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第四章 日本──聖なる子の恋──

「王よ。この先いかがなさるおつもりですか? 姫君は鈴形家に身を置いているようですが」


 闇が支配するこの空間には彼と、彼の主しかしなかった。主の顔は、闇に隠れて見えないが、王に相応しい黄金の椅子に座り、長い足を優雅に組んでいた。足元だけ照らされた明りに、彼の瞳は釘付けとなる。

 美しき王。

 絶対にして無二の存在。

 王の美しさに目を奪われない者はいないだろう。彼を一目見ることができたなら、命さえ落としても惜しくない。そう思わせる美しさだった。


「お前はどうしたい?」


 紅蔵が反対に問い返す。

 冷徹だけれど、美しく魅惑的な声に従者は酔い知れながら主の問いに答えた。


「さあ、どういたしましょう。あの美しい姫君に手荒なことはしたくはありませんが、この傷のお礼はさせていただかないといけませんね」


 そう言うと、傷に触れた。

 染み一つない肌は、無残にも右側だけ醜くただれていた。整った顔をしているだけに、かえって酷い傷跡に映った。


「――治らないのか?」

「はい。さすがは、王の妹君でございます。あの時、姫君の呪は避けたはずなのに、私の顔にはこうして傷が残ってしまいました。この程度の傷なら糸も簡単に治せますが、姫君につけられた傷だけはどの術を使っても治すことが出来ず、未だに残っているのです」

「あいつに力は無かったはずだ」

「存じております。けれど、極限の状態において力が開化なさったのでしょう。姫君自身は気づいておりませんが。まだ完全に目覚めていないうちに危険な芽は摘み取ったほうがよろしいかと」

「お前に任せる」

「御意に」


 一礼すると、彼は姿を消した。





 鈴形邸の客室。

 そこがイブキに与えられた部屋だった。

 華やかな夏女に相応しく、壮麗な造りとなっている邸宅は、全室窓から見える広々とした庭園が自慢らしく、四季に合わせて花開く花の(こう)が、開かれた窓を通ってイブキの鼻まで届いた。

 それに誘われて寝台(しんだい)から降りたイブキは、薄着のまま窓辺へと近づいた。

 夜は一段と寒い風が、薄く開かれた間を縫って暖房のきいた室内に入り込んでくる。

 冷たいガラスに手を置くと、さらに窓を開いた。

 芯が冷えるような突風がイブキの体の横を吹きぬけていった。あまりの寒さに思わず身震いをしたイブキは、けれど窓を閉めることはせずに澄んだ星空を見上げた。

 雲ひとつない夜空だというのに星のきらめきはかすかに見えるだけで、満点の星空を期待していたイブキは失望したように肩を落した。場所が変われば見える光景も違うのだろうか。

 視線を落したイブキの目に、人工の灯りに照らされて美しく整えられた庭園が飛び込んできた。三階の中でも一番眺めがよいという一室に泊まっているだけあって、庭園が一望できた。夜だというのに昼間よりも光り輝く花々を見下ろして、そのしっとりと風情のある趣をしばし楽しんだイブキは、ふと翳りを帯びた双眸を隠すかのように長い睫を伏せた。


(夏女さんも桔梗さんも華澄も大好き。でも、私は父様に会いたい。一目でもいいの。父様を探している間だけはお兄様のことを忘れられるもの……)


「兄様……」


 兄を探しだし、復讐を果たす。

 忘れていたわけではない。けれど、忘れていたい。

 彼のことを思い出すと、マダツ島のことを思い出すから。

 忘れてはいけないことだとわかっていても……。

 この屋敷は居心地がよすぎて、ずっととどまっていたくなる。


(でも、永遠にはいられない。だって私にはなすべきことがあるんだもの)


 だからいい機会なのだ。もしまた、千珠の手の者が襲ってきたら、きっと華澄たちは巻き込まれてしまう。

 大切だから。

 とても大好きな人達だから。

 失いたくはない。

 今度こそ――。

 翌朝、まだ皆が寝静まっている時分、イブキは屋敷を抜け出した。夜と朝をさまよっている空の明るさが、イブキには有り難かった。屋敷から一歩も出たことがなかったイブキには、どこをどういけばよいのかわからなかったが、コンクリートで固められた道に沿って歩いていった。

