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ピアニスト

作者: ざぶろ

 先生が言った。まず片手ずつ、歌いながら練習しましょう。そして今度はソプラノ声部を弾きながらアルト声部を声で歌って、次にアルト声部を弾きながらバス声部を歌って。そうやっていくつか組み合わせて練習して、最後に両手を合わせましょう。

 だから私はその通りに練習する。同じ門下のよっちゃんは面倒だからそんな事しないって言ってたけど、でも私は先生のおっしゃる通りにする。先生は私なんかより経験が豊かで、小さいころからずっとピアノと向き合ってきた方だもの。きっと言う通りにすればうまくなる。

 バッハの平均クラヴィーア曲集一巻の9番。先生が選んでくださった曲。今までバッハは弾いたことがなくて、ぜひ挑戦したいですと言ったら選んでくれた。

 プレリュードは清涼感あふれる美しいメロディーで、私はとても気に入っている。フーガもとても明るくて楽しくて、各声部が今にも踊り出してきそうな、そんな感じがする。まだゆっくり練習している段階なのに、私には完成形がイメージ出来るの。きっと私、この曲をうまく弾く事が出来ると思う。

 先生はよく私に言う。

 (りょう)上院(じょういん)さんは毎週毎週とても熱心にさらってきて、えらいね。音大を目指すわけでもないのに。

 先生、私はピアノが好きなんです。ショパン、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、モーツァルト、バッハ。その他にもたくさん、私がピアノをつかって交流出来る人たち。先生、私、ピアノを弾いてると彼らとお話し出来るんです。もちろん、それは私の妄想ですけど、でも私は彼らのことが、理解出来るんじゃないかと思うんです。

 理解出来るの? 本当に? あなたが今言った作曲家たちはね、辛い思いを乗り越えて、必死に音楽にしがみついてきた人たちなんですよ。

 先生、私もそうです。確かに私のピアノは下手くそだし、作曲家の事がわかるなんて、とてもおこがましいと思います。でも、それでもわかるんです。彼らが感じていた孤独感と私が感じている孤独感は、きっと同じです。私たちは、音楽にしがみつくしかないんです。音楽に頼るしか、ないの。


「だから仕事なんかやめとけって言ったんだ」

 隣の部屋から聞こえてくる怒鳴り声。

「なんでそういつもいつも上から目線なの? 自分が出来るからって、出来ない人のことを見下して」

 ああ、本当にいい加減にしてほしい。

「やることはやれって言ってるだけだろ!」

 汚い声。惰性で生きている人間の声。

 あの人たちが喧嘩をする頻度は最近さらに増えた。ただでさえ陰鬱とした家の中がさらにひどくなる。私がバッハで洗浄してあげても追いつかない。私が洗浄する倍の勢いで、あの人たちはこの空間を汚す。毎日のように、あの人たちはこの空間に穢れた空気を吐き出す。堕落と惰性の言葉で満たす。

「私も頑張りたいのに! 私はやりたいことをやったらダメなの?」

 くだらない。

 本当に、くだらない。

「いいから言う事をきけ!」

 怒鳴って叫んでわめいて当たり散らして、これで悪霊を呼び込むことになったってあの人たちの自業自得。私の知ったことじゃない。私は努力をしている。こうやってバッハを弾いて、空間を清める努力を。


 そのとき扉が開いた。

「瑠衣、ピアノをやめなさい」

 皺でたるんだ、こけた父親の顔。清涼さも誠実さも失った人間の顔。ああ、頼むからこの空間に入ってこないで。

「お父さん、まだピアノを練習して良い時間だよ」

「今日はお父さんもお母さんも疲れてるから、だからもう音を出すのをやめてくれ」

「わかった。ごめんね」

 私は仕方なくピアノの蓋を閉じた。

 ごめんなさい。明日はもっともっと練習します。そして早く弾けるようになって、この空間をあなたが愛した神聖な精神で埋め尽くします。あの人たちが汚し続けているこの場所を洗浄しないと。



