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    その三

 夏女が屋敷に戻ってきたのは空が夕日に照らされて赤く染まり始めた頃だった。

 屋敷で働くすべての者が玄関に集い、整列した。

 イブキは、華澄と一緒に最後尾に並ばせてもらった。客であるイブキは、参加しなくていいのだが、渋る執事を説得して、なんとか混ぜてもらった。

 ドキドキと胸を高鳴らせて見守る先で、イブキが走る箱と勘違いしていた黒塗りの車が静かに止まる。黒い線の入った白い帽子を被った運転手が中から姿を現すと、彼は二人が座っている後ろのドアを開け、軽く頭を下げた。

 まずは、夏女が白く細長い脚を見せつけながら姿を見せた。続いて白髪の老人が車から降りてくる。一重の目は、何事にも屈しない強靭な輝きがあり、気難しそうに引き結ばれた唇は両端が下がっていた。豊かに蓄えられた髭は、髪と同様に真っ白で、老体ながらしっかりと鍛えられた体を覆うのは着物だった。さぞかし若い頃は、美男子だったのだろうと、だれもが容易に想像できた。今なお貫禄のある顔は、その頃の面影を十分に残していた。

 彼はだれだろうと首を傾げていると、それを察したのか華澄が耳打ちしてくれた。


「夏女の祖父──鈴形(すずなり)桔梗(ききょう)ですよ」


 鈴形桔梗。

 イブキは唾を飲み込んだ。

 さすがに頂点に立つ存在だけあって、まとう雰囲気はほかよりも圧倒されるものがあった。


「お帰りなさいませ」


 使用人たちは声をそろえ、息もぴったりに頭を下げた。

 それにつられてイブキも慌てて頭を下げたが、華澄だけはしっかりと面を上げて立っていた。華澄は、主従関係はないと言っていたが、夏女の下で働いている以上礼儀は示さなければいけないのではないかと思った。今回は夏女の祖父もいるのだ。見咎められたらまずいのではないかと思ったが、咎める声は二人からも、同じ使用人である者たちからもあがらなかった。

 これだけ人がいたとしても、一人だけ頭を下げなかったら見過ごすはずはないだろう。華澄と桔梗がよほど寛大なのか、はたまた華澄はただの使用人ではないのかと、様々な憶測が脳裏を駆けていった。


「大旦那様、お嬢様、お疲れでございましょう。まずは何か召し上がってはいかがですか? よい天気でございますし、テラスにお茶のご用意を致しました」


 穏やかに声をかけたのは、この屋敷で最も長く働いている執事の矢代だった。


「まあ、テラスに? 久しぶりに外でお茶もいいわね。今日はそれほど寒くないし」


 嬉しそうな声を上げる夏女とは対照的に、いらないとばかりに軽く首を振った老人――桔梗は、矢代を一瞥することなく、使用人を睥睨した。その視線が、あるところでぴたりと止まる。驚いたように見開かれた目と口がわななくように揺れる。


「大旦那様……?」


 いつもと違う主人の様子に気づいてか、矢代が戸惑ったように佇んでいたが、その矢代の肩を夏女が慰めるように叩く。


「放っておきなさい。矢代、ここはいいわ。使用人も下がらせなさい。あとでお茶をいただくわ。あたしの好きなスコーンも用意しておいてね。ジャムはお幸さん特製のマーマレードがいいわね」

「畏まりました」


 すっと腰を曲げ、お辞儀をした矢代は、すぐさま使用人たちに合図をして下がらせた。そして、自らもわきまえたように去っていこうとしたが、


「華澄とあのお客様はよろしいので?」

「あら、矢代。知っていてイブキを連れてきたのだと思ったのだけれど?」

「わたしはなにも存じ上げません」


 矢代が困惑もあらわにそう言うと、夏女は苛立ったように髪をかき上げて肩をすくめてみせた。


「華澄の独断ね。まったくあの子ったら。――いいわ、お前も下がりなさい。あ、おじい様は、イブキたちを薔薇の間に通すでしょうから、メイドにお茶を持ってくるよう指示をしておいてね」


 そんな二人のやりとりをよそに、硬直していた桔梗は、定めた人物から視線を逸らさずに歩き出した。


「ようやく───……」


 その一言に万感の想いが込められているようだった。

 イブキは、まっすぐこちらに向かってくる桔梗から目を離せなかった。

 桔梗の足がゆっくりと止まる。


「この日をどんにな待ちわびていたことか……」


 一瞬、切なそうに細められた眼差しは、瞬きをした瞬間消え失せ、イブキを品定めするかのように見つめていた。

 居心地の悪い視線に耐えきれず、ついに俯くと、明るい声が割って入った。


「おじい様。そんなにじっと見つめたらイブキかわいそうよ。ただでさえ、目つきが悪いんだから。困っているじゃない。──華澄から容態は聞いていたけど、元気そうでよかったわ。肺炎になりかけていたんですって? あんな薄着で冬空の下を歩いていたからよ。自業自得というものよ」