 闇と同様の色をした瞳を前方に向けながら、早く早くと気持ちばかりが焦っていた。

 深紅の瞳では目立つからといわれ、コンタクトレンズをしているのだ。最初の頃は、慣れなくて痛かったが、今は違和感なくつけていられる。

 鉄製の巨大な門を見つけ、イブキは胸をなで下ろした。しかし、門を横に引っ張ったり、押したり引いたりもしたが、開くことはなかった。

 なぜ、と瞳が困惑したように揺れる。

 登るのには高すぎる大きさが、もどかしかった。あと一歩で出られるというのに……。


(飛べたら、この門を越えられるのに)


 もう一度だけ、と門に手をかけたその時、奇跡は起こった。門がゆっくりと横に動いたではないか。


「――さようなら」


 憂えた瞳で振り返る。小さくなった屋敷を見て、ツキンと胸に痛みが走った。イブキは首を振ると、意を決し一歩を踏み出した。門を元通り締め、白のコートの裾を握り締めた。マダツ島では味わったこともない寒さが、コートを着ていても感じられた。

 明るみ始めた空を仰ぎながら、この先どうするのか決め兼ねていた。それでもじっとしているわけにもいかず、ゆっくりと歩き始めると、徐々に辺りは人で賑わってきた。

 街に来たのだ。

 イブキは振り返る人々に気付きもせず通りを歩いていく。

 熱い視線が、イブキに送られる。

 あちこちから、綺麗、と溜め息が上がる。

 白いコートの上に歩くたびさらさらと揺れる漆黒の髪が倒錯的で、大きくて星のきらめきを宿しような瞳が、実に神秘的であった。混雑していた人の波が、イブキが来ると、彼女に道を譲るように開いていく。老若男女問わず、だれもが目を奪われずにはいられない美しさが彼女にはあった。


「カスミ……」


 楽しそうに談笑しながら通り過ぎていく少女たちや騒いでいる若者たちを見掛ける度、心細さと寂しさが心中に沸いてくる。たった数時間前、あの屋敷に住む人々とは決別したばかりなのに、と自分の弱さに腹が立った。

 それでも、だれかが側にいてほしいと望んでしまうことは罪なのだろうか。

 立ち止まり、切なそうに溜め息を吐くイブキの姿は、見ている者の心までも苦しくさせた。現に、卑しい欲望が光る瞳で、イブキの側に近寄っていく者が数人いた。


「かーのじょっ、そんな格好でどこ行くの? ヒマならオレたちにつきあわない?」


 軽い口調とともに突然肩を掴まれ、イブキは驚いて振り向いた。そこには、少年たちが親しげな笑みを浮かべ、立っていた。

 亜麻色色の髪をした少年は含み笑いをしながらイブキに対して不躾な視線を送っていた。上から下までなめ回すようにじろじろと見てくる少年にイブキは不快感を覚えた。そして、彼の側にいた、これまた似たような色の髪をした少年たちもにやにや下品な笑みを浮かべ、何か相手の耳に囁いては笑っていた。


「オレさぁ、いいとこ知ってんだぁ」


 イブキの反応の遅さに耐えきれなかったのか、茶髪の少年が言った。


「そうそう。ひまなんでしょ。行こうよ。絶対楽しいからさ」


 耳に飾りをつけた少年がそう言いながらイブキの肩に手を回した。

 瞬間、背筋から悪寒が走った。


「手を放して下さい」


 しっかりと少年に視線を合わせながらイブキは言った。堂々とした彼女ほど美しいものはなかった。闇を溶かしたかのような大きな瞳、きゅっと引き結ばれた愛らしい唇。肌は溜め息が出るほど滑らかで、夜空を彩る闇よりも深く艶のある髪は、動くたびに肩からこぼれ落ち、白皙の美貌をより際立たせた。

 少年たちも魅せられたように呆然としていたが、本来の目的を思い出したのか、ますます熱を持ってイブキを誘った。


「つれないこと言うなよ。遊ぼうぜ、オレたちと」


 耳に飾りをつけた少年がイブキの腕を掴んだ。

 身の危険を感じたイブキが辺りを見回したときはすでに遅かった。いつの間にか人気(ひとけ)のない路地を歩いていたらしい。

イブキを囲むように三人が間合いを詰める。だれか人が通らないかと見回したが、それらしき人影はおろか気配すらなかった。この場所から助けを呼ぼうにも車の音や雑音に紛れて届かないだろう。

