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15/30

    そのニ

 ああ、あの香りだ、とイブキは思った。

 花の香り。

 イブキの胸がきゅっと締め付けられた。

 懐かしくて、切なくて、哀しくて……。

 いろいろな感情が交差する。


「……っ」


 イブキはゆっくりと瞼を開いた。

 最初に飛び込んできたのは天井だった。空を思わせる鮮やかな色の天井だった。


「ここ、は……?」


 ゆっくりと上半身を起き上がらせる。

 知らない場所だった。

 まだ覚醒していない脳を起こしながら、イブキはぼんやりと部屋を見回した。

 部屋はすべて青系で統一されていて、簡素な部屋だった。今イブキが寝ているベッドと机に椅子。それに本棚が一つだけであった。夏女の屋敷で豪奢な部屋しか見慣れていないイブキには、この部屋がているように感じられた。

 イブキはそこで、掌をまじまじと見つめた。細長く伸びた指先は白く、滑らかだった。


「嘘……」


 火傷をしたはずの掌は、何もなかったように美しいままだった。ゆっくりと握って、また開く。痛みは感じない。まるで癒しの呪をかけてもらったかのような治り具合に、不思議そうに掌を見つめていると、不思議そうに掌を見つめていると、目の前のドアが開いた。入ってきた人物を見て、あっとイブキが声を上げる。


「気が付いたか」


 あの、少年だった。

 つき先ごろ品性の悪い少年たちに絡まれていたイブキを助けてくれた人。


「は、はい」


 イブキの胸がなぜか高鳴った。運動をしたわけでもないのに鼓動が早くなる。

 明りの中で見た彼は、前見た時より数倍魅力的だった。小さな顔に配置よく収まった目鼻口。すらりと伸びた手足はしなやかで、優美。美しいという単語でくくるには、あまりにも簡単すぎる。そんな圧倒的な美。黒のパンツと白いシャツという軽装だが、彼にはよく似合っていた。

 思わず見とれてしまったイブキは、頬が赤らむのを感じた。

 イブキは気恥ずかしさをごまかすかのようにそっと睫を落とした。


(なぜ彼が……?)


 もしかしてまた助けてくれたのだろうか。

 あのぞっとするような出来事を思い浮かべていたイブキは、大切なことを思い出した。

 顔を上げたイブキは、また彼が姿を消してしまわぬうちにと早口に礼を言った。


「あの、本当にありがとうございました。これで二度目ですね。私、ずっとあなたにお礼がいいたくて……えっと、その……」


 そのあとの言葉が続かなかった。

 少年のなにもかも見透かすような視線が痛い。


「――あの男性はどうなったのですか?」


 視線から逃れるかのように言葉をつむぐ。

 そんなイブキの心中を知ってか知らずか、じっと見つめるには冷ややかな視線をイブキに送っていた少年が静かに口を開いた。


「ああ、あいつなら病院にいる。重度の火傷を負っていたらしいが、かろうじて命は取り留めたらしい。医師は奇跡だと話していた」

「奇跡……よかった。あなたがいなければ私もあの人も死んでいたでしょう。二度も危ない所を救っていただき、感謝しつくせません。何か、私に出来ることがあったなら遠慮なく言って下さい」

「偶然、あそこに居合わせただけだ。気にすることはない」

「ですが……」


 尚も言い募ろうとしたイブキを少年が目で制した。

 それ以上訊くなといいたげの彼の様子に、イブキも話をそらした。


「あの、ここは……? 病院、ですか?」

「……俺の部屋だ」


 それを口にするとき、彼は少し言いよどんだようにも見えた。

 イブキは顔を赤らめた。

 では、この寝台は彼の……。

 どおりで彼の匂いがしたはずだ。


 トクン


 また胸が鳴った。

 嬉しいのか恥ずかしいのかわからない。

 どうして病院ではなく彼の部屋にいるのか。

 理由なんてどうでもよかった。命を救ってくれた上に、自分の部屋に連れ帰り、寝かてくれたという事実が、ひどく胸を騒がせた。

 そのとき、コンコン、とドアがノックされた。


「何の用だ」


 問う声が険を帯びる。

 穏やかとはいいがたい雰囲気に、関係のないイブキのほうが身をすくめた。


「はい、それが……」


 少年の不機嫌に物言いに(おく)したのか、使用人が言いにくそうに語尾を濁らせる。


「早く言え」


 少年がぴしゃりと叩きつけるように命じると、使用人の口からぺらぺらと言葉が飛び出す。


「何者かがこの屋敷に侵入したようです。現在捜索中ですが、監視カメラにも映らず、わたしどもだけでは手におえません。倉敷様に相談したところ、坊ちゃまをお呼びするようにとおっしゃられたので」

