夏女だった。便箋を憎々しそうに見つめると、恐る恐るといったようにイブキに話しかけた。
「まさか……行かないわよね? 罠よ。罠に決まっているわ」
「わかっています。けれど、この手紙を書いたのが兄様であるのならば、私は決心しなければいけません。戦いは……、」
そこでイブキは言葉を飲み込むと、両手をぎゅっと握った。閉じられた瞼が開いた時、彼女の瞳に浮かんでいたのは決意だった。
「避けられないのです」




