その四
この屋敷が夏女の名義といっても与えたのは桔梗だ。数多の土地と建物を所有する桔梗が、一番気に入った土地と建物を成人したお祝いにと夏女にプレゼントしたのだ。血の繋がった子供にも、ほかの孫にもこんなに贅沢な贈り物をしたことはなかっただろう。
――夏女は特別。
桔梗は親族たちと夏女との境界線をはっきり隔てていた。むろん、過剰の愛情が夏女を親族間で孤立させていたことは知っているが、それでも桔梗はほかのだれよりも夏女を溺愛することはやめなかった。
次期当主は夏女だと水面下で囁かれているらしいが、桔梗はその気などなかった。夏女に指導者としての実力があるかと問われれば、否と断言できるであろう。夏女は情にもろいところがあるから、いざというときの決断に鈍りがでてしまうだろう。
最上階の北側の部屋――たまに訪れる桔梗のために用意された専用の部屋である――で、一人掛けのソファーにゆったりと座りながら、そんなことを考えていた桔梗は、軽いノックの音にわれに返った。
促すと華澄が入ってきた。
「失礼いたします」
外は更け、暗闇が広がっていた。微かに見える星と三日月が、夜空に彩りを添える。薄紅のカーテンが引かれた部屋の中は調度品の上に置かれたテーブルランプによってうっすらと明るく保たれていた。ランプ独特のやわらかな光が部屋を包む。
「どうだ? イブキの様子は」
前に座るよう顎で示すと、イブキの名に反応した華澄が視線を桔梗に定めた。冷めた視線は、相変わらず桔梗を見下しているようにも映った。
「まさか、あの島が消滅したとはな……。悪いことした。――だが、気丈な娘だ。悲しみに満ちた島のことなど思い出したくもないだろうに、わしのたわいもない話につき合ってくれた。島のことを共有できる者が嬉しいと言ってな……」
イブキの凛とした美しい顔を思い浮かべながら、すっと眼差しを細めた。
マダツ島が何者かによって襲撃されたと聞かされたときのショックは、筆では語り尽くせないであろう。
信じられないというのが一番だったかもしれない。
神に愛された者たちがそう易々と死ぬはずがないと信じていた。いや、それには願望も含まれていたのかもしれない。
桔梗は、記憶の底から浮かび上がりそうになったものを必死に閉じこめた。それは、思い出したくない過去であった。マダツ島での出来事を綺麗な思い出として残しておきたいから、桔梗は忘れようとする。けれど、忘れようとすればするほど逆に印象強く脳裏に残り、心を蝕んでいた。
「――………イ」
思わず漏れた忘れようにも忘れられない愛しい人の名。
耐えるように眉間に皺を寄せた桔梗は、テーブルに手を伸ばし、グラスに入った年代物のワインを味わうこともせずに一気に飲み干した。
「荒れていますね」
桔梗の不審な行動を眉一つ動かず無表情に見つめていた華澄は、淡々とそう述べた。
「動揺、しましたか?」
言葉にトゲが隠されているようで、ぴくりと片眉を跳ね上げた桔梗は正面に座る華澄を睨め付けた。
「言葉が過ぎないか?」
「言い当てられて怒るなんて…どこの子供ですか。仮にも鈴形家のトップに立つ方が癇癪持ちだったなんて、世間に知れたらどうなるでしょうね。マスコミが面白おかしく報道するでしょうか」
珍しく饒舌な毒を持った台詞に、桔梗はただ眉を潜めて空いたグラスにワインを乱暴に注いだ。
「イブキ様のお父上様は、あなたと同じ日本人。憎らしい、ですか?」
見透かしたような華澄の問いかけに、桔梗は答えず舌先に苦く感じるワインを飲んだ。味も香りも最高級であるにもかかわらず、今の桔梗には味わう余裕がなかった。
華澄は知っている。
イブキの話を穏やかに聞く表情の裏で、嫉妬と怒りに支配されていたことを。
