第五章 蓮波家──聖なる子の嘆き──
「ん……、……ッ」
イブキは寝返りを打とうとして、右腕を貫かれたかのような痛みが走った。
けれどそのおかげで目が覚めた。右腕を庇いながら起き上がる。腕には包帯が巻かれていた。包帯は首を通り、胸元で固定され、腕は動かせなかった。
「あら、気が付いた? あなた、丸一日眠っていたのよ?」
柔らかな優しい声が耳を打つ。
真横に女性が座っていた。特別美人というわけではないが、笑顔がとても魅力的な女性だった。見ていると胸が温かくなるような笑みは、警戒心など忘れさせてしまう不思議な力があった。豊かな髪は三つ編みに結ばれ、品のよさそうな顔立ちは育ちの良さが伺いしれた。
「何が遭ったのかは知らないけれど、あんな薄着で今の季節外を出歩くなんて無謀すぎるわ。それに、腕も……。お医者様の話ではヒビが入っているそうよ。体も痣だらけで……。わたくしが見つけなければどうなっていたことか」
「あの、ありがとうございました」
優しく諭す女性に、イブキは頭を下げた。
「庭で倒れているあなたを見つけた時は驚いたわ。あなたが倒れていた庭はね、普段はだれも通らないの。わたくしも偶然通り掛かって…。そうしたら、何かが落ちる音がしたんですもの。それで慌てて駆け付けてみたらあなたがいたの。警備は完璧なようでまだまだ甘いのね。あなたがどうやってうちの庭に侵入したのか不思議がっていたのよ」
ふふ、と子供のような無邪気な笑みを浮かべる。
「あなたご家族は? 連絡しないと心配なさるわ」
「いえ……家族は………」
「あ…、あら……ご、こめんなさいね。わたくしったら、失礼なことを言ってしまって……。どうしましょう」
「気にしないで下さい。今は大分乗り越えられるようになったので」
悲しみは、いつか癒えるものだ。
最初の頃より島のことを思い出すことはなくなってきた。
いや、いろいろありすぎて思い出す間がなかったともいえる。
「健気ね、ええ、いい子だわ。あなた、名前は? わたくしは百合。蓮波百合よ」
「あ、私の名前はイブキです」
「イブキ。いい名前ね。あなたはきっと生命を運んできてくれるのだわ。どういう字を書くの? わたくしの兄もね、娘が出来たらイブキという名をつけたかったのよ。息を吹きこむと書いてイブキ。よい名でしょ?」
「ええ」
嬉しそうに語る百合に、イブキの顔もほころんだ。
「あの、なにか……?」
なぜか自分の顔を凝視してくる百合に、イブキは戸惑ったように眉を寄せた。
「あ、ごめんなさい。不躾よね。けれど、あなたがだれかに似ている気がして……」
「あぁ。この国の血が半分流れているからですね」
「半分……? あなたハーフなの? 髪の色も墨を溶かしたみたいに美しいから純粋な日本人だと思っていたわ。顔立ちもとっても綺麗。私は父に似たのね。だからこんなに平凡な顔立ちだけれど、兄は母に似てとっとも美しくて……」
「ユ、リ、さん……?」
やはり名を口にするとき難しい。
少し顔をしかめ、百合を心配そうに見つめると、同じくこちらを見つめていた百合と視線が絡まった。
「そう……そうよ、なぜわからなかったのかしら。わたくしったら大馬鹿者だわ。あなた、兄に似ているのよ。悠貴お兄様に……」
「ユウキ……? 素晴らしい偶然ですね。私の父もユウキという名なのです」
「お父様が日本人なの?」
「はい……けれど私が物心つく前に亡くなったと祖父が……」
「失礼だけれど、あなた今おいくつ? 十六、七に見えるけれど」
「十七です」
「お、お父様の名字は? もしかしてわたくしと同じ蓮波でなくて?」
「え…、えぇ、そうです。よくご存じですね」
イブキは少し驚いたように瞬いたあと、ふんわりと微笑した。
「まあ……!」
百合は興奮したかのように頬を染めると、どうしましょうと両頬に手をやった。
「ねぇ、わたくしの兄はね、ある日突然何も告げずに姿を消してしまったの。行方の知れない兄をわたくしは必死に捜したわ。警察や探偵を使って兄の消息を調べさせたけのだけれど、結局手掛かりすら見つからなかった。――もしかしたら、あなたのお父様は私の兄かもしれないわ。いいえ、きっとそうよ。同姓同名の別人ではないわ。お兄様ご本人よ」
百合は夢見るかのように双眸を潤ませると、愛情深い眼差しをイブキに送った。
「だって、兄が姿を消したのは十八年も前のことなの。あなたが生まれた年と近くなくて?なによりあなたの顔立ちは兄そっくりだわ。…いいえ、その言葉は少し適切ではないわね。お兄様のほうが少し男らしい顔立ちをしていたわ。なぜあなたを見た瞬間に思い当たらなかったのかしら。けれど…そう、思い出したわ。お兄様は相手を見つめるとき、あなたみたいにじっと見つめてきたの。凛としていてね、えぇ、女ならばだれもがお兄様に憧れの気持ちを抱いていたわ。わたくしだってお兄様のことが大好きで、とても尊敬していたのよ。…えぇ、家族の中のだれよりもお兄様の一番側にいたわたくしが断言するのですもの。あなたのお父様はわたくしの兄よ。間違いないわ」
