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◇ ◇ ◇
飛行機は向かって左よりのスポットに到着した。
伏し目がちに客室乗務員に会釈し、片手に2個のショッピングバッグをぶら下げてボーディングブリッジを抜けた先には、小さなキャリーを携える五十嵐がいた。
目を合わせたくなくて視線を落としていたのに、何故顔を上げてしまったのか。
立ち止まってしまった秋良は後ろから来た乗客に何人も追い越されながら、彼と対峙する。
「これからどうするの」
「帰ります」
「そう」
特に示し合わせたわけでもなく。ふたりは同時に歩き出す、足早に。まるでこれから搭乗する乗員たちが徒党を組んでゲート指して往くように。
「あなたは」
「メシ食っていく。一緒にどう。食事」
「私は……」
「僕は本気なんだけど」
「何の話かしら」
「決まってるだろう、食事。別の話の方でもかまわないんだけど。無理にとは言わないよ」
食事も話も、どちらも悪いわ!
人と親交を深める上で食事を共にすることはとても大切で外せない。
ビジネスでもプライベートでも。
大人の男女が1対1で会食をする行為には、単に空腹を満たす以上の意味合いを伴う。
先刻、思わぬ『告白』をされた後だ。職場で誘い合うように、ただ食べてそれぞれの職務に戻るランチのようにはいくまい。
ふわふわと、定まらない足を運びながら、五十嵐からの誘いに迷う自分がいるのが不思議だった。
彼からの告白が真摯だったからか?
なんとなく気づいていたのに受け流し続けたことに引け目を感じたから?
愛の告白をストレートにされて戸惑っているだけなの?
「あら、そう」といつものようにあしらえないのは何故?
どこかに迷いがあるから?
『愛している』という言葉に飢えているの、私。
――最近、夫から言われたのはいつのことだったかしら……
エントランスを抜けると夢が醒める、いや、現実に戻る。
そこで私が選ぶ道は?
もし、五十嵐に促されたら、少しでも圧されたら、私は彼についていくだろう、流されてしまう。
お願い、私を揺さぶらないで。
このままでいたいの、今の生活で充分しあわせなの。
私、些細な事でも自分から決断を下せない。
過去も、今も、きっとこれからも!
私の手を引いて導いてくれる人は……ひとりだけ。
助けて!
――慎一郎さん!
夢の扉を開けるように横にスライドしたドアの向こうに視線をやった五十嵐は、つと足を止めてつぶやく。
「あの日、もし君に声をかけたら、想いを打ち明けたら、僕たちの人生は変わったんだろうか、といつも思った」
「五十嵐君」
「昨日のことのように感じるけど、随分昔の話だったんだな。若かった頃の思い出だ。でも、きっと何も変わらなかったんだろう、だって君は彼の元へ走っていったし、彼も君を待っていたから。……今日みたいにね」
ほら、と顎をしゃくった先にいたのは、背が高い男。
何ともラフな格好で小脇に付箋だらけの本を抱え、手すりに浅く腰掛けている。
慎一郎だった。
「僕は彼にとことん邪魔される運命にあるらしいや。どうあっても君とは一緒になれないのかなあ。……諦めないけどね」
『付き合わない?』と誰彼かまわず声をかけていた当時の口調そのままに語る五十嵐に、つい、笑みが漏れる。
失笑でも哄笑でもない、こぼれるような微笑みだ。
五十嵐はまぶしそうに視線を外した。
ごろごろと引かれたカートの音に顔を上げた慎一郎は立ち上がり、秋良と、隣にいる五十嵐の姿を認め、ふたりに会釈した。
「お帰り」
「ただいま帰りました」
彼女は無意識の内に、ジャケットの肩についている細かい毛をはらっていた。
飼い猫の毛だ、出掛けに抱き上げてきたに決まっている。片側にだけびっしりとついていたから。
――もう。猫の毛をつけたままで出てくるんだから。おでかけするときは都は抱っこしないで、ブラシで毛を払って落としてからにして下さいな、って言ってるのに。
