そのニ
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
百合が中庭でお茶をしようと言ったので、外でお茶を飲んでいた。これまでの寒かった日々が嘘のように暖かであった。
イブキが蓮波家に寝泊りするようになって四日が過ぎていた。
忙しい百合は、あまりイブキと一緒にはいれず、今日は何も用事がないので久しぶりにゆっくりとイブキと過ごしていた。
雲一つない空が、見とれてしまいそうなほど青く澄んでいた。暖かい太陽の陽射しがイブキたちにさんさんと降り注ぐ。さわさわと風に揺れる木々と鮮やかな色彩の花に囲まれながら、イブキは慣れぬ左手でカップの取っ手を掴むと一口アップルティーを口に含んだ。真っ白なレースがついたテーブルクロスの上には、焼きたてのスコーンとクッキー、ジャム、砂糖、蜜などがところせましと並べられていた。
「ええ、一人。あなたと同じ年齢よ。名前は千珠というの」
その名を聞いた瞬間、イブキが持っていたカップが手から滑り落ちた。ガシャン、と音を立ててテーブルの上にガラスの破片が飛び散る。茶色い液体が白い布を染めて、イブキの方へと流れていく。
「まあ、大変! やっぱり利き手でないと物を持つのは難しいわよね。ごめんなさいね、気が利かないで。ああ、少し濡れてしまっているわ。火傷はしていない?」
メイドに処理を任せながら、百合は身動ぎしないイブキを急いで椅子から立ち上がらせる。タオルで服についた汚れを拭いながら、地肌まで濡れていないことを確認してほっと息を吐く。
「大丈夫よ。火傷はないわ。でも、この服では染みが目立つわ。着替えましょう」
放心したようなイブキに、きっとカップを割ってしまってびっくりしているんだと思った百合は、優しくイブキを誘っていく。
イブキの部屋である客室に行くと、百合はメイドのわたくしがやります、と言う言葉もきかずにイブキの服を着替えさせた。包帯のせいで着せるのは多少困難ではあったが、百合の瞳は生きがいを見いだしたかのように生き生きと輝いていた。
「さあ、これでいいわ。……あぁ、白いドレスがあなたによく生えるわ。もう少しレースと飾りがあってもよかったわね。季節が春だったならもう少し鮮やかな仕立てができたのに、残念だこと。年の離れた従姉妹のために用意したドレスが役に立ってよかったわ。サイズもそれほど変わらないようだし。彼女にはほかのドレスをプレゼンするわ」
楽しそうに話す百合の話を聞くうちに、イブキの瞳に光が戻る。
「あの、本当にセンジュという名前なのですか?」
「千の珠と書いて千珠。写真を見せてあげましょうか。とても綺麗な子なの。わたくしとは似ても似つかないわ。和樹さんの若い頃にも似ていないわね。そういえば、あの子はだれに似たのかしら?」
首を傾げながら百合は部屋から出て行く。メイドも付き添うように一緒に出て行った。一人だけとなった部屋で、イブキは激しく脈打つ心臓を左手で押さえた。
まさか、という思いが強くなる。
兄様が――!
いや、とイブキは思い直す。
名が同じでも彼は百合の子供なのだ。千珠が養子だとは聞かされていない。
だけどと首を振る。
彼ならば記憶の操作くらいどうということないだろう。
イブキは目を瞑った。激情が足の先から上に向かって津波のように押し寄せる。
島の人たちを殺そうと刺客を差し向けた千珠。憎いはずなのに、どうしてか憎み切れない。
「お待たせしたわね」
メイドが開けたドアから優雅に入ってくると、一枚の写真をイブキに見せた。イブキの体が緊張に強張る。
「残念なことに、これ一枚しかないのよ。あの子は写真が嫌いだから」
そう言いながら、ソファーに腰を下ろした。
「この人は……!」
イブキは驚愕とともに口元を押さえた。
手が、肩が震える。
今見たものが信じられなくて、目は呆然と見開かれていた。
「あら、知り合い?」
イブキのあまりにもびっくりした様子に、百合がゆったりと問い掛ける。
「ええ…………」
声を搾りだし、それだけ言うのがやっとだった。心臓が酷く痛んだ。まるで太い杭で打たれたかのように痛かった。泣きたくなるほど苦しくて、けれど切ないほど甘やかな感情が堰を切ったように溢れ出る。
(なぜあなたなのですか……?)
悲痛な声が、胸の内だけで消えていく。
写真に写っている人物は、とても美しかった。感情のない顔が、人形のように精巧で、冷たい双眸の瞳が真っ直ぐにこちらを見つめていた。その視線に捕らえられたようにイブキは目を反らすことができなかった。背景の真っ白な壁は、蛍光灯の淡い光に照らされて白さを際立たせているというのに、彼の回りは暗く陰影を落としていた。それがかえって彼の美貌に迫力を加え、写真であるにも関わらず本人が目の前にいるような錯覚さえ覚えてしまう。
熱く狂おしいほどの想いが込み上げてくるのと同時に、絶望的な波が押し寄せてきた。この想いは永遠に封じ込めなければいけない。なぜなら――。
(兄様……)
そっと唇に手をやったイブキは、甘くうずく感触を振り切るかのように唇を噛んだ。
「……わたくしね、辛い恋をしているの」
写真を見つめながら苦悶するイブキを見つめていた百合は何を思ったのか唐突にそう語り出した。
「え……?」
「…………夫なのに、片思いなのよ…笑ってしまうわね」
目を伏せて話す百合は、なんともいえない哀愁が漂っていた。イブキはなぜ突然百合がその話をするのかわからず黙って聞いていた。
百合は溜め息を吐くと、スカートをきゅっと握った。感情を押さえるかのようにきつく。
「…あら、そんな顔しないで。一緒になれたことが奇跡だったんですもの。なんのとりえもないわたくしと結婚してくれただけで十分……けれど、そうね……今の和樹さんは、なぜかしら、少し怖ろしいわ。仕事第一で、まるで別人のように冷たくて……。わたくしはその理由を知っているのにね。それなのにどうしようもできないのよ……」
語尾が震えていた。彼女の瞳から一筋の滴が流れ落ちる。
「……彼を愛しているのよ。たとえ愛されてなくとも、わたくしは和樹さんのことを……。千珠は、わたくしと和樹さんの愛の形なの。千珠がいる限り、わたくしはわたくしのままでいられるわ。あの子だけが心の支えなのよ……」




