第三章 異郷の地──聖なる子の侍女──
「どうですか、先生。この方の容態は」
「ふむ。大丈夫。峠は越した。顔色もよさそうじゃ。ゆっくりと体を休め、滋養のよいものを食べればすぐに良くなるだろう」
「そうですか、安心いたしました」
「ふ、珍しいの。主人ですら鼻であしらうお前さんが見知らぬ娘さんをこれほど心配するとは」
「ご冗談を。夏女は主人などではありません。わたくしの主人はただ一人しかおりません」
「ほぅ、まさかその主人がこの娘さんというんじゃなかろうな」
「お静かに。この方が目を覚まされたらどうするのです。さあ、用はすんだのですから自宅へお戻り下さい」
「やれやれ、この老いぼれはさっさと退散するか」
夢の中を漂っていたイブキは、若そうな娘の声としわがれた声にすっと意識をさらわれた。
パタンッという音とともに足音が遠ざかっていくのをぼんやりとした頭で聞きながら、んっと口から声が漏れた。ひどく喉が渇いていた。
その小さな声に反応してか、すぐ側にだれかが立ったのを感じた。イブキは目を開けようとするけれど、瞼は重く、まるで縫い合わせたかのようにぴたりと閉じたままだった。
「大丈夫ですか? どこかお加減でも?」
先ほど聞こえた娘の声だった。
イブキは夢うつつの中を漂ったまま、水…と小さく呟いた。
「あぁ、喉が……。気づかずに申し訳ありません。今お持ちいたします」
望んだものはすぐに届いた。冷たすぎない水は、喉をゆっくりと落ちていく。充足感に、イブキはまた意識が下がっていくのを感じた。
「ゆっくりお休み下さいませ。なにかございましたらすぐにお呼び下さい。わたくしはお側におりますから」
機械的に、まるで本を読むかのように淡々とした口調に引っかかりを感じたイブキは、落ちていく意識の中で、彼女はだれかしら、と瞑った瞼の裏で考えた。
マダツ島に住む娘は、おおらかで快活な者が多い。みな連れあいの儀をすませているせいか、しっかりしていて大人びている。なにより、友のように思っている娘たちは、イブキのことを年の離れた妹のように可愛がってくれて、いくらイブキが次期長の立場だとしても普通の娘と変わらない態度で接してくれた。イブキはひとりひとりの声を思い出すことができた。その中に、こんなに冷たく響くことなどなかった。いや、冷たいというよりは感情がこもってないといったほうが正しいだろう。
いつの間にか深い眠りについていたイブキは、急に瞼の外が明るくなったのを感じて寝返りを打った。滑らかな布の感触に違和感を覚え、ハッと目を覚ました。
「おはようございます。少し暗いですから、カーテンを開けますね」
イブキはぼおっとしたまま目を手でこすりながら何事かと起き上がった瞬間、シャ、と音と共に眩しいくらいの光が視界を塞いだ。思わず目を閉じた。
「気分はいかがです? 熱は…あぁ、下がったみたいですね」
額に触れた冷たい手の感触に驚いて目を開けると、そこには見知らぬ少女がこちらを覗き込んでいるのが見えた。
初めて見る顔だ。
だれだろうと記憶を探っていたイブキの脳が次第にはっきりしてくる。表現しようのない想いが渦となって足下からせり上がってきた。
「ぁ……」
思い出したのだ。何があったのかを。
こみ上げてくる想いが涙となってあふれ、頬を伝った。
「どこか…痛みますか?」
「ちが…、ごめ、…さ……。島……、思い出して…………」
なぜ彼らが死ななければならなかったのか。
なぜ自分だけ助かってしまったのか。
問いたくても答えは返ってくるはずもなく、ただ深い悲しみと謎だけが放出されることなく体内を巡った。
「レモン水をどうぞ。少しは気分が落ち着きますよ」
肩口で切りそろえられた黒髪が、目の前で微かに揺れた。
指先で涙をぬぐったイブキは、山から流れる清水のように冷たく、澄んだ美貌の少女を涙目で見つめた。
「あなた、は……?」
身を起こし、差し出された透明な椀に手を伸ばす。
いつもより重い右腕に、寝ていた名残かと思い当たったイブキは、まだ微妙に体全体がだるいことに気付いた。
熱を出すなど本当に久しぶりだ。
病気になったとしてもハスナギに癒してもらうので、寝込んだことは一度もなかった。だからだろうか。体の不調が妙に新鮮に感じられた。
「華澄と申します。本日より貴女専属のメイドとして仕えさせていただきます」
「カ、スミさん……」
すっと歯切れのよい名は、少し言いにくかったが、異国の名ともなればそれも当然で、口の中で転がすように呟いてみせると、華澄と名乗った少女が、無表情で訂正を入れる。
「華澄で結構です」
「カス、ミ……? カスミ……カスミ………」
