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    その二

 それからの日々は、特に何をするでもなく穏やかに時が流れていった。ただしいてあげるならば、日常生活に支障がでない程度のことを習ったくらいで、イブキは毎日やることもなく、あまり無駄口は叩かない華澄と静かな生活を送っていた。

 ただ一つ驚いたことといえば、ここが父――ユウキの生まれ育った国であったということか。

 もしかしたら、無意識に父の生まれ育った国へと願っていたのかもしれない。そうでなければ、こんなにも都合よく日本へ着いたはずがないからだ。きっと大いなる石がその無限の力によって気を失ったイブキを安全な場所へと転移してくれたのだろう。

 ともあれ、祖父の思惑通りにイブキは日本へたどり着いたのだが、まだ父を捜さず留まることを選んでいた。

 ソファーと呼ばれる乳白色の長いすに腰掛けていたイブキは、華澄が入れてくれた緑茶を飲みながら顔を曇らせた。


「ナツメさんはまだ戻らないの?」


 この屋敷に来てから一週間が経つ。

 屋敷の主であり、イブキの命の恩人でもある女性は、未だに姿を見せなかった。

 最初こそ、待ち遠しく待っていたものの、こうも緩やかな時を漂っていると、期待感も薄れ、また来なかったという諦めの方が強くなっていた。今では、本当に夏女という女性がいたのかと疑問に思うほど、あの女性との出会いが夢のように感じられた。

 彼女に一言お礼を言わなければ、ここを去りたくとも去れないないだろう。恩人に対し、そんな非礼な態度は取れない。


「カスミはお仕事と言っていたけれど、本当に? もしかして私のことを避けて……」


 不安げに語尾をすぼめると、給仕をしていた華澄は手を止めて、珍しくきっぱりと首を振った。


「それはありえないことです」


 少し強めの口調に驚いて、目を見開くと、それに気づいた華澄は罰が悪そうに目を伏せた。告げるのを惑うように少し間を空けてから、彼女は口を開いた。


「本当は黙っているよう言われたのですが、イブキ様を悲しませるくらいなら……。夏女は今日帰ってきます」

「え……本当に? 本当に今日いらっしゃるの? なら…どうして黙っていろなんて……」

「イブキ様の驚く顔が見たいとおっしゃっておりました」

「……!」


 なんて意地の悪い人なんだろう。

 こんなにも焦らして、その理由がそんなに単純なものだったなんて。

 酷い方だわと声をあげようとしたイブキは、ふとマダツ島の友人たちを思い出した。彼女たちもときおりイブキを驚かしては楽しんでいたのだ。けれどもそのささいな悪戯は決して不快なものではなく、今回のように喜べるものだった。今でも島のことを思い浮かべると胸に痛みが走って泣きたくなるが、それでも当初に比べると感情を抑えることができた。

 いつの日か、悲しいとも思わなくなってしまうのだろか?

 そう考えるとなんだか辛く感じた。


「あぁ、けれど、わたくしがばらしてしまったので、夏女の計画は台無しです。秘密が秘密ではないと知ったとき、夏女がどんな顔をするか見物ですね」


 言葉の端にほんの少し愉悦を滲ませ、口元を歪めた華澄は、悪びれもせず双眸をきらめかした。


「カスミは、ナツメさんのことをあまり快く思っていないの?」


 さすがに嫌いなの?と直接問いかけるのははばかられて、遠回しにそう訊ねれば、華澄はおもいもよらなかった質問をぶつけられたみたいに、固まった。答えを考えるかのように神妙な顔で黙り込んだ華澄は、口元に苦い笑みを刻んだ。


「さあ、どうでしょう。わたくしにとってイブキ様が一番で、ほかはどうでもよいのです。感情など深く考えたことなどありませんでした」

「え、けれど、ナツメさんはカスミのご主人様なのでしょ?」


 メイドというのは、主人の世話をするのだと聞いた。華澄はイブキの専属のメイドとなっているが、立場としては主人であり、雇い主である夏女に命じられているからにすぎない。

 ほかのメイドとはあまり接したことはないが、みな明るく元気で、夏女に敬愛の念を抱いていることは気づいていた。主人を嫌いな者が、こんなにも居心地のよい空間を作り出せるはずない。

 夏女という女性がどんな人物か彷彿とさせるほど温かく、華やかな住まいは、隅々まで手入れが行き届いていて、イブキはその空間に身を浸すたびに夏女に会いたいと強く思うのだ。


「主人……いいえ、わたくしの主人はイブキ様ただお一人です」


 イブキを見据え、そう言い切った華澄は、困ったように瞳を揺らした。


「イブキ様、わたくしは夏女の下におりますが、そこに主従関係はないのです。彼女もわかっているはずです。わたくしの主人は後にも先にも貴女様だけです」

「どうして? カスミは会ったときからそうだわ。なぜ初めて会った私を主人といえるの? 私はカスミを知らないのに……」


 けれど華澄はその問いに答えず、視線をそっと逸らした。

 シンッと静まりかえった室内に、慌ただしい足音と声が扉の隙間から入り込んできた。

 怒声が聞こえ、びくっとしたイブキに気づいてか、華澄は言った。


「夏女と一緒に太閤(たいこう)も見えるようなので、少し騒がしいのでしょう。太閤の前で粗相はできませんからね」

「太閤……?」


 聞き慣れぬ言葉に眉を寄せたイブキは、意味を問うように華澄を見上げた。


「夏女の祖父のことですよ、イブキ様。少しお話ししたと思いますが、鈴形(すずなり)家は、元は華族(かぞく)の血を引く由緒ある家系。日本が開け始めた明治の時代、先見の明によって当時の当主は、外来品を扱う店を興し、莫大な富を得ました。現在では、外来品を扱うだけではなく、ホテル経営や銀行、鉄道、百貨店、不動産、IT企業など幅広い分野の大手企業を傘下に置き、国内にとどまらず世界でも有数の財閥です。その鈴形グループの頂点に立つのが、鈴形桔梗(ききょう)。彼は、財界だけでなく政界にも通じていて、彼の一言でつぶれた会社や議員は一万を超えるとも言われています。表舞台は退いておりますが、影響力はまだ絶大のようですね。つい先日も太閤の大功の怒りを買った会社が倒産したようです」