彼女は、目を大きく見開いて驚きをあらわにしているイブキに笑いかけた。
「こんなに喜ばしいことがあってよいのかしら。あぁ、こんなにも胸がドキドキしているわ。兄が亡くなったのは……そう、悲しい事実だけれど、あなたがいる。こうしてめぐってわたくしのもとに来てくれたわ。それだけでわたくしは十分。兄が生きて、幸せな家庭を築いた……それだけで十分よ………」
イブキを百合がそっと抱き締める。
「イブキ。いい名前ね。きっと悠貴お兄様が名づけたのね。息吹。命を与える者。わたくしの可愛い姪っ子」
「ユリ、叔母様……」
声が震えた。
姪という響きが胸を打った。
もうこの世には敵である兄しかいないのだと思っていた。
血のつながった者は兄しか……。
あふれ出る気持ちを言葉にするのは難しく、声に出すかわりに、百合の背中に回した手に力を込めた。
「ここでゆっくりと静養していきなさいね。兄の大切な娘だもの。本当はずっと一緒にいたいのだけれど、今は……あぁ、ごめんなさい、ごめんなさいね………ふがいないわたくしを許してね……」
「叔母、様……?」
突然声を殺して泣き出した叔母に、イブキが訝しげな声を出す。慰めの言葉一つ思い浮かばない自分に腹が立ちながらも、イブキは彼女が泣き止むまで背を撫ぜていた。
蓮波財閥。
鈴形財閥にはやや劣るが、名の知れた大財閥である。
歴史の深い鈴形財閥と違い、蓮波財閥はここ数年で急成長を遂げた財閥だった。
亡き恭一会長の座を恭一の弟である俊哉に譲り、自分は社長という地位に甘んじながら、若いながらも敏腕ぶりを発揮した現社長である和樹は、その見事な手腕に財政界の人々から裏ルートを使っているのだろうと噂されていた。
けれど、表立って噂できないのはそれなりの牽制があるからだった。いや抑圧というのだろうか。そういった、目には見えないが肌で感じる恐ろしさが和樹からは感じられていた。だからなのか、和樹のことを悪魔に魂を売った者だとか、人間ではないと陰口を叩く者が多かった。
しかしだからといって、経営が悪くなることはなかった。悪い噂が広がれば広がるほど蓮波財閥は富を築いていくように思われた。
「社長。会長がお呼びですが……」
「放っておけ。どうせ、浅見との取引の件だろう。せっかく人が死んでも手に入らないような地位をあげたというのに……。何を勘違いしたのか、あの老いぼれは! 事業に関して口を出してくるようになったっ。最初に交わした契約を忘れたのか。…くっ、さすが蓮波の血だ! 都合の悪いことは忘れてやがる。そろそろ辞めてもらうかな。あの老いぼれよりましなのは、もっといるだろう」
彼の冷たさをはらんだ瞳は、怒りで静かに燃え上がっていた。男らしい精悍な顔立ちは、老いを見せぬほど若々しく、がっしりとした体躯はだれもが羨むほど均整がとれていた。美男と呼ぶよりは、美青年と呼んだほうが相応しい容姿に、彼の実の年齢を知ったら驚嘆せずにはいられないだろう。
「はい。おっしゃる通りです」
秘書の言葉に満足したのか、和樹はそういえば、と話を変える。
「百合の所に悠貴の娘と名乗るやつがいるようだな」
「はい。奥方様が拾われた少女がそうだったようです。腕にヒビが入っていたようで、奥方様がつきっきりで面倒を見ておられます」
「そうか……。邪魔だな。その娘」
「と、申しますと?」
秘書は不可解そうに首を傾げた。
「――消せ。その娘を、百合に気取られぬよう殺せ」
「し、しかし……!」
「俺の言う事が聞けないのか? 知っているぞ。お前が刑務所に入れられていたことを。そして、今は人を殺して逃げているということもな」
秘書の顔色が変わった。顔から血の気が引いていくのが遠めにもはっきりと分かる。和樹は、無表情に彼の変化を眺めながら、ふいに唇の片端を持ち上げた。
「履歴書を詐称しても無駄だ。お前がいくら隠しても、その身についた血の匂いまでは消せないのさ。――一人殺すも二人殺すも同じ事だろう? お前が俺の手足となって働くなら警察から守ってやろう。上層部には顔がきくからな。どうだ、話を飲むか?」
「……なぜ、その娘を殺したいのですか?」
秘書は、暗く濁った瞳を和樹に向けた。
「それはお前が関知することではない。俺の計画に、あの娘が邪魔なだけだ」
「わかりました。あなたに従いましょう」
和樹の底知れぬ闇を垣間見た秘書は、感情を消すと頭を垂れた。その瞬間から彼は、秘書ではなく殺し屋となった。
「どこまでも邪魔をするか……! 悠貴ッ」
秘書であった男が出ていくと、和樹はガンッと机の上を叩いた。机の上に置かれていた花瓶が、拍子に倒れる。柔らかな絨毯の上に落ちたため割れなかったが、中に入っていた水が床を水浸しにした。
「まあ、いい。どうせ奴はもういない。後は、娘さえ殺せば俺は……!」
くくく、と和樹は笑い出した。けれどその表情は笑っているというより泣いているように見えた。




