第一章 マダツ島──聖なる子の想い──
「私はお祖父さまの人形ではありません!」
少女は目の前に悠然と座る老人を睨み付けた。
老人といってもまだ、精悍な顔立ちの男性といっていいほど若々しい容貌の彼は、苦虫を噛み潰したような顔で孫を見返した。
「分かっている。だが、お前の成長の早さを考えれば、そろそろ連れあいの儀を……」
「嫌です」
少女は話を聞きたくないとばかりに横を向いた。
「――イブキ」
彼は、困ったように孫の名を呼んだ。強面の顔が一瞬にして情けなく緩んだ。一睨みすれば縮み上がりそうな眼力を秘めた瞳は、今は叱られた子犬のように垂れ下がっていた。
そんな姿の祖父にちらりと目をくれると、イブキと呼ばれた少女は大輪の花を思わせる華やかな笑みを浮かべた。
「お祖父さま」
「な、なんだ?」
「私はまだ独り身でいたいのです。もっといろいろ学んで……そう、たとえば、父様の……えぇ、そうよ。父様の住んでいたところへ行ってみたいわ。連れあいの儀はそれからでも遅くはありませんでしょ?」
イブキはそう言うと挑戦的に祖父を見据えた。賛同してくれるでしょうとばかりに。
けれど予想に反してハスナギの顔は凍り付いたように固まっていた。いささか青ざめた顔は、イブキの言葉がどれくらい衝撃的だったのか伝えてくれた。平静を取り戻すかのように、わずかに開かれた唇からゆっくりと息が吐き出されると、彼は厳しく双眸を改めた。
「――──いかん。それだけはならぬ」
感情を押し殺したかのように低い声は、微かに緊張をはらんでいた。
「なぜです? なぜいけないのです?」
問いただす声は真剣だった。ハスナギの視線にも圧せられることなく、真正面から見つめ返す瞳は、祖父の緊張が移ったように固かった。
「十七という年は、みなから見れば赤子同然かもしれませんが、私はほかの者とは年の取り方が違うのです。理由も聞かされず駄目と言われて素直に従う子供はもうおりません!」
「……………」
決然とした光を宿す美しい双眸から逃れるように視線をずらしたハスナギは、話すべきか話さぬべきか逡巡を見せ、顎に手をやった。気分を落ち着かせるかのように顎に触れていたハスナギは、やがて手を止めると、決心したのか、静かに話し始めた。
「……この島の結界から一歩でも踏み出せば、我々には死が待っているからだ」
「――!」
ハスナギは、信じられないと言いたげに目を見開くイブキを、渋い顔で見つめながら先を続けた。
「もともとこの島が不思議な力で守られているのは知っているな。そのおかげで我らも長く生き長らえることができる。しかし、結界から一歩でも外の世界に出れば、神の力は体から離れ、肉体は滅び、魂は消え失せる。――私は見てきたのだよ。そういう者たちを」
苦汁に満ちた呟きは嘘をついているとも思えぬほど真摯であった。
言葉を失ったイブキの顔を見まいとそっと睫を伏せた彼は、諦めとも絶望ともとれる息をそっと吐きだし、じっとりと眉間に皺を寄せた。
この島の長を務めるハスナギは、若々しい見た目からは想像も出来ないほど長い時間を過ごしてきた。彼の伴侶はすでに亡くなり、愛娘のハスノもイブキを産んだ直後役目は終わったとばかりに息を引き取った。だから唯一の家族であるイブキには、長としての威厳も脱ぎ捨てて孫に甘い祖父として接してきたのだ。
イブキは、中々新しい命に恵まれない中、やっと生まれた子供。
まさに島にとって宝といってよい。
三百人にもみたない人口の島で、若い命は貴重であった。島人の外見はいくら若さを保とうとも、すでに子をなす力がないのは周知の事実。それゆえに、イブキの誕生は島を揺るがすほどの慶事で、暗雲立ちこめていた島を照らしてくれた一条の光のようだった。
イブキが死ぬということは、ハスナギが家族を失うだけではなく、マダツ島の尊い血がイブキの代で消えてしまうということを意味する。それはなんとしてでも防がなければならなかった。
思い悩んでいたハスナギは、意を決したように話し始めた。
「神は我らに長く生きていることを許して下さった上に、それまで続いてきた争いを終わらせるために力をお与え下さった。けれど、その代償はあまりに大きかった。……この島は我々にとって確かに楽園だ。何人にも侵されることのない土地、豊かな土壌に実る作物……我々は、恵まれた自然の中で長い年月を過ごしてきた。進んで働かずとも我々は不自由なく暮らすことができた。手入れを怠っても樹木は実をつけ、荒れ果てた田畑には一年中黄金の穂がそよぎ、我々を満たしてくれる。神々の恩恵は島の隅々にまで及んでいる。天災を退け、穏やかなゆるりとした時だけが流れていく。神が作られたこの楽園は、……のぅ、イブキ。なんとも我々を堕落させる楽園よ。私には、この楽園が、我々を閉じこめるために作られた檻に見えるぞ」
感情を殺した淡々とした物言いに、ヒュッと息を呑んだイブキは瞠目した。
「お…じ……、さま……?」
紡がれた声はわななき、動揺を隠そうとしなかった。
ハスナギはそんなイブキをしっかりと見据えた。
「この島で快適に暮らせれば暮らせるほど、外の世界へ出ようとは思わないだろう。──それこそが神の狙いなのかもしれんな」
「な、何をおっしゃいます。そのような気違いじみたこと口にされるとは……」