「倒産……? ナツメさんのおじい様は、とても恐ろしい方なのね。感情的なのかしら。カスミは教えてくれたわ。会社が倒産するということは困る人がたくさん出ることだって……それなのに平然とそれを成してしまうなんて……」


 イブキは眉を寄せた。

 勉強中のイブキには、倒産という言葉がまだ口になじまない。その真の意味も理解できていないだろう。平穏な世界で真綿にくるまれるように幸せに暮らしてきたイブキには、異国の事情が今ひとつ把握できなかった。

 それでも、倒産によって困る人がでてくるのはいけないことだと思う。

 人工の少ないマダツ島ではだれもが支え合い、島の人たち全員がひとつの家族のような存在であったからよけいにそう思うのかもしれない。みな仲が良く、喧嘩をしたとしてもそう長くは続かなかった。基本的に争いごとがきらいな人種なのだ。

 イブキはまだ見ぬ夏女の祖父を恐ろしく感じた。そんな非道な決断をする者はどんな姿をしているのだろう。


「そうですね。けれど冷酷な面もなければ、鈴形グループこそが倒産していたでしょう。イブキ様、甘い心は時として諸刃の刃となるのですよ。頂点に立つ者は、優しさだけでは足りないのです」


 華澄のその言葉はひどく胸に刺さった。

 頂点に立つ者。

 あぁ、ハスナギもそう言っていたなと思い出す。


『よいか、イブキ。長はみなの命を預かり、彼らが路頭に迷わぬよう導いていかねばならない。百人いれば百の声があるように、ひとつにまとめあげるには骨が折れよう。ときには、反対の声を押し切ってでも進めなければならないこともあるやもしれん。そのとき、優しさだけではどうにもならんのだよ。長であるならば、まず民の幸せを願い、そのためには非情な決断もしなければならない』

『けれど、私は嫌です。みなの心が乱れてよい道が開けるのでしょうか? 私はそうは思いません。きっとなにかよい方法があるはずです。みなが納得するような方法が』

『……お前はまだ甘い。物事というのは、そう割り切れるものではないのだ。お前がただの娘だったならば、そのような甘い考えでもよかろう。けれどお前は次の長となる身。守るためならば犠牲も必要になるということを覚えておきなさい』


 犠牲……。

 その言葉に反発しているのをよく覚えている。

 犠牲などあっていいものではない。

 けれど思い返せばそのとき、千珠という犠牲の上にイブキの幸せが成り立っていたのだ。祖父は島のために、千珠を犠牲にした。

 彼はどんな気持ちだったのだろうか?

 災いをもたらす不吉な存在とはいえ、イブキの兄であり、彼にとっては最愛の娘が産んだ孫なのに……。

 もし自分だったら、そんな愛しい存在に手をかけることができるだろうか?

 自問したイブキは、無理だろうと答えを出した。島を危険にさらしても命を奪うことは叶わなかっただろう。

 これが甘い考えなのだろうか。

 ――甘い考えなのかもしれない。


「……私にはまだわからないわ。人の上に立つということが、どういうことなのか。優しさだけでは駄目なんて…なんだか悲しすぎる」


 この先、イブキが長として立ち上がることはないだろう。守るべき民は、すべて失ってしまったのだから。

 けれど、なすべきことはある。

 強い信念を抱いているはずなのに、未だここに留まり、安穏とした生活を送っている。果たして、本当に自分は復讐する気でいるのだろうか?

 兄という事実が……。

 同族であるという事実が、イブキの決意を鈍らせる。


「すべての者が平等に幸せだったらよかったのに……」


 ぽつりと漏らした独り言を華澄が拾った。


「そうですね。イブキ様ならそうおっしゃると思いました」


 声音に抑揚がなかったせいか、その言葉はひどく冷たく聞こえ、まるであざ笑っているかのようだった。


「え……?」


 ひんやりとした空気が流れた気がして、思わず華澄を凝視したが、華澄はそんな視線など気づかぬ様子で、少し日差しが強いですねと言いながら窓の両端に下がっていた布を引いた。たったそれだけでほんの少しだけ室内が暗くなる。白く薄い布は、窓の外の光景が透けて見えるほどであったが、日差しを和らげるにはちょうどよかった。

 あんなに晴れ渡っているのに、窓を開けたらキンッと冷えた空気が流れ込んでくるのだろう。空調の管理がされているこの部屋はこんなに暖かいというのに。

 島では神が自然を管理していたが、この国では自然とまではいかなくともいともたやすく温度を操ったり、呪術のように火を点けたり消したり、夜になっても昼のように明るくする術を個人が知っている。

 もしイブキがこの国で生まれ育っていたら、呪術を使えなくとも楽に生きて行けたのかもしれない。

 


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