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    その二

 さらさらさら

 今の時期、いっそうと濃く色を付ける葉が、潮風になぶられて、互いにこすれ合いながら揺れていた。

 一望に海が見渡せる小高い丘の頂上に立っていたイブキは、心地好い風を全身に浴びながら、うーん、と腕を伸ばした。眼前を澄み切った空と青い海が、果てしなく続いている。その開放的な雰囲気に触発されてか、この場所に来ると嫌なこともしばし忘れてしまうのだった。

 イブキは軽やかな足取りで地面を踏みしめると、両手を広げ草花の中にふわりと倒れ込んだ。彼女は眩しい陽射しから逃れるようにそっと長い睫を落とし、瞼を閉じた。寄せては返す波音が、心に溜まった鬱憤をなだめていく。

 この島では、二百歳になってやっと一人前と認められるのだ。それなのにたった十七年しか生きていない自分とイナミを結び合わせるなど横暴にもほどがあった。

 子孫繁栄を望む祖父の気持ちもわかるが、それでは家庭という檻に縛られてしまう自分はどうなるのだろうか。自由に羽ばたくこともできない自分は……。

 羽をもがれた鳥は生きていけない。


(そう…、檻に閉じこめられたら、私はきっとあまりの息苦しさに窒息死してしまう。でも、父様の……、父様が生まれ育ったという島国で私も過ごせたら、捕らわれても生きていく術を見つけられると思ったのに………)


 それなのに、不意に突き付けられた真実。

 それはあまりにも残酷で、甘い夢を無残にも打ち砕いてくれた。自分が聖なる子( クレス リー )と呼ばれる限り、この体は一人のものではないのだ。

 聖なる子( クレス リー )……!

 なんと重い響きを含ませた呼び名なのだろう。

 島の存続に一筋の希望を与えてくれた奇跡の子という意味でつけられた名だったが、自分一人が背負うには、あまりに大きい。


(私は自由に死ぬことさえも許されない人形) 


 異人の血が流れるイブキにとって、この小さな島で一生を終えるなどということは、耐え難い事実だった。


(どうすればいいの……)


 花の甘い香りを胸に吸い込みながら、これからのことを考えた。


「イブキ」


 ふいに顔に影が落ちた。

 耳に優しい声音はイブキがもっともよく知る人物のものだった。


「イナ、ミ……」


 音もなく近付いてきたイナミに驚嘆としながらも、イブキはゆっくりと瞼を上げ、数回瞬きを繰り返した。


「君は嫌なことがあるとすぐこの場所にくるね」


 イナミは、ふんわりと柔らかな笑みを浮かべながら、イブキを見下ろしていた。男の人なのに性別を感じさせない優麗な顔立ちは、長身なのに威圧感を全く感じさせない雰囲気を醸し出していた。

 彼はイブキの横に座ると彼女の艶やかな髪に触れた。


「僕と一緒になるのはそんなに嫌?」


 イブキは上半身を起き上がらせると、頭一つ分以上高い位置にあるイナミの瞳に視線を合わせた。


「正直に言うとわからない……」


 弱々しく首を横に振りながら、溜め息を一つ零し、憂えた瞳でイナミの肩越しから見える海を見つめた。


「私は皆とは違うの。力は使えないし、成長も早すぎる」

「それは……」

「知ってるわ。それは、父様がなんの力も持たない短命の種族の者だったからなのでしょう? 父様は異国の人。長命の種族の血と短命の種族の血が交わればどうなるのかだれにもわからない。前例がないもの」


 イブキは手に触れた花を一本摘むと指先でくるくると回した。そうすると四つの涙型の葉の中心に描かれた模様が合わさって一つの形になる。それを物憂げに見つめながら、小さくため息を吐いた。


「……お祖父さまが貴方との婚儀を早めるのは、私の寿命が長くないと思ったのかもしれない。だって父様が住んでいた国では、平均寿命が百もいかないってオノウミたちが話していたのを聞いたんですもの」


 オノウミはイブキにとって実母に近い存在であった。母のないイブキを哀れんでか、長の孫だからと一歩引くことなく、愛情深く慈しみ、時には叱って正しい方向へ導いてくれた人。

 気性はとても穏やかな人で、今は森の中枢に家を建て、夫と二人で仲睦まじく暮らしている。子宝には恵まれなかったが、その分夫婦の絆は強いようで、お互いを思いやる二人の姿をいつも羨ましく思っていたものだ。


「その話を聞いて思ったの。寿命が短いなら好きなことをしたいって。もちろん長の血も引いているのだから、最低でも百五十年は生きられると思う。…百五十年なんて短い年月だけど、えぇ、普通なら成人の儀だって迎えられないわね。だって成人の儀は二百歳にならなければ行わないもの。けれど、とても早く成長している私から見れば、百五十年は長い時間──だと思う。子供は私以外いないし、みんなの成長がどれだけ緩やかなのかわからないけれど……、ねぇ見て。私は小さな子供かしら? 百を数えるにはまだずいぶんと時間はあるれど、外見はもう子供じゃないわ。知能だってイナミたちとそんなに変わらない。ちゃんと理解できるし……私は子供じゃない」


 四つ葉を弄ぶのをやめ、すっと視線を上げたイブキは、イナミを見つめた。


「貴方たちの時間で、そうね…瞬きをするくらいのほんの一瞬の年月で、私は大人になるの。――そうよ。私はもう一人前なのだわ。ねぇ、イナミ。生きる時間が短いってとても…そう、とても怖いわ」