「気違い……そうやもしれぬな。永遠とも思える命を宿し、私は多くのことを知りすぎた……。イブキ、私はこの考えを間違っているとは思わない。この島は牢獄だ。決して楽園などではありはしない。死屍の上に我々は立ち、多くの血を吸った土から栄養を得た作物を糧として口の中に入れているのだから。こんな…こんなにも穢れた身を、神は檻の中から解き放ちはしまい。だからこそ我々は縛られている。誓約という名の鎖に───」
「お…っ、おやめ下さい、お祖父さま!」
ついにイブキは悲鳴を上げた。
聞くに耐えないとばかりに、気丈なイブキも、さすがに身体を震わせていた。
「なんて恐ろしい……。そんな話、初めて聞きました……あぁ……けれど私は……、私たちは神の子です。お祖父さま、すべてにおいて優れたる万能な神は私たちを……神の子を救ってくださったのです。この上なく崇高な存在であれらる神と同じ能力を授けてくださり、さらには永遠にも思えるほどの時間を生きることを許してくださったのがその証ではございませんか。マダツ島の…いいえ、神の子である一族の長が生みの親でもあらせられる創造主を信じないでどうするのです」
ハスナギの言葉を真っ向から否定するイブキの顔色は悪かったが、瞳だけは強い輝きを放っていた。
その視線に射抜かれたハスナギは、苦悶に揺れていた双眸をハッと見開いた。孫の成長に今気づいたのだ。自嘲の笑みがこぼれ落ちそうになるのを、唇を噛んで堪えた。
――イブキはこんなに美しい娘だっただろうか。
神の子である者はみな総じて端麗な容姿をしており、イブキは特筆するほどの美貌を備えているわけではなかった。ただ容姿に優れた娘であった。
しかし、今こうして真っ向から臆することなく意見を述べたイブキは、島のだれよりも美しく目映いばかりの生で溢れていた。大きく知的な赤い瞳は見る者を掴んで離さない魅力があり、儚く見えがちな容貌を引き締め、凛としたみずみずしさを添えた。透明感のある清麗とした美しさは、さながら清水から流れる小川のように、侵しがたい雰囲気を持っている。
ついこの間まであどけなく笑っていた少女の姿はもうなく、サナギが蝶になるように着実に成長しようとしていた。
彼女はもう祖父の言葉を諾々(だくだく)と聞くだけの幼子ではなく、確固たる意志を持ち、己をしっかりと見据え、歩いていこうとしている娘なのだ。
孫の早い成長がハスナギには嬉しくもあり、少しばかりもの悲しかった。鋭い眼光にかすみがかかる。諦めにも似た何かをゆるりと吐き出しながら、過ぎ去った過去を懐かしむかのように閉じていた瞼が開いた。
「そうだな。お前の言うとおり。──我らを創りたまう神を愚弄するのは、賤しき魔物だけだ」
そこでふっと微笑したハスナギは、イブキの目をしっかりと見つめ返した。
「イブキ、島の者たちはこの話をだれ一人として知らぬ。代々長だけに伝えられてきた秘事だからだ。それをあえて今日お前に話したのは、私に考えあってのこと。けれど、いずれはお前が長となるのだから、時期が少しぐらい早くなっても大差ないだろう」
長の家に生まれた者ならば、男女の差なく、最初に生を受けた者が長となる。それは、暗黙の掟であった。
ハスナギには、イブキなら自分以上の長になれるだろうという確信があった。威風堂々とした様は、どこまでも優美で嫌味がない。飾り気も計算も打算もないからこそ自然体で、あるがままをさらすイブキに、少しでも陰の気を宿す者が真っ向から勝負を挑んだとしても、勝敗は火を見るより明らかだろう。上に立つ者として、光り輝く陽をまとう彼女以上に相応しい者がいようか。
ハスナギはじっくりと孫を長の目から眺めた。
おてんばだった少女は、いつの間にか気品と典雅さをまとい、この上なく優麗な女性へとなろうとしていた。今はまだ彼女自身の自覚がないためにその魅力に屈する者はいないが、近い将来だれもがその姿を仰いだだけで、乞われることなく頭を垂れることだろう。
若齢ゆえに触れたら壊れるような繊細さを秘めているが、いずれ力強さへと変えてくれることだろうとハスナギは信じている。
指導者に必要な知識などはおいおい学んでいけばよい。
「……そう、これからが試練なのだから」
イブキに聞こえぬほど小さく呟いたハスナギは、一瞬辛そうな光を瞳に過ぎらせた。
「──私には無理です。長になる力はありません。癒しの呪すら使えないのですから」
ハスナギの言葉を複雑な顔で受け止めていたイブキは、口の中が乾いたのか唾を飲み込むと、きっぱりと言い切った。
「力などお前が持っていなくともよい。ちょうどよいことに婚約者であるイナミは、まだ三百三十二歳という若輩者でありながら、能力は島で随一ではないか。彼に任せておけば心配ないだろう」
「それは…、そうですけど、それとこれとでは話が違います。それに私はまだ結婚するつもりはないと言ったはずです」
「ふむ」
ハスナギは、激しい抵抗を示すイブキを眺めて、顎に手を添えた。彼とて、最愛の孫が嫌がることを強制したくないのだ。
「ならば時期を少し待とう。だが、お前にはこの島の運命がかかっている。それだけは忘れるな」
それは、長としての言葉であった。
祖父としての甘さを切り捨てて長の威厳を身に纏いながら泰然と話す様は、これまでイブキが見たこともないほど逆らいがたい雰囲気に包まれていた。
「……はい」
この島では、長の言葉は絶対である。実の孫でも逆らうことは許されない。
ハスナギは、イブキに向かって初めて命令したのだ。
イブキは祖父と視線を合わさぬよう、そっと睫を伏せ、きゅっと唇を引き結ぶと、静かに立ち上がり部屋を後にした。
それをハスナギは憂えた顔で見つめていた。