 私は人とは違う。そんなの自分でもわかってる。学校で同じ空間にいる人たちとはまるで世界が違う。私の世界は目に見えない空気で満たされている。そして経験したはずのない感覚、経験したはずのない記憶で満たされている。それはとても鮮明で現実的。映画の3Dスクリーンなんかよりずっと立体的で衝動的。

 学校で一緒にいる人たち。町ですれ違う数人の老人たち。近所のおじさん、おばさん。

 みんな、どこか別の世界の人みたい。

 毎日感じる、この違和感。生きるということの違和感。

 でもピアノを弾いている時だけは違う。ピアノが音楽を鳴らしたその瞬間から、そこに私はいない。私は自分を通して音楽に共感するのではない。

 空間に出来上がった世界が、私を別の存在へと変換してくれる。そしてその世界は私が存在する現実世界にも波及して、不浄なものを取り去ってくれる。

 音楽は、それ単体で存在する。



 私がピアノ教室の待合室で座って待っているとレッスン部屋からうるさいドビュッシーが聞こえてきた。私がドビュッシーに対して持っているイメージからはまるでかけはなれたうるさいい音、せわしないテンポ。先生も同じことを思ったのだろう、もっと優しく、なでるようにするのよ。そんな風に言っているのが聞こえてくる。

 よっちゃんはピアノには向いていない。私はそう思う。外でサッカーをしている方が似合っている。なのに小さいころから通ってきたこの教室にまだ通い続けている。

 部屋から出てきたよっちゃんは私をみて「よっ」と言った。

「お疲れ様」

 私が言うとよっちゃんはにいっと笑って「ほんと、疲れた」と言った。

「随分とがちゃがちゃしたドビュッシーだったね」

「ガラじゃないんだよ。それにせっかく頑張って譜読みしてきたのに、先生はもっと優しくもっと優しくってそればっかり。少しくらい褒めてくれてもいいよね」

「誰が選曲したの?」

「俺」

 よっちゃんとは小学校も同じで中学校も同じで今通っている高校も一緒だ。それは別に珍しいことじゃない。だってこの町には学校なんて右手で数えられるくらいしかない。よっちゃんはピアノをあまり練習しない。年に一度の発表会でも、たくさん間違えながら一曲を終える。なんで彼がまだピアノを続けているのか、私にはわからない。

「瑠衣は今なにやってるの?」

「バッハ」

「またバッハ?」

「しばらくはバッハだよ」

「好きだね、バッハ」

「好きだよ。バッハだけがまるで別世界なんだよ、私にとってはね。ドビュッシーもショパンも、バッハと比べたら世俗的」

 これは私の主観だ。バッハの音楽は、きっとバッハの時代の世俗だったのかもしれない。でもバッハが世の流行に反抗した部分があったのは間違いないし、自分だけの世界を作り上げた彼が唯一無二なのは変わらない。

「それ、グレン・グールドも言ってたよね。あ、そういえばさ」

 これから私はレッスンだっていうのに、よっちゃんはいきなりすごい勢いで話し始めた。

 久しぶりに会ったからだろうか? まるで堰をきったみたいに。

 そういえば知ってる? 去年引っ越しで仲鷹市に行ったテツヤっていただろ、あいつ死んだんだって。

 死んだの? どうして。

 ミンチにされたんだ。見つかった遺体は粉々でぐっちゃぐちゃだ。

 だから、どうしてそんな風にされたの?

 なんかやばい連中に目をつけられたらしいよ。詳しくはわからないけど。あいつここにいた時からやばかったじゃん。やっぱりそっち系の奴だったんだよ。


 これからバッハを演奏するっていうのに、ミンチにされたテツヤを想像してしまって私は気持ち悪くなる。

 内臓が掻き出されてかき回されてぐちゃぐちゃ、目から脳みそをひぱり出されてくちゃくちゃ、肉ははぎ取られ包丁でめっためた。骨を力ずくで引っ張りだして床へ叩きつける。

 私はその様を想像することが出来る。なんでかって? それは胎内で得た養分のようなもので、私の中にはきっと殺人者の感覚があらかじめ盛り込まれているのだ。それは私がもっている世界観の一部だ。

 でもその事をどうも思わない。殺人の様を想像出来る人間は殺人を起こさない。だって、鮮明にわかるから。わかってることを追体験する必要なんてないんだ。

「凌上院さん、何してるの?」

 先生が部屋から出てきて行った。

「あ、すみません。よっちゃんとつい話をしてしまって」

 よっちゃんは「じゃ」と言うと私に背中を向けて去っていく。

 彼が何でここに通い続けるのか、私にはわからない。



 まるで作曲家を自分たちを同じ生き物みたいに言う。これを書いた時バッハは何を考えていたの? ショパンは何を考えていたの? べートーヴェンは? モーツァルトは?