イブキに出会えたことも奇跡のようで、喜びは真実であった。
けれど、彼女が日本人とのハーフであったと知ったとき、一瞬だが尊い存在であったイブキが汚らわしく感じられた。殺意さえ覚えてしまった。イブキは関係ないというのに……。
それでも、厭わしいハスナギの孫であり、同じ日本人とのハーフであるという事実が、桔梗の胸に重くのしかかった。黒い墨が一滴こぼれ落ちたようにじわじわと浸透していく。それは醜い感情であった。
「あぁ、確かに憎い。そう答えれば満足か? のぅ、華澄」
鋭い視線にも華澄は動じた気配を見せなかった。
ただうっすらと笑みを引き、小首を傾げた。
「なにか思い違いをなさっていませんか。ただわたくしは真実を語っただけ。なのに、そのような眼で睨まれる理由がわかりません」
したたかに言い切った華澄は、ちらっと一度ドアに視線をやると、そういえばと切り出した。
「イブキ様のお父上のことはどうなさるおつもりですか?」
「そうよのぅ」
桔梗は唸った。
桔梗は、まだ若いころマダツ島の者に助けられたことがあった。嵐で大破した船から放り出され、気付いたときにはたった一人で島の海辺に打ち上げられていた。運が悪いことに、船に乗っていた護衛と友人は亡くなったらしい。日本に戻ってそれを知ったときは心を痛めた。それまで次男として自堕落な生活を送ってきた自分は、特にやりたいこともなく金を荒く使う日々ばかりで親族に見放された状態だった。
優秀な兄。できの悪い弟。
それがまわりの認識だっただろう。
そんな自分が、奇跡的な生還を果たしたとき、卑屈な精神は消え失せ、マダツ島で過ごした夢のような一時と怒りだけが強く心に残っていた。自分を助けてくれた美しい女性。ルビーをはめ込んだかのような瞳が印象的だったのを覚えていた。
その情熱的な色にせかされるように仕事を覚え始めた。兄を追い越すのはそんなに難しいことではなかった。名の知れた財閥の御曹司が大惨事の中、奇跡的に助かったという美談は、瞬く間に各誌の紙面をかざり、桔梗は一躍時の人となったからだ。桔梗は歩く広告塔であった。
それは彼の容姿がとても整っていたことも起因していたかもしれない。財力にも恵まれた美貌の御曹司は、たちまち女性の視線を釘付けにした。だれもが桔梗に焦がれ、紙面だけではなく業界も賑わせるのにそう時間はかからなかった。
まるで芸能人のように記者に追われ、連日のようにテレビに映り、もはや彼の顔を知らぬ者はいないだろうと多くの者が思っていた。
そんな人気に目を付けたのは、政界人であった。議員にならないかという申し出を、しかし桔梗は蹴った。彼の夢は、国を動かすことではなく、鈴形財閥を世界に通用するものへと押し上げることだったからだ。
そんな桔梗の意を汲んだのかはわからなかったが、父は後継者であった兄ではなく、桔梗に跡を継がせることを決めた。もちろん、一族の中に異を唱える者は大勢いた。長子が家督を継ぐというのが慣例であったし、いくらもてはやされているからといって過去の自堕落な生活を送っていた桔梗を知っている人たちから見れば、会社を任せるのは不安だったからだろう。
プライドを傷つけられた兄は自殺未遂をし、親族が経営する子会社の何社かは本筋から袂をわかったが、父の意志は固かった。結局、父と兄が和解をすることなく、父親は二十年も前に亡くなった。あとを追うように兄も亡くなった。
桔梗も兄と心を通わせることは叶わなかった。
かといって、父と良好な関係だったかといえばそうではない。常に背中を見せる父を何度恨んだことだろう。薄情と罵り、冷血な指導者と叫んだ。
