その三
その夜、イブキは電気も点けずに、窓から見える月を眺めていた。銀色にも、金色にも見える月が心を和やかにした。イブキは月を見上げながら、千珠のことを考えていた。今は悠貴のことより千珠のことで頭がいっぱいだった。
兄弟かもしれないということが、イブキを苦しめた。
千珠は、島の人たちを憎んでいる。そして、自分も……。祖父たちを殺そうと刺客を差し向けた千珠は憎い。だが、それ以上に愛しさが込み上げてきて、相反する想いが胸の内で激しく葛藤していた。
暖房が効いた部屋の中で、イブキは肩を抱いた。
寒くはない。
けれど、どうしようもない不安がイブキを襲った。
この先、千珠と戦わなければならないことが、イブキには苦痛であった。
「彼がお兄様でなかったらいいのに……」
そうすれば彼を憎まなくてすむ、と溜め息交じりに呟いた。
「兄と妹……」
――禁忌。
近親婚の多いマダツ島では、特に兄弟同士の結婚をそう呼んでいた。
許されない罪。
けれど、許されない罪とされながら、血に執着している者たちは、もっとも自分と血が近い兄や姉、あるいは弟や妹を伴侶の対象として見ていた。禁忌の結婚は本当にまれで、子宝に恵まれないことのほうが多かった。だから、マダツ島では子が出来ぬということで、あまり快く禁忌を認めてはいなかった。
それでも人口が少なくなるにつれ、禁忌を犯す者が増えてしまうのは致し方なかったが。
イブキは今日何度目かも忘れた溜め息を吐くと肩を落とした。
刹那、体に緊張が走った。
だれか、いる。
イブキは悟られないように気を抜いたままそっと視線を室内に走らせた。暗闇のために、何も見えなかったが、気配は感じていた。殺気を隠しているようだが、射ぬかれるような鋭い視線は、体中に突き刺さった。
いつからいたのだろうか。
イブキは、全然気付かなかった自分を呪った。
――来る!
気配が動いた。
イブキは、とっさに窓の側を離れた。瞬間、風を切って鋭いナイフがイブキのいた場所に刺さっていた。月の明りに照らされて、きらきらと反射する。
「だれ? 姿を見せなさい!」
鈴死でないのは確かだった。彼はこんな姑息な手は使わない。彼なら堂々と真っ正面から勝負を挑んでくるだろう。千珠が新たに送り込んだ刺客だろうか。そう考えると、ずきっと胸を針で刺されたように痛んだ。
「……っ」
右手が壁にあたった。イブキは小さな呻き声を上げると、声を漏らさないよう唇を噛み締めた。暗闇ではどこになにがあるかわからなかった。しかも相手は跳び道具まで使っている。
状況はイブキにとってとても不利であった。
相手が動く気配を感じ、横に移動しようとしたが、何かが足にあたり、つまずいた。右手は庇ったものの、すぐに起き上がるのは無理だった。
気配が近付く。
イブキは、殺される、と思って目を瞑った。
しかし、予期していたはずの衝撃は訪れなかった。かわりに見知った声が頭上で聞こえた。
「大丈夫でしたか? イブキ様。遅くなって申し訳ございません」
「カ、スミ……?」
「はい、そうです」
華澄があの淡々とした声で答えると同時に、部屋の明りがパッとついた。
「カスミ……」
明るくなった部屋で、華澄の顔を懐かしさとともに見つめると抱きついた。
傍らには、見知らぬ男が横たわっていた。濃紺のスーツを着ている男性は、刺客とは思えないほど身なりが良く、知的な顔立ちをしていた。
「この人は……」
「わかりません。今は、当て身を食らわせて眠らせていますが、そのうち気付くでしょう。その時、だれに雇われたのか訊くとしましょう」
「……」
イブキは哀しそうに瞳を揺らした。もし、雇った人が千珠だったらと思うと、胸が張り裂けそうだった。
「イブキ様、怪我をされたのですか?」
「あ、これは……」
イブキが説明をする前に、華澄はイブキがきいたこともないような言葉を呟くと、包帯のしてある部分に手をかざした。
マダツ島の気候と同じような暖かい温度が、包帯を通して流れ込んでくる。
癒しの呪と少し似ているかもしない。
「これで大丈夫です。完全に完治しているはずです。痛みますか?」
イブキは、包帯の上からそっと触ってみる。
――痛くない。
次に、もう少しだけ力を入れるが、やはり痛くなかった。イブキは包帯を外すと、少しずつ腕を動かしてみた。最初は軽く。けれど、次第に速く。
「痛くないわ……!」
「ほかに外傷はありませんか? 治しますが」
「大丈夫。ほかにはないわ」
「そうですか」
華澄は男の体を楽々と持ち上げると、ソファーの上に転がせた。そして、近くにあった布を破くと男の手と足を縛った。
「カスミは無事だったの? 鈴死はどうなったの?」
イブキは、華澄が戻ってきたことに安堵したのか、矢継ぎ早に質問を浴びせた。
「貴女をあの場所から遠ざけた後、私はあの者と死闘を繰り広げました。あの魔物はとても手強く、気を抜けばこちらが殺されてしまいそうでした。結果は、両者相討ちで、私は息も絶え絶えに、貴女の身を案じながらあの者に見つからない場所で、傷を治していたのです。お陰で、貴女を探すことに手間取り、つい先程貴女の気配を読み取ることが出来たのです。けれど、本当に危ない所でした。もう少し遅ければ貴女は……」
「カスミ……。ありがとう……」
千珠のことしか頭になかったイブキは、申し訳なく思いながらも、華澄の自分を思う気持ちに胸を打たれた。
「ところで、このお屋敷は蓮波の本家とお見受けしましたが」
「ええ、そうよ。百合叔母様に助けていただいたの。…あ、百合叔母様はね、前会長の娘さんなのよ。しかもね、わたしの叔母様なの! ねぇ、カスミ。こんなに素晴らしいことってある? 私にもいたのよ。親族がまだいたの……しかも、お父様の国に………! 私ね、とても嬉しいの。叔母様は本当のお母様のように暖かい方だわ……」
しゃべりながら、徐々に眠気を感じたイブキは、誘われるまま瞳をゆっくりと閉じた。
「そう、ですか……出会ってしまわれたのですね」
すぅと寝息を立てるイブキを無表情に見下ろすと、
「着実に未来に近づいているのかもしれませんね」
ふと嗤った。
イブキの体をベッドに横たえた華澄は、ソファーに寝転んでいる男を一瞥した。男はすでに目を覚ましていた。
「目を覚まされましたか?」
華澄はイブキに毛布を掛けると、男の側に歩み寄った。男は口を魚のようにパクパクと動かしたが、声が発せられることはなかった。男の顔が恐怖に歪む。
「あなたが喋ることは何もありません。私には、だれがあなたを雇ったのかわかっています。けれど、イブキ様を殺そうとした罪は重いですよ? 自らの命であがなってもらいましょう。あなたは、邪魔なのです」
華澄は、青ざめた顔の男に、うっすらとほほ笑みかけた。どこか愉悦の混じった笑みは、イブキが見たこともないほど冷徹で、けれどどこまでも澄んでいた。