 何を考えていたかって? どんな思いでいたかなんて? そんなのわかるわけないでしょ。

 わかるのは、彼らのなかに枯れないで残っている創作意欲と訓練されてきた様式感、まだきいた事のない音への渇望とアイディア。洗練されたスタイル。

 それは人間の一時的な感情とは切り離されたところで存在している。音楽はそこに存在したその瞬間からそれ単体で価値をもつ。創作するというのは一時的な感情で出来るものではないと私は思う。一時的な感情が糧になる場合はあるが、いざ創ろうとした時はもっと冷静にならないといけない。

 なんで私がそう思うかって?

 私も創ったことがあるからだ。でもそれは音楽じゃない。絵でもないし物語でもない。

 でも私は創ったことがある。

 私は、創った。

 

 

 お母さんは言った。私の時は結婚した時から止まっている。結婚した時から、私は自分の人生を生きていないの。

 私は嫌悪感で泣きそうになった。

 真顔で、自分の人生を生きていないの。自分の子どもを目の前にして、真顔で。それにどこか誇らしげに。自分が不幸だと信じている自分の人生を見せびらかすように。

 お母さんの背後がどろどろした緑色の渦で埋め尽くされていくのを、私はその時みた。そして悟った。ここは檻なんだ。

「瑠衣、今日はピアノは?」

 コンビニのアルバイトを解雇され、この人は今一日中家の中にいる。

「今日はピアノはないよ」

「じゃあずっと家にいるの?」

「いや、ピアノの練習したらちょっと図書館に行ってこようかな」

 図書館と言ったって近くの小さな公民館のなかにある図書スペースだ。たいした本は置いていない。ただずっとこの家にいるなんて耐えられないだけ。

「お母さん、元気?」

「元気よ。最近は家でゆっくり過ごしているから体調も良くなってきたし」

 ゆっくり過ごすって、要するにずっとテレビを見ているかぼおっとしているか。自分の人生を生きていないお母さんは、そんな風に時間を潰してもなんとも思わない。

「腰はもう良くなったの?」

「まだ少し痛いけど大丈夫。瑠衣、心配してくれてありがとう」

「うん。お仕事、また出来るようになるといいね」

「そうね。お父さんには色々言われるし仕事場でもひどいことされるけど、負けちゃダメだよね。お母さん、頑張るよ。ありがとう」

「そうだよ。頑張ろうよ」

「そうだよね」

 常に被害者であれるというのは素晴らしいことだ。自分は何も悪くないのだ。悪いのは自分を不幸にする周りの環境と自分の体。こんなに頑張っているのに何一つ与えてくれない周りの人たち。

 別にお母さんが嫌いなわけじゃない。だけど時々泣きそうになる。こんな人から産まれたんだな、私。



 この町は滅多に晴れない。学校の窓から見える景色は曇天とぽつんぽつんとあるいくつかの家。ただでさえ田舎の、もっと田舎のこの地区の高校に私は通っている。中学校の時の同級生で何人か都会の高校に行った人がいた。その他の子はほぼこの高校に進学した。だから周りにはもう見飽きた顔ばっかり。でも私は彼らと言葉を交わさない。

「知ってる?」

「知ってる?って、何を?」

「774号線の向こう側にあるお(おやしろ)のこと」

「774号線の向こう? あそこは入れないでしょう」

「いや、それが入れるんだよ」

「どうやって」

 私は彼らの言葉に耳をすます。耳を澄まして盗み聞きする。まるで自分が交わした言葉みたいに頭にインプットする。

「774号線の山の3合目あたりに小さな像があるの。お地蔵さん。そこから森の中に入っていくの。しばらくすると大きな切り株があるんだって。もう一目でわかるくらいの切り株。その切り株に大きな切り目が入ってる。それが指し示す方向に歩いて行くの。そしたら中くらいのお社があるらしいよ。でこぼこした道で険しいらしいけど」

