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「何を」
「あなたがさっき、出発前に言ったこと。長崎便でのこと」
「……ああ。そう。懐かしいね」
「ええ。あれは私が乗務して間もない頃でした」
「僕はまだ訓練に入る前。地上職勤務だった」
「私、水でしくじってしまって」
「うん。だったんだってね。さすが『みず あきら』だ」
「もう、その渾名は忘れてくださいな。あの時、私、この仕事に向いていないのじゃないかしら、と真剣に落ち込んで考えて……辞めるところまで思い詰めていたんです」
「うん、気づいてた」
「そう……でした?」
「仕事柄、多くの人と接するもんだけど、見知った顔を毎日見続けていると、ちょっとした変化も見逃せなくなってくる。これは大したことがない、まったく問題ない。けど、深刻な何かがあったら、あ、とくる瞬間があるんだ。些細な声掛けひとつで相手の心を解きほぐすこともできる。『付き合わない?』もそんな中で生み出した会話術だったんだけど、さすがに今時は使えない。セクハラで訴えられてしまう」
「まあ」
「長崎からの到着便だった、デブリーフィングに向かう中、皆が緊張し、君の顔は青ざめていた。先輩格の乗務員がぷりぷり怒っていたから、何かあったんだな、やらかしたとしたら君か? と」
「お得意様に、粗相をしてしまったんです。どのお客様も大切ですけど、やはり……大切にしているお得意様はいるものでしょう? 長くお引き立て頂いている方だから、とブリーフィングでもお名前が上がる方なのに」
「水、かけてしまったんだっけ」
「ええ。盛大に。頭から」
今でもあの時の、場が凍りついたような瞬間を思い出すと、背筋に冷たい汗が伝わる気がする。
長崎を拠点に会社を経営しているという男性が、月に数度東京に出張する際に搭乗していた。会社的にも便宜を図ったり図られたりと繋がりのある企業のひとつだった。
会社間の付き合いは何事もビジネスライクに話が進むと思ったら大間違いだ。
ウェットな、感情に根ざした部分で大切な商談が進む。
贔屓客ということは、その縁から次の縁を橋渡しされることもあり、機内で相席した関係で大きな仕事が進むことだってありうるわけで、機内はちょっとした社交場になることもあった。
そのキーパーソンとなっている客へ、ばしゃーーんと。
持っていた熱い飲み物のサーバーを頭から落としてしまったのは、訓練明けでしばらくたち、おしりに殻がついたひよこからひな鳥へ移行したばかりの秋良だった。
「気にせんでええよ」とにこにこと笑顔を見せる客を、ばったのように頭を下げてお見送りした後、控え室で。
先輩にこってり絞られた。
叱られるのは当然だ、先輩後輩という上下関係を伴う間柄だけでも緊張感を孕むのに、大失敗を演じてしまったのだから。
秋良に言い訳ができるはずもない。
申し訳ありません、としか言えなかった中、先輩は言う。
「他の職員に可愛がられているからって、少しばかりいい気になっているんじゃないの?」
そんなこと、ありません! と口答えできるわけもなく。ただ恐縮してうつむく秋良に、今日の失敗とはまったく絡まないあれこれやこれやが出てきて、話の収拾をつけるどころか終わりがまったく見えなくなり、ただの攻撃と中傷に終始しだした頃、居合わせた他のクルーからタオルが投げられた、「そこまでにしておきなさいな」と。
何に対して怒りを爆発させていたのかわからなくなった先輩は、捨て台詞を吐いてその場を去った。
「大切なお客様にやけどを負わせた上に、ひとり、いえ、多数失ったかもしれない、別の航空会社に移られたら、あなたのせいなんだから!」
落ち込んだ。
続々勤務から帰ってくるクルー達が自宅へ戻る仕度をする。
その様子をロッカールームのベンチで座って。動けないまま見送って。
ひとりきりになってうつむいていた。
「お掃除しますから」と清掃係がワゴンを引いて入って来て、帰るように促され、ようやく重い腰を上げた。