 じわじわと焦燥がイブキを追い詰めていった。


「放して下さい!」


 先程より強い口調で言った。しかし、手は離れるどころかますます強く掴まれた。


「だれから()る?」

「いいじゃん、みんなでヤっちまおうぜ」


 少年たちは互いに頷き合うとイブキに顔を向けて、にやっと笑んだ。彼らは恐ろしさで震えているイブキを無理やり奥の方へ連れ込むと、金髪の少年がほかの二人に彼女を押さえているよう命じた。口は布で大声を出せないよう塞ぎ、冷たい壁に華奢な体を乱暴に押しつけた。


「……っ」


 心臓が止まったような錯覚さえ覚える衝撃を受け、イブキの細い体は崩れ落ちそうになった。しかし二人の少年が左右から彼女の手を壁に押し付けながら支えていたために地面に倒れることはなかった。


「まずはオレから味見をさせてもらおうか」


 金髪の少年が唇を嘗めながらイブキの顎を掴み、くい、と上に向かせた。


「ほんと今日はツイてるぜ」


 イブキは失神しそうだった。

 男の人にこんなに乱暴に扱われたこともなければ、身の危険を感じる出来事もマダツ島ではなかったからだ。島では聖なる子として崇められ、また次期長としても尊敬されていた。特に男性はイブキに対して恭しく接した。イナミも気品ある振る舞いをして、必要以上にイブキに触れてくることはなかった。

 それがこの国では違っていた。

 値踏みするような視線。

 いやらしい手つき。

 ねっとりと絡み付くような声。

 それらすべてがイブキに嫌悪感を抱かせた。


「うーぅ……、ぅっ」


(嫌!)


 叫んでも声は布に阻まれてうなり声しか出せなかった。拘束している手を振り払いたくても、力仕事など無縁だった非力な少女には押さえ付けられている手から逃れることは困難であった。

 少年の顔がゆっくりと近付いてくる。


(やめて! だれか助けてっ)


 ぎゅっと目をつむったイブキが心底願った瞬間、救い主は現れた。


「その手を退けろ」


 鋭利な刃物を思わせる声は、氷のように涼やかで威厳に満ちていた。心地好い低さはわれも忘れて聞き入っていたいほどであった。

 少年たちはびく、と身を竦ませ、声の主を探した。


「だ、だれだ!」


 イブキも救世主が現れたことに感謝しながら探した。

 すると、闇の中からすっと少年が現れた。仄かな明りが少年の顔を照らす。その顔は思わず見とれてしまいそうなほど美麗であった。濡れたように輝く鋭い瞳は、その瞳に映るなら身を投げてでも独占したいと思わせる力があり、輪郭は優雅なカーブを描いていた。極上の絹糸のような髪の毛が踏み出すごとに揺れ、神が丹念に作り上げたように美しい少年がそこにいた。長身だがほっそりとした体を包むのは黒の外套。布地は厚く艶があり、島でもお目にかかれない上等な服であった。


「お前たちに名乗る名はない」


 畏怖さえ感じてしまう美貌に睨まれ、少年たちは顔を真っ青にして逃げ出した。

 イブキは布を外すと少年に向かって頭を下げた。


「あの…、ありがとうございました。おかげで助かりました」


 手の跡がくっきりとついた腕を後ろに隠しながら、震える声で言った。崩れ落ちそうになる体を気力だけで支えながら、しかし足ががくがくと揺れるのを止めることはできなかった。それでも目の前にいる少年に心配させまいとにっこりと笑みを浮かべた。いつもなら花のような華やかな印象を与える笑みも、今はぴんと張った糸の上に立っているかのような危うさを宿していた。

 そうして何ごともなかったかのように歩き出そうとした刹那、彼女の体からふっと力が抜け、地面に顔から激突しそうになった。そこをとっさに伸ばされた少年の腕が抱き留める。


「あ……」


 先程たちの少年たちとは違い、彼からは花の匂いがした。甘酸っぱい香りは島に咲いていた花々を思い出させた。


「ご、ごめんなさい」


 慌てて離れようとしたが、体はいうことを聞いてくれなかった。恥ずかしくて、申し訳なくて困ったように顔を上げたイブキと少年の視線が絡まった。少年の優しさのかけらもない瞳は、なぜか引き込まれずにはいられない印象的な瞳をしていた。彼の瞳には困惑した表情のイブキの顔が映っていた。