「へえ。で、そんな苦労してお社に行ってどうするの? なに、神様でもいるの?」

 774号線は車がやっと1台入れるくらいの狭い道だ。起伏が激しい森に設置された道でそこを通ると羽鷹山の端から端まで最短距離で走れる。といってもぐるぐる円を描く道ではあるけど。

 羽鷹山は土砂崩れが起きやすいうえに起伏が激しい。土も年中どろどろしているし危険な生物も多い。素人が774号線を超えて森の中に入っていくなんて出来ない。もしやったとしたら迷子になるか転げ落ちて死ぬか、そんな場所だ。

「そのお社の前でお願いごとをするの。一つだけ、一生に一つのお願い。一生に一度だけのお願い。そしたら叶えてくれるんだって」

「なんだ、またそれ系の話? もうやめない? 高校生になったんだし」

「ちがうって、これは本当なの。ゆっちが言ってたもん」

「ゆっちは何をお願いしたの?」

「仲鷹市に引っ越した男子いたでしょ? 丸刈りの」

「テツヤね」

「ゆっちはテツヤを殺して下さいってお願いしたんだって」

「なんでまた」

「ゆっち、テツヤに嫌な事されたらしいよ。まだ根にもってて、お願いしたら本当に死んじゃった」

「え、嘘でしょ? その話あたし知らない」

「ほんと、ミンチになったんだって」

「まじで?」

 ――テツヤは、ミンチになった。

 頭の中で何回もその言葉が鳴った。それは音となって頭の中でこだました。

 テツヤはミンチになった。テツヤはミンチになった。テツヤはミンチになった。

 丸刈りのテツヤは、ミンチになった。



 クラスの同級生と言葉を交わさない私は、よっちゃんとは会話をする。

 それはよっちゃんが私に話しかけてくれるからだ。それ以外にはない。小さい頃からよっちゃんと同じ発表会に出てきたし小さい頃からずっとレッスンの順番がよっちゃんの跡だ。よっちゃんがどんな曲を練習しているのか、よっちゃんがどんな曲をどんな風に弾くのか、先生に何を言われたのか、私は全部知ってる。

 だから今よっちゃんが演奏しているブラームスだって、私の想像通りのはずだ。よっちゃんならきっとああ弾くだろう。瞑想したくなるような美しい間奏曲をまるで恋愛ポップスソングみたいに歌い上げるはずだ。テンポも自由奔放に動かして、声部のバランスなんて考えないで全部ごったごたに。

 そう思った。

 レッスン部屋から聞こえてきたブラームスに、私は耳を疑った。

 新しい生徒さんが入ったのかな、と思ってレッスン部屋をのぞいてみた。だけど弾いているのはよっちゃんだった。

 嘘でしょ。

 こんなのよっちゃんじゃないよ。

 なんでこんなにまともに弾いてるの?

 まるできちんと勉強してきた人の演奏だ。考えられた声部のバランス、ピークが計算されたメロディーの歌い方、強弱のつけかた、綺麗なぺダリング。

 先生に怒られたから今週は真面目に練習してきたのかな?

 きっとそうだ。いくら趣味でやっているとはいえ先生を怒らせてしまうのはまずいから。だから今週はちょっと真面目にやってきたんだね。よっちゃん、やれば出来る子じゃない。

 レッスン部屋から出てきたよっちゃんは私を見て「よっ」と言った。

「あ、そうだ瑠衣、ちょっと話したいことあるんだ」

 よっちゃんが私に話たいこと?

「何?それ」

「ちょっと話したいんだ。コンビニの横に出来たコーヒーショップあるだろ?」

「ああ、あそこ」

 この町にあんなオシャレなお店が出来るなんてねえ、って話題になっていたコーヒーショップ。

「レッスン終わったらあそこに来て。俺、先に行って待ってるから」

「わかった」

 よっちゃんが私に話したいこと。

 一体なんなのだろう。


 


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