けれど、憎んでいた父のように自分はなってしまった。息子と二人の娘は、過去の自分と重なる。彼らは声高に桔梗のやり方を責め立てた。それでも桔梗は背中を見せることしかできなかった。
愛情は、マダツ島に置いてきてしまったからだ。空っぼの心の中には、会社を成長させることしかなかった。
桔梗自身はどうやって日本に帰ってきたのか覚えていない。気付いたときは病院のベッドの中で、マダツ島での出来事は夢だったのかと一時は思った。けれど、心にぽっかりと空いた喪失感が、夢ではないと語っていた。
桔梗は、子や孫には子守歌代わりにその不思議な体験を話していたが、だれも信じようとしなかった。唯一興味を示したのは、長男の一人娘である夏女だけだった。その夏女が、イブキの命を救うとはだれが予想できたであろう。
「……確か、娘婿が事故死した前会長の跡を彼の弟に譲っていたな。潔いと思っていたが、本人は天皇を操る摂政のように会社を動かしている。なんとも腹黒い男よ。わしはあの男が気に食わんのだ」
「ならばつぶしてしまえばいい。お得意の分野でしょう?」
桔梗は苦笑を浮かべながら目の前に座る少女を見つめた。初めて会ってから何十年という月日が流れているというのに、老いていくのは自分ばかりで、彼女は会ったときのまま、姿変わらず美しさを保っている。
華澄は、密やかなマダツのことを調べていたときに現れた者だった。
『あなたの孫娘の側に置いて下さい』
可愛い孫の側に、不審な輩を側につかせるつもりなどはそのときなかったが、結局はそれを承諾した。
彼女が側にいればもう一度だけマダツ島の住人に会えるという言葉を信じて。マダツ島の情報を何一つ手に入れることができなかったあの頃の桔梗には、華澄の言葉にすがるしかなかったのだ。
「蓮波悠貴……この名を再び口にするとはな。イブキは父親に顔立ちがよく似ている。社交の場で会った時は、それこそ令嬢の視線を集めるほどの端麗な容貌で…さぞや亡くなった父親にかわり、敏腕を振るうと思っていたのが……行方知れずになるとは。わしも密かに行方を気にはしていたが、マダツの島に流れ着いていたともなれば見つからないはずだ。……確か彼には妹がいたな。イブキと会わせてやりたいな。きっと喜ぶであろう」
「それは、あまりお薦めしませんね」
「なぜだ?」
「イブキ様は蓮波家に関わらないほうがいい」
何かを知っているような口ぶりで、すっと視線を逸らした華澄。桔梗は問いただそうとしたが、言葉にはならず、グラスに入っていた赤ワインを水のように一気に胃へと流し込んだ。カッとした小さな熱を体の底に感じながら、年代物の赤ワインの瓶を手にし、カラになったグラスに注いだ。豊かな芳香を楽しむこともせず、安物の酒を相手にしたかのような顔で再びあおると、嚥下した。
「……これからどうするつもりだ」
さすがにワインを何度も一気に流し込めば、酒豪の桔梗といえど酔いも早くまわってくるようで、微かに赤らんだ顔で尋ねた。
「わたくしは、イブキ様に従うまで……」
そう呟いた声はどこか沈んでいた。
「問題が?」
桔梗が問う。
しかし、華澄は何も言わなかった。その答えを避けるかのように立ち上がると、静かにドアの前まで歩いて行った。
桔梗は無言で彼女のことを見つめていた。すると、華澄はノブに手を掛け、
「――どのような道を選ぼうと、決められた未来は変わりません」
謎めいた言葉を残して華澄はドアをゆっくりと閉め、出ていった。
「未来、か」
額を手で押さえ、低く呻いた。
「――未来」
再度、繰り返し呟いた。
その言葉が苦く感じられるのはなぜだろう。
見ているだけで和むランプの明りは、しかし今は寒気を覚えずにはいられなかった。