 矢代と別れた夏女は、桔梗の背後から顔を出すと、ハッと顔を上げたイブキを愛おしげに見下ろした。


「あなたに付き添っていられたらよかったんだけど、ごめんなさいね。何日も放っておいて。二、三日で戻る予定だったんだけど、おじい様を探すのに手間取ってしまったわ。おじい様ったら各国を飛び回っているんだもの。結局、仕事が片付くのを待っていたからこんなに遅くなってしまったのよ。おじい様が仕事を放り出してお父様に任せればもう少し早くあなたに会えたのに」

「ナツメ、さん……」


 夏女には言わなければならないことがいっぱいあったはずなのに、いざ会ってみると胸がいっぱいになってしまって言葉がなにも浮かばなかった。

 涙目になっているイブキの双眸に、夏女がいることに対する驚きはない。

 そのことに気づいた夏女は、眉を寄せため息を吐いた。


「あーあ、感動の対面が台無しね……。イブキがこんなところにいるなんて──イブキの耳に入れないよう命じたはずだけど?」


 最後の言葉は華澄に向けられていたようで、険のこもった問いかけに動じるでもなくいつもどおり何の感情も表れない顔のまま、華澄は静かに夏女の視線を受け止めた。


「わたくしの主人はただお一人なので、その方以外の命を守るつもりはありません」

「……まったく、ほんと嫌な子ね。感謝くらいして欲しいけど。引き合わせたのはあたしよ?」

「恩着せがましいですね。決められていた未来を感謝するとしたら、それを作り出した神にです」

「相も変わらず憎たらしい。こんなことならさっさと追い出していればよかった。おじい様の頼みだからって我慢することなかったのよ!」


 いきなり言い合いを始めた華澄と夏女に、イブキは目を丸くした。


「やめないか二人とも」


 一喝したのは眉を潜めて聞いていた桔梗であった。彼は、イブキを安心させるように表情を和らげた。


「なに、ただの口喧嘩だ。いくつになっても大人げなくて困るがね。お前さんが気にすることはない。それよりも、」


 すっと細められた眼差しが真剣な光を帯びる。

 心の奥までも見透かすような深い目に見つめられ、動揺するかのように瞳をさまよわせると、彼の視線がほんの少し柔らかくなった。


「なに、捕って喰おうというわけではない。ただお前さんがどこから来たか聞きたいだけだ」

「私、が……?」


 少し声が裏返ったのは、その質問に驚いたからだった。


「違う、やもしれなぬ。だが、そのルビーのような美しい瞳と、お前さんが着ていたという白装束がわしの……わしの忘れられない夢のような一時の記憶と重なるような気がして………。長い間探し求めていた証が……ここに……頼む、お前さんがどこから来たのか教えてくれ……お前さんの口から聞きたいのだ」


 イブキは迷った。

 容易に口にしていいものか。

 彼が敵なのか味方なのか判断できる材料はない。

 イブキはちらっと夏女に視線を走らせた。彼女はまだ華澄に文句を言っていた。

 夏女はいい人だ。自分の命を救ってくれたのだから。異国の地で、初めて触れた優しさ。凍てついた心を溶かしてくれたのは彼女だ。彼女がいなければ自分は今頃凍え死んでいたかもしれない。

 そう考えると、彼女の祖父である桔梗に失礼な態度をとることはできない。

 イブキは長い間……時間にしたらそう長くはなかったかもしれないが、答えを探していた。

 しかしいくら思い悩んでも答えは見つからず、桔梗のせっぱ詰まった顔を黙って見つめた。

 彼はひたすら待っていた。

 イブキはごくりと唾を飲み込む。

 そしてゆっくりと口を開いた。


「ごめん、なさい……。島の名前を教えるわけには参りません。私が生まれ育った島は、神々の恩恵を受けるがゆえに、世俗から切り離された孤島の島にございます。島から離れ、こうして異国の地に足を踏み入れた今、そう簡単に秘められた島の名を口にすることはできません。私は、島を治める者の孫であり、今はまだ儀式はすませておりませんが、新たな長となった身です。島が滅び、導いていくはずの民も失ったとはいえ、長である私が規律を破るわけにはゆきません。これほどのご厚意と情けをかけていただいたのに、話すことが叶わず申し訳ありませんが、唯一の矜持(きょうじ)をお察し下さいませ」


 イブキはそう言うと目上の者に対する礼をした。両足を斜めに曲げ、ゆっくりと腰を落とし、優雅にスカートと呼ばれる長めの下衣を指先でつまみ、顎をそっと引いて頭を傾けた。この姿こそ、女性が身分の高い男性に対する(はい)の形だ。