 二人は見つめ合ったまま時が止まったように身動ぎもしなかった。

 永遠のような長い時間。

 けれど、一瞬のようにはかない時。

 それを破ったのは深みのある声を持つ青年だった。


「若君」


 若君と呼ばれた少年は我に返ったように視線を青年に移すと、イブキの体を優しい仕種で立たせ、青年の元へ赴いていった。


「あ……」


 名前を、と言おうとしたイブキの口は、針で縫い止められたかのように動かなくなってしまった。

 青年は建物の影から外套をまとった体だけを見せながら、少年を恭しく出迎えると彼と一緒に影となった奥に吸い込まれるようにして消えてしまった。

 イブキは大きく息を吸い込むと吐き出した。美しい少年だった。島の人たちも美しい人ばかりだったが、あの少年は彼らより美しかった。

 イナミと同じくらいの美貌の持ち主であった。男の人相手に感嘆としたのはイナミに続いて二人目だ。

しばらく彼らが去っていった方を見つめていたイブキは、震えの止まった肩を抱き締めた。


「探さなければ……」


(お兄様……)


 歩き出したイブキは、再び大通りへと出た。

 どこへ行っていいかもわからず、ただ歩き続けていたイブキは、ふいに不穏な気配を察した。知っている気配にハッと顔を強張らせたその時、側にいた男たちが手を伸ばしてきた。


「ねぇ、かーのじょ……」


 言葉は最後まで続かなかった。


「う、あぁぁあ――――――……っ」


 彼らの体は、一瞬、宙に木の葉のように舞うと、落ちる寸前に切り刻まれていた。

 肉片が、道路や歩道に飛び散る。

 車が、飛んでくる肉の塊を避けようとして店に突っ込む。その後の車もスリップして電柱にぶつかる。車同士が衝突し、逃げ遅れた老人や子供が巻き込まれた。


「キャアァァァァ―――ッ」

「なんだよ、今の!」

「何が起こったの?」

「逃げろ!」


 煙が立ち上ぼる。

 車からガソリンが漏れていた。火が引火すれば、大惨事となるだろう。


「ど、して……」


 イブキは、目の前で起こった目を背けたいような出来事に、気を失いそうだった。

 なぜ。

 なぜっ。

 なぜ!

 関係ない人々まで殺す彼らの冷酷さがイブキには信じられなかった。


「出てきなさい! 私は逃げないわ。姿を見せなさい」


 虚空に向かって叫ぶイブキに目を止める者はだれもいなかった。皆、自分のことで手一杯だったからだ。


「――お久し振りです、姫君」


 すっとイブキの視線の先から空を切るように魔物が現れた。白い仮面を被った魔物だ。しかしその仮面は右の部分が遠めにもはっきりとわかるほど大きなヒビが入っていた。


「あな、たは……」


 刹那、イブキたちの周りに白い霧が立ち込めた。まるでその霧は人々の目から隠すようでもあった。


鈴死(れいし)と申します。あの時以来ですね。こうしてお目にかかれるのを楽しみにお待ちしておりました。今日はご挨拶に伺ったのですよ」

「挨拶! あなたはそれだけのために、関係のない人間を殺したというの?」


 イブキは吐き捨てるように言った。


「たかが虫けらではございませんか。何をそんなに悲しんでおられるのですか」

「いいえ。虫けらではないわ。皆生きているのよ! 命ある者なのよ! 無差別に奪っていい命になどあるはずがないわ」


 怒りに頬を紅潮とさせたイブキを興味深そうに鈴死は見下ろした。


「面白いことをおっしゃる姫君ですね」

「私は姫君ではないわ」

「いいえ、貴方は姫君ですよ。貴方は我が君の大切な妹君ではありませんか」

「――!」


 妹、という言葉に、イブキは不快感を覚えた。

 顔も知らない兄。

 会ったことも、声を聞いたことすらない。なのになぜ、大切な妹といえるのか。


「けれど、今日はご挨拶も兼ねて、貴女にあの島でのお礼をさせていただきに参りました。あの時つけられた傷跡がね、疼くのですよ。貴女を切り刻みたくてたまらない、とね」

「傷……? そんなものは知らないわ!」

「ああ、貴女は何と残酷なお方だ。ご自身の手で私の顔に烈火のような炎を投げつけておきながら、貴女は知らないとおっしゃる。貴女のせいで炎を避けきれなかった砕吏(さいし)は死んでしまったというのに」