「こちらは?」毛を払わせるにまかせ、彼女の手からショッピングバッグを取った慎一郎は視線を隣に向ける。
「同じ職場の……」
「五十嵐です。弊社の運行に携わっております」
慎一郎は秋良の腰に手を回し、ぐっと引き寄せて言う。
「お名前は伺っています、家内がお世話になります」
頭を下げる相手へ、気取られないように深く息を吐いて五十嵐は答えた。
「こちらこそ。お噂はかねがね。息子さんがパイロットを目指しているとか」
「子供のたわごとですよ」
「いやいや。中学生が語る夢は努力し続けられれば実現に限りなく近づける。自分もそうでした。叶うと良いですね」
「本人が聞くときっと喜ぶでしょう」
「できればこちらの会社ではなく、うちを選んで欲しいものです。彼が入社する頃には、自分もぎりぎり乗務できているでしょうから。会える日が楽しみだ。……じゃ、水流添君、また」
秋良にしか聞こえないように耳元で言う、「今日のところは退くけど。また隙を見せたら、今度は手控えない」と。そして大きな声で続けた。
「食事はまた今度。……同期の皆を誘って」
「ええ。定年の頃にでも」
「定年かあ」と言って。五十嵐は慎一郎の脇を抜けた。
一瞬、ふたりの男は視線を合わせ、けど何事もないように行く者と残る者に分かれた。
「そうそう、長崎の社長さん。あの後どうしたんだっけ」何とも間の抜けた口調で問う五十嵐に、秋良は答えた。
「お怪我もなく、その後も長くご愛顧頂きましたわ」
「そうだったね。じゃ」
片手をあげて去って行く五十嵐に視線を据えた夫の隣で、秋良は何とも決まり悪く、収まりも悪く、掌を何度もひらめかせ、指先をさすった。
「長崎の社長?」
「昔の話。私が仕事を始めたころにご迷惑をおかけしたお客様が長崎にお住まいの方でしたの」
「あの男……」慎一郎は視線を五十嵐が去った方に据えて動かさない。
「どこかで会ったのかな……あの目には覚えがある」
どきりとした。
夫と五十嵐とは面識はおそらくない。顔を合わせたのも多分今日が初めてのはずだ。
でも覚えているのだとしたら……駅での改札以外にない。
まさかね。
秋良はふるっと首を横に振る。
「彼とは?」
「たまたま帰りの便で一緒になったんですの。所用で出かけていたそうですわ。乗って来た便のパイロットがお友達だったのですって」
「ああ、同業なら会社違いでも友人の一人や二人いてもおかしくない」
夫の横顔を見て、秋良はついおかしくなった。
猫の目のように、まぶたを薄く遠くを見るように引き絞る、これは内心の感情を表に出さない時の彼の癖で、よくする仕草だ。
さすがに夫婦をして長くなると、このまぶたの引き加減で何を隠しているかがわかるようになる。
怒っているとか、迷っているとか。うれしいとか。……焦りとか。
もしかして、この人。むっとしてるのかしら。私じゃなくて彼に?
そう思ったらおかしくなった。
「本当に、たまたま、偶然、空港で会ったのよ?」
「そうか」
「示し合わせたわけではないのよ」
「そうか」
抑揚のない返答がおかしくて。
――たまには。
彼を驚かせて焦らせてみても、いいわよね?
秋良はぽろっと漏らした風を装って言う。
「私、彼から食事に誘われてましたの」
「らしいことを言っていたな」
何気なく口に出る言葉。だけど、語尾が変だった。
絶対、何気なくなんかないんだわ。
「ええ。せっかくだから、お誘いに乗ってもいい? 今なら追いつけますもの」
「……間に合うだろうな」
「慎一郎さん……もしかして、妬いてる?」
「別に」
「うそ。妬いてるでしょう」
「……そんなことは、ない」
もうだめだ。
「うそばっかり」
我慢できなくて、秋良は盛大に吹き出した。
「気になってしかたがないのに、ごまかしているつもりなんでしょうけど。私にそれは効き目ありません。全部お見通し。だって長く暮らしているんですもの」
これからもずっと。
……多分誰よりも長く。
「ああ」
腰に回した手は緩めず、妻に夫は言う。
「少し、話をしないか」
夫の腕に体重をすこし預けて。
秋良はこくりと、首を縦に振った。