 恩を仇で返すように思えて、いたたまれない気持ちでいると、桔梗が地面に手をついて頭を下げている姿が視界に入った。


「おじい様!? なにをなさっているの? 天下の鈴形グループの総帥が…なんてまあ、部下が見たら卒倒するわね。いいえ、親類の方々も泡を吹いて倒れられるかしら。あら…それはちょっとみてみたいわね」


 夏女が不謹慎なことを楽しげに言うと、側に立っていた華澄はいつも通りの無表情な顔でじっと桔梗の動向を見守っていた。


「おおぉ、やはり……そうか、そうであったが……やっと、夢と(うつつ)が繋がったか……」


 桔梗は、涙を端に滲ませながら、感極まったかのように声を震わせた。

 まるでイブキを崇めるかのように頭を伏せていた彼は、顔を上げると目を細めた。


「島…島と言ったな。あぁ、なによりその礼の仕方……懐かしい。蘇るぞ。今はっきり思い出した。長い年月は鮮明な記憶でさえ蝕んでいくが、それが今鮮やかに浮かび上がった。わしの宝。あぁ全財産を投げ打ってでも欲しい過去の思い出だ。わしの大切な記憶……。マ……そう、マダツ(マルラァツ)といったか。お前さんの名を言えぬ島は、そんな名前の島ではなかったか?」

「!」


 まさか桔梗の口から島の名を聞くとは思っていなかったせいか、驚愕は全身を襲った。


「な、…ぜ」


 思わず座り込んだイブキは、桔梗に目線を合わせた。衝撃を飲み込み、問いただす声は掠れながらも双眸は冗談も許さない緊迫したものが宿っていた。


「昔のことだ。わしがまだ粋がっていた頃、わたしはマダツ(マルラァツ)島という夢のように美しく清らかなところで数ヶ月を過ごしたんだ。彼らは自らを神に愛された者と言っていた。お前さんのようにルビーのような美しい瞳と闇夜に溶けてしまいそうなほどの漆黒の髪を持っていた。とても美しい人たちだったよ」

「そ…んな、」


 そんな馬鹿な。

 父の前にも流れ着いた者がいた?

 そんな話今まで聞いたことがなかった。

 けれど、マダツの名を知っているということは、本当にマダツ島に訪れない限り知るはずのないことだ。


「マ…ァツ? なんだかずいぶんと言いにくい島の名ね。おじい様ったらまるで外人のようだわ」


 夏女の発音を聞いた瞬間、イブキの顔が強ばった。

 そうだ。

 忘れてしまいそうになるが、イブキが日本語を喋ったり聞き取ったりできるのは、首飾りのおかげなのだ。

 夏女の「マダツ」という言葉を耳にしたとき、ひどく舌が絡んだようなものに聞こえた。なのに、桔梗が「マダツ」と発音したとき、まるでマダツ島の住人のように美しい発音であった。

 言語が違うのだから、マダツという言葉もきっと日本人である桔梗には違って聞こえるのだろう。なのに、しっかりと喋っていたということは、彼がマダツに行ったことのある証だ。


「このような異境の地でその名を耳にすることができるとはつゆほどにも思いませんでした。キキョウさんとおっしゃいましたね。先ほどの非礼を深くお詫び申し上げます。よもや、神々の寵愛を受ける島に、我が父以外にも異国の者がたどり着いていたなんて……。なんと無知だったのでしょう。思慮足らずな私をどうかお許しくださいませ」


 深々と頭を下げたイブキは、膝を斜めに折ったまま片手で下衣の裾をつまみ、少し持ち上げた。もう片方の手は胸に当て、今度は視線をまっすぐにし、桔梗を見つめた。


「マダツ島を統べる者としてご挨拶申し上げます。わたくしの祖父ハスナギは一族の長にして、神々のご寵愛深い島の統括者でございます。その娘、ハスノはわたくしの母であり、父は異国の……この国二ホンの血を引く者でございます。わたくしは混じり子として生を受け、聖なる子とも呼ばれておりましたが、今は亡き祖父に代わり島の統括者となりました。襲名がすんでいないため、まだ二つ名はございませんが、どうかイブキとお呼び下さい」


 長には代々あだ名がつけられる。書物に残される名としては、あだ名のほうで書かれることのほうが多い。

 ハスナギは、揺るぎなき漆黒の長と呼ばれていた。ほとんどの者は色でたとえられているが、もしイブキが襲名していたとしたら、きっと聖なる黄金の長と呼ばれていたことだろう。黄金は、神を象徴する最も崇高な色であり、聖なる子として敬われていたイブキにこれ以上相応しい名はないだろう。


「ハスナギ……ハスノ…おぉ、懐かしい名だ」


 桔梗の強い光りを宿した双眸が、ほんの少し遠くなり、過去をしみじみと思い出しているかのようだった。


「イブキ……イブキか……そうか、華澄からお前さんの名を聞いたとき、マダツの者にしていはずいぶんと風変わりと思っていたが……お父上が日本人であったか」


 桔梗は呟いた。少し歪んだ顔は、悔しそうであった。



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