 悲しみに満ちた声で呟きながら、しかしイブキは彼の声に含まれる微かであるが楽しそうな響きを感じ取っていた。

 仲間の死さえも悼まず、愉悦の対象としてしまう。

 イブキは知らず、唇を噛み締めていた。

 口腔に広がる、鉄が錆びたような味が、彼女の心を引き締めた。


「私としましても貴女の、その美しい顔に傷を付けるのは誠に遺憾ではありますが、やはり私のこの――」


 そう言って、彼は仮面を外した。驚くほど整った顔が現れる。すっと伸びた鼻梁。切れ長で、鋭い瞳。唇は薄く、今は笑みをたたえていた。

 しかし、目尻から顎にかけて焼け爛れた跡が、痛々しく、彼の美貌を損なわせていた。皮膚は剥がれ、血が滲み、水泡が出来ていた。


「この火傷の跡が、貴女の血を欲しているのです。貴女の血によって、私の傷が治るのです。――さあ、姫君。血を――……」


 その時、爆発音が辺りに響いた。

 車が爆発したのだ。

 熱風と炎がイブキたちを襲う。


「きゃあ!」

「……くッ」


 鈴死はいったん姿を消した。

 辺りの霧は晴れ、景色が鮮明になっていく。

 すでにイブキの周りに人はいなかった。少し離れた場所から、遠巻きに惨劇を眺めている人はいたが。遠くの方からピーポーピーポーという音やゥゥウーという音が聞こえてくる。

 苦しそうな呻き声が耳を打つ。


「た……けて、……れ……」


 男の人の声だった。

 イブキは、飴細工のように曲がった車の中に人がいることを知った。その車の場所まで火の手が徐々に近付いていく。身を焼き尽くすような熱さに、汗が吹き出す。

 煙に咳き込みながら、イブキは男の元へ駆け寄った。へこんだドアの取手に手を掛ける。しかし、開かない。熱を持ったドアが、イブキの手を容赦なく焼く。

 熱さと痛みに顔をしかめながら彼女は窓を叩いた。


「丈夫ですか?」


 イブキは頭から血を流している男を見て、危険な状態だと判断した。うっすらと開かれた瞳は何も映していなかった。ただ、助けを求める声が、口から血をたらしながらとぎれとぎれに呟いていた。

 男は下半身が座席とハンドルの間に挟まれて、身動きがとれないようだった。


「どうしよう……」


 今から人を呼びに行っても間に合わないだろう。


「アツ……っ」


 蒸し焼きにされている気分になった。

 イブキはコートを脱ぐと、荒く息を吐いた。その拍子に、煙が入り、咳き込む。片手で口を押さえながら、どうやって男の人を助けようか考える。

 だが、これほどの焦熱は、温暖な気候であったマダツ島に住んでいたイブキには辛かった。寒さは服を着れば凌げるが、暑さは体力をも奪っていく。

 顔を真っ赤にしながら、それでも彼女には男を見捨てることはできなかった。この事故の原因は、もとはといえばイブキにあるのだ。


 ――――助けたい。


 その思いだけが支えだった。


「開い、て……!」


 ガチャガチャと取手を引っ張った。

 けれど、どんなに力を込めても変形したドアはびくともしなかった。


「あ……っ」


 くら、と眩暈を感じた瞬間、イブキの体がゆっくりと地面に倒れた。意識が熱さで朦朧とする。

 喉が酷く乾いた。

 熱い。

 熱い。

 体中が焼けるように熱い。

 放り出された鞄を見つめながら、自責の念に駆られる。


(私は結局だれも助けられないの……?)


 その時、イブキは人の気配を感じた。

 鈴死、ではない。

 イブキは、口を動かした。ちゃんと自分の声が相手に届いているか不安であったが、微かにその人が頷くのを視界の端に捕らえ、安堵して瞳を閉じた。

 あの人を助けて――。

 イブキの願いはそれだけだった。


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