唇に慣らすように何度も乗せたイブキは、やり遂げたといわんばかりの大輪の笑みを浮かべたが、そのすぐ後、戸惑ったように視線を周囲に走らせた。
見たこともないほど上品で繊細な家具が、自己主張するでもなく部屋の角にそっと鎮座し、頑丈そうな乳白色の壁が広い部屋を囲んでいた。
イブキは自分が住まう場所を素晴らしく美しいと思っていたが、ここは…なんというか、無機質なものと自然とを合わせたような、不思議な空間だった。圧迫感のない広々としたところといい、目にも鮮やかだった。
「ここは……私はどうして────」
「覚えていらっしゃらないのも無理はありません。夏女が連れて帰った時には、すでに気を失ってらして……あと少し処置が遅れていたら肺炎になっていたんですよ。本当に無茶をなさる……薄着一枚で寒空の下を出歩くなど」
そのとき初めて華澄の声音に色がついた。苦さを含んだ声は、ほんの少し怒りの色が見え隠れしていた。
「あ……」
その時の記憶が脳裏に浮かび上がる。
「私…、あの方は? 私を助けて下さった女の方は今……」
「あぁ、夏女のことですね。彼女なら急用で家を空けています。そのうち戻るでしょう。貴女のことをとても心配しておりましたから、のちほど連絡しておきましょう。何か彼女に伝言でもございますか?」
「え…あの、助けて下さってありがとうございますとお礼の言葉を」
「畏まりました。夏女に伝えておきます」
慇懃に頭を下げる華澄。
敬われることには慣れているイブキだったが、華澄から感じるものは、溢れんばかりで、それがイブキには不思議だった。
「夏女が戻るまでの間、貴女にこの国のことを学んで欲しいと思うのですが、いかがですか? お嫌なら断って下さって結構ですよ」
イブキは軽く目を見張った。
「どうして……、」
そこまでしてくれるのだろう。
会ったばかりだというのに。
イブキの言いたいことを察してか、わずかに視線を和らげた華澄は、
「いくあてがないのならずっとここにいらして下さい。夏女もそれを望んでいます。遠慮なさることはないのですよ。貴女がこの国で生きていく上で必要なことはすべて教えてさしあげます」
「なぜ……? この国の方はみな親切なの……? 他人に無関心だと思っていたわ」
だって、自分にだれも手を差し伸べてくれなかった。
そこまで考えたイブキはふいに自分が異国の言葉をしゃべっていることを知った。
(気づかなかった。あまりにも自然に聞いていたから、ここが異郷の地であることを忘れていたわ。もしかして語源が同じなのかしら……? いいえ、そんな偶然あるわけないわ。だってマダツは閉ざされた島だもの。名前で違和感を覚えるくらいだから、この国の者がマダツの言葉をしゃべっているはずないわ。言の葉の呪が私に使えるはずないし……)
言の葉の呪は、古い時代に使われていた名残だ。昔は、何種類かの種族に分かれていたようで、どこに行っても困らないようにと言の葉の呪を使って意思の疎通をしていたらしい。
言の葉の呪でないとしたらなんだろうと心の中で首を傾げていたイブキは、首飾りの存在を思い出し、ハッとした。神の力を宿していると言われている宝玉ならば、言の葉の呪を借りなくとも同じ役目を果たしてくれるのではないだろうか。
「イブキ様……? どうなさいました?」
黙りこんだイブキを心配に思ってか、華澄が身をかがめ覗き込んできた。
「ぁ……、な、なんでもないの。少し考え事をしていただけよ。私、この国の言葉をしゃべれていたことが不思議で……あ」
しまったと口をつぐんだときは遅かった。
マダツのことは異人に話してはいけないという掟がある。
それは、閉ざされた島だからこその掟であった。
もちろん、外へ出ることを許されていない島人は、その掟のことなど知らない者のほうが多かったが。
「心配なさらないで下さい。わたくしは、貴女がこの国の者ではないことを知っています」
「え……」
「そしてたぶん夏女も……」
「……!」
イブキは目を見開いた。
知られていた?
マダツのことはだれも知らなかったはずでは……。
だが、華澄はイブキがこの国の者ではないと言っただけで、イブキがマダツの者であるとは言っていない。
「だからこそ夏女は貴女をこの屋敷に連れ帰ったのでしょう。今日という日をどんなに待ち望んでいたか……貴女に会える日を……どんなに………。―――氷が溶けてしまいましたね。新しいのをお持ちします」
わずかに熱の宿った双眸を瞬きのうちに消し去ると、まだイブキが口もつけていない細長い椀をイブキの手から恭しく取った。
「あ……」
なぜ知っていたのか問いただそうとしていたイブキは、部屋を出て行く華澄の後姿をただ見つめていることしかできなかった。