「そうか、あいつが…。すぐに行く」


 一瞬、無表情となった少年は、目を丸くしているイブキを見てしばらく沈黙した。ゆっくりと歩きだした彼は、固まっているイブキの前で止まった。


「お前を助けなければよかった。けれど、そうしていたら俺は後悔していただろう……」


 どことなく苦渋に満ちた声に聞こえるのは錯覚だろうか。

 イブキは何も言えずに、微かに翳った彼の双眸を見つめていた。

 彼の右手がそっとイブキの頬に触れた。

 暖かさを感じさせない冷たい指先、けれどイブキはその低い体温を心地よく感じた。

 近くなる顔。

 二人の吐息が絡む。

 瞳は互いの顔を写しだし、温かい体温が触れ合った場所から伝わった。

 それは一瞬のことだったのかもしれない。

 けれど、多分永遠にも思えた瞬間。

 柔らかな感触を残して少年の唇が離れる。


「!」


 驚きに目を見張るイブキに、少年はかすかに、本当にかすかに笑った。

 そして、何も言わずに颯爽(さっそう)と部屋から出ていった。

 残されたイブキは、今し方触れ合った唇を震える手でそっと触れた。

 初めての口付けは、なぜか甘さではなく切なさを残した。


 痛い。

 痛い。

 胸が痛い。


 どうしてこんなに痛いのだろう。

 どうして嬉しいのではなく辛いのだろう。

 わからない。

 わからないから苦しい。

 目をつむり、何かを耐えるかのように唇を小さく震わせたイブキは、憂えた息を吐き出した。


「――イブキ様!」


 物悲しい雰囲気を壊すかのように、突然目の前の空間が裂けた。

 何が起こったのか理解できずに、そこから現れた人物を見つめていると、


「ご無事でなりよりです。けれど、時間がございません。――ご無礼を」


 彼女は呆気にとられているイブキの体を抱き寄せた。

 次の瞬間、二人の姿は部屋から消えていた。

 空間を(かけ)る華澄。

 切迫した様子に、イブキも声をかけられなかった。

 何が起こっているのだろうと不安に思っていたその時、別の声が入り込んできた。


「お待ちしておりましたよ、姫君」


 (たの)しげな声とともに異空間を切って現れたのは鈴死(れいし)だった。漆黒の闇に星がちりばめられたような空間に、真っ白な半分だけの仮面が不自然に浮いていた。


「――!」


 どうして、と声にならぬ声が喉の奥に消えた。


「先ほどは、仕損じましたのでね、改めて伺ったというわけです。それにしても、空間移動とは、姫君の側にいらっしゃる方は類いまれなる魔力の持ち主ですね」

「魔力……?」

「イブキ様、あの者の言葉に耳を傾かせてはなりません。魔物は、人の心を惑わすのが好きなのです」

「でも、カスミ……」


 普通の人にはない力がなぜあなたにはあるの?

 飲み込まれた言葉は、しっかりと華澄に伝わったらしい。彼女は、イブキを抱き締める手に力を込めた。


「――イブキ様、私は人ではありません。けれど、信じてほしいのです。彼らとは違うのだということを」

「カスミ……分かったわ。――私はあなたを信じます」


 人ではないという言葉には驚いたが、華澄が鈴死たちと同類でないことはイブキが良く知っていた。もし、彼らと同じだったのなら、華澄はとっくにイブキの命を奪っていただろう。

 それに、命をかけてでも守ると言った時の顔と声に嘘はなかった。あれが彼女の本当の言葉だったからこそ、信じられるのだ。


「くくっ。愚かな。姫君、甘言にだまされてはいけませんよ」

「黙りなさい。卑しい分際で。イブキ様には指一本触れさせません」

「ほお、面白い。では、少しばかり遊ばせてもらいましょうか」

「――イブキ様、どうか御無事で」


 華澄は案じるような声でそう呟くと、いきなりイブキを抱き抱えていた両手を離した。

 あ、と思ったときにはすでに視界から華澄たちの姿は消えていた。空間が歪む。まるで自身がぐるぐると回っているような不安定さがイブキを襲う。意識はもうろうとし、思考能力も奪われ、終わりなき底に落ちていくことに恐怖さえ感じなくなっていた。

 光がイブキの体を包んだかと思ったら、かなり高い位置から地面に落下していた。


「……っ」


 イブキは痛みに顔をしかめた。受け身さえとる暇がなかったので、体に受けた衝撃は大きかった。最初に打ち付けた右腕が焼けるように痛い。


「カ、スミ……!」


 体が鉛で出来ているかのように重かった。目の前は靄がかかったようにかすんで見え、冷たい風が薄い布を通して体温を奪っていった。

 けれど、今は自分の身よりも華澄の身が案じられた。鈴死と戦って勝てるはずがないのだ。

 その時、だれかがこちらへ近付いてくる気配を感じた。

 イブキはハッと身を強張らせる。

 けれど、逃げなければと言う心に反して体は動かなかった。動かそうとした拍子に右腕に体重をかけてしまい、脳天を突き抜ける痛みが体中を駆け巡った。気を失ってしまいそうなほどの激痛に、声さえ出なかった。歯を食いしばり、痛みがやむのを堪えていた。


「……、…――?、――――……」


 だれかが何か言っている。けれど、イブキにはその人が何を言っているのか聞こえなかった。痛みに意識が遠のく。そして、目の前は暗転とした。気を失ったのだ。




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