第六章 蓮波家──聖なるの願い──
その日、イブキは蓮波家の屋敷に流れる不穏な空気を肌で感じていた。
百合は婦人会で出掛けていて、華澄の姿は朝から見えなかった。一人になりたいからと世話役のメイドを遠ざけてしまったイブキは、広々とした部屋にたたずみながら、先程から感じていた息苦しさに、胸元を押さえた。
「……っ」
部屋の中の酸素が薄くなったように、大きく息を吸い込んでもその苦しさは収まらなかった。イブキは、もつれそうになる足をどうにか叱咤しながら窓の方へと歩むと、窓ガラスを横に動かした。ひんやりと冷たい空気が暖房のきいた部屋になだれ込む。
「はぁ……ぁ……はあ……」
イブキは貪るように外の空気を吸った。身を切るような風が、薄い布を通してイブキの肌に刺さったが、今は息苦しさを解放したかった。
マダツの清々とした空気とは違う、汚れた空気を肺に送りながら、いっこうに消えぬ胸の圧迫感に、脂汗が手や額から滲み出てきた。
(くる……し…ぃ)
息が、出来ない。
意識が朦朧とした。
しかし――。
ふいに、胸の圧迫感がなくなった。
口から送り込まれてくる酸素が、体中を歓喜に満たした。ゆっくりと意識が回復していく。うっすらと靄がかかっていた瞳は光を取り戻し、苦しさに歪められていた顔もほっとしたように緩んでいた。だが、その顔は次第に、驚きと戸惑い、そして憂えた中に嬉しさを滲ませた表情へと変わっていった。
なぜ、と言葉にならない声が喉の奥へと消えていく。
イブキは廊下にいた。
そこがどこなのかも分からなかったし、どうやって来たのかもわからなかった。けれど、そんなことはどうでもいいほど衝撃的な光景が大きな窓ガラス越しに見えた。
彼、がいた。
黒いコートを羽織って大木にもたれかかっていた。長い手足を優雅に組んで、顔は不機嫌そうにしかめられていた。
彼との間を隔てる窓が邪魔で、イブキはそっとガラスに触れた。白のニットとロングスカートという軽装だったイブキは、凍えそうな冷気を全身に浴びながら、なぜか心だけはほんわりと温かかった。指先が寒さで震えても、吐き出す息が白くても、それでも彼女は彼から目が離せなかった。
心臓がきゅっと縮んだ。
胸に広がっていく、甘い感情。
砂糖菓子のように甘くて、糖蜜のように蕩けてしまいそう。
一生胸に封じ込めておかなければならない想い。
なのにどうしてこんなにも愛しいのだろうか。
なのにどうしてこんなにも胸が騒ぐのだろうか。
今にでも雨が降り出しそうな薄暗い空が、イブキの心をそのまま映し出しているようだった。
ずっと見つめていると、ふと彼がこちらを向いた。
瞳が合った。
それは気のせいだったかもしれない。
けれど、イブキにはそう思えなかった。
イブキは意を決するとその窓から離れた。廊下を突き進み、大きな扉の前に立つと取っ手を回して、外に出た。廊下にいた時よりも冷たい空気が勢い良く吹き付けた。
それでもイブキは進んだ。どんなに寒くとも今のイブキには平気だった。
会いたい。
会いたい。
声を聞きたい。
その想いだけがイブキを突き動かしていた。
木に体を預けて、曇天を仰いでいた彼の姿を見つけた時、心臓が止まりそうになった。静寂な庭で、自分の心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと思うほど、胸は激しく鼓動を打っていた。
「なぜ、来た」
彼は言った。こちらを振り向きもせず、無情に響く声音で。
けれど、イブキは胸がいっぱいで、何も言えなくなってしまった。言いたいことがあったのに、それは喉の奥へと消えていった。
「――もう会わないつもりだった」
彼は沈黙を破るように呟いた。その声には、どこか苛立ちが感じられて、イブキはびくっと肩を震わせた。ぞっとするような冷たい瞳が、イブキの体を貫いた。
「お前の存在自体が、俺をこんなにも苛立たせる。愛されて育ったお前にはわからないだろう。孤独と、闇の恐ろしさが。血を分けたたった一人の妹。けれど、だれよりも憎み、厭う存在。お前のせいで俺の存在は抹消された。お前がいなければ、俺があの島で暮らしていたんだ」
「――!」
その言葉の数々は、ナイフとなってイブキの胸を刺した。予期していた言葉なのに、体の震えが止まらなかった。
「この屋敷から出ていけ。目障りだ。今は、まだお前を殺さない。だが、次に会ったときは――必ず」
イブキは凍りついたように動かなくなった。そのまま心臓までも止まってしまうのではないだろうかと思うほどの衝撃が襲う。
彼の姿が消えても、イブキはその場から動けないでいた。
見開かれた瞳から涙が溢れ、頬を伝った。瞬きも忘れ見入っていた彼の姿はもうない。残像だけが、イブキの瞳に焼き付いていた。彼の声が、言葉が耳から離れない。
わかっていたことなのに。
彼が実の兄であったなら、決して自分に好意を持っていないことは。
なのに、日増しに強くなっていく彼への想いを押さえ切れず、愚かな行動をしてしまった。兄の思いさえ気付かずに彼の聖域を犯してしまった。
兄は島の人達を殺した。
そしてその彼に復讐を誓ったのは自分だ。
(兄様は敵なのよ……。いずれ、戦わなければいけないの)
どちらかの命の火が消えるまで、その戦いに終止符が打たれることはないだろう。
兄と戦う時、果たして自分は戦えるのだろうか。
イブキの心は大きく揺れ動いていた。