 (けぶ)るような双眸が、微かに揺れた。


「イブキ……?」


 イナミはわずかに目を見開くと、すぐに柔らかく微笑して、イブキの不安を追いやるかのようにそっと白い頬に手を寄せた。

 色を失った顔に、人肌の温もりがとても暖かく感じられ、そっと瞼を閉じたイブキは、イナミの手の甲に自分のを重ねた。

 自分はきっとイナミより早く年を取る。いつまでも若く美しいイナミの隣に醜く年を取った自分が寄り添う姿を思い描き、言いしれぬ恐怖が胸の内を騒がせた。


「イブキ…イブキ!」


 ほんの少しだけ恐慌状態に陥ったイブキに気づいたイナミは、もう一方の手を頬に乗せ、ぐっと顔を近づけた。震える顔を両手で包み込み、言葉を紡ぐ。


「イブキ、目を開けて、…そう、僕を見て。大丈夫。イブキが怖がることなんかなにもないんだよ。ここには僕がいる。君の側には僕がいるんだよ。だから怖がらないで。君を脅かすものはこの世に存在しないんだよ」


 イナミの穏やかな声で言われると、本当に恐怖が波のように引いていく。

 虚ろだった双眸に光りを取り戻したイブキは、間近にあるイナミの美しい顔を見つめた。優雅に曲がる細い眉。高い鼻筋。海の蒼と自然の(みどり)が混じり合った双眸は、宝石よりもずっと深みがあって華やかだ。輪郭はすっと細く、顔を縁取り背まで伸びた白金の髪は、陽に透かすと溶けてしまいそうなほど淡かった。

 彼こそが神に愛された聖なる子なのではないかと何度思っただろう。

 彼ほど不思議で美しい瞳を持っている者はいない。

 彼ほど儚げで美しい髪を持っている者はいない。

 島の者たちはたいがい黒髪に赤い瞳か、金髪に赤い瞳の者が多い。

 イナミのような容姿はきわめてまれであった。

 けれども、イナミの亡き父も同じような容貌をしていたと祖父が話していたから、遺伝なのだろう。

 イブキはずっと羨ましかった。

 イナミの輝くばかりのその姿が。

 目映くて、眩しくて――目をそらしたくなった。

 けれど同時に囚われてもいた。


「イブキ……?」


 心配そうな声に、ハッとわれに返ったイブキは、ほんの少し顔を赤らめ、そんな醜態を隠すかのように顔を振ってイナミの手を退けると、目の前の胸に顔をうずめた。


「もう、平気よ。ありがとう、イナミ。イナミの声ってまるで癒しの呪みたい……。イナミの声、好きよ。とっても落ち着く」

「僕の声でイブキが元気になるなら、一晩中だって囁き続けるよ。それでも震えるなら手をつないでいよう。君の恐怖が和らぐように、君を守る存在がいるのだと知らせるように。君のためならなんだってするよ」


 睦言のような甘い呟きは、イブキの耳をくすぐっていく。


「……そんなに甘やかさないで。一人では立てなくなってしまうわ」

「そしたら僕が責任をもって導くよ。君がうずくまっているのなら、手をさしのべるし、立ち竦んで動けないならそっと背中を押してあげる。だからイブキ、一人で悩まないで。痛みは分かち合うためにあるんだよ」

「痛み……。私にはイナミがいるわ。いつもイナミが私の痛みを和らげてくれる。けれど、イナミは? 貴方の痛みはだれが和らげてくれるの?」

「イブキ……?」


 戸惑いを含んだ声。

 イブキはイナミの背に腕を回した。存在を確かめるかのように強く抱きしめる。


「私はきっとイナミより早く死ぬ。イナミを一人にしてしまうわ。神が定められた命のともしびが儚げであるとわかっているのに、私はわがままなの。自分のことしか考えられない。イナミの願いをすぐに叶えてあげられない」

「馬鹿だね……本当に君は馬鹿だ。一時の幸せに、値打ちなどつけられないものだし、たとえそれが、瞬きよりも短い間だったとしても僕には幸福な時間として記憶に残るんだよ。君と早く結ばれたいという気持ちは本物で、けれどね、イブキ。僕にはこんな穏やかな時間……君と過ごす何気ない時が、なによりも大切で得難いものなんだよ。長が何を焦っているのかは知らないけれど、僕は君の気持ちが固まるまで待つつもりだよ」


 日だまりのような優しい声がふんわりと暖かさを持って降り注ぐ。

 繊細なイブキの心ごと包み込んでくれるようで、知らず安堵の息が漏れた。

 ずっと…この温もり中で育ってきたのだ。

 何度彼に助けられただろう。聖なる子でいることに嫌気がさして、自暴自棄になっていたイブキを支えてくれたのはイナミだ。

 いつもイナミは側にいてくれた。

 かけがえのない人なのだと思う。

 失いたくない人。

 けれど……。


「ありがとう……ありがとう、イナミ。私、イナミのこと好きよ。けれど、それが恋愛感情なのかはわからない。だって、貴方はあまりにも身近すぎたわ。私は生まれた時から、進むべき、するべき道が決まっていて、私の意志ではどうにもならないことばかり……」


 イナミが婚約者として決めつけられた人でなかったら……。

 もっとはっきりとした感情が芽生えていたのかもしれない。


「だれかに定められた人生を歩むなんてつまらない。私はそんなの嫌。でも現実は、そこ以外に道がなくて……。時折苦しくなるの。息がつまって……」


 紅玉のように鮮やかな瞳が、苦痛をたたえて潤み始めた。


「逃げたくなる。ここから。逃げられないってわかっているのに……」


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