どうやって自宅の最寄り駅まで辿り着いたか覚えていない。後ろからごろごろと引いて歩くカートの重さもわからないくらいだった。
数日をかけて泊まりが続くフライトだった、お仕事が終わったらなるべく早く帰るわ、と言い置いて家を出たのに、お母さんが心配する、早く動いて、私。
思いはしたけれど駅のホームでもベンチに座って何度もため息をついていた。
夜の空気に身を震わせ、「おうちに、帰ろう」と口にして立った、改札口指して歩く。
そして……。
待っていたのは……。
「僕はね、水流添君。君を『あきら』と呼びたかった。昇格して、袖の線が増えてもまだお互いに独り者だったら、求婚しようと思っていた」
ぱっと反射的に振り返った先の五十嵐は視線を前のシートに定めたままだ。片側の口角だけあげて、苦い笑みを浮かべている。
「君は、自分に好意を寄せる異性の存在に気付けない女だ。僕の他にも同じように君を見つめる目があった事だろう、知ってたかい?」
「……いいえ」
「君は強欲だ。バブル時代の申し子なんだよ。欲しいものが欲しい人だ。その他では妥協できない、いらないんだよ」
「否定しません」つい、と五十嵐から視線を外し、秋良は言う。
「でも……」
「わかってる。君は自分に忠実で自分を殺すことが出来ない。そして僕もプライドが高い。同情されるくらいなら無視された方が耐えられる。君は、今、しあわせだろう? だって望みうる最上のものを手に入れたんだもの」
返す言葉がなかった
「あの長崎便の日。他のクルーから話を聞いて気にしていたけど僕も仕事があったから。明日元気づけようと思ってた。その日のシフトが終わって帰り支度をして外へ出たら。君が歩いているじゃないか。とても声をかけられる雰囲気じゃなかった。けど……放ってもおけなかった。少し離れたところから、後を追った。まるでストーカーだよ。着いた駅ではベンチに座ったまま動かない。何本も電車が来て、乗客が降りてきて、そのうち何人かが君を見ていたのにも気付いていない様子だった。次の電車が来ても動く気配がなかったら声をかけよう、肩を叩こうと何度も思って、電車をやりすごして。よし、と心を決めた時だ、君は立ち上がって改札を抜けた。後を追ったら、君は、あ、と声をあげて走り出した、その先には……別の男が待っていたよ。やたらと背が高くて、髪を女みたいに伸ばした奴だった、君は駆け寄った、おそらく奴の名を呼んで」
そう、あの日、改札のすぐそばの手すりに腰掛け、本を読んでいたのは慎一郎だった。
結婚する前の彼は長髪で有名だった。背中の中頃まで延ばしていた髪を無造作に流すに任せ、付箋紙だらけの本を小脇に何冊も抱えて。
ぱたん、と本を閉じながら彼は言った、「お帰り」と。
何故? と問うと彼は答えた、「君のお母さんが心配している。迎えに行ってこいとせっつかれた」と。
きっかけはどうでもよかった、いつ来るともわからない自分を駅の改札で待っていてくれた、それだけで嬉しかったのだ。
家までの道すがら、少女の頃、彼にまとわりついたようにらちもないことをたくさん話した。ただ彼は相槌をついて聞いてくれた。彼女があらかた語り尽くすまで遠回りをして……。
「奴の名前は覚えていない。確かなことは、あの日の夜、自分の片恋は終わったというだけのことさ。きっと君のいい人なんだ、諦めよう、と。……けど、どうしたことか、その後も君はひとりのまま。なのに君はあの男を追い続け、僕は君を見続けた。
人は望んだ未来を生きたければ、ただ待っているだけではだめだ。働きかける、振り向いてくれと語りかける。そして説得する。それでもダメなら……再挑戦するか諦める。人は愛する者のしあわせを願うというだろう? なら、僕程君を見続け、愛している男はいない」
背もたれに身を預ける五十嵐は続ける。
「僕の手で君をしあわせにしてやれなかったのは残念だった。だから……そんな顔して、ひとりで座っていてはだめだ。君をひとりきりにさせて平気でいられる家族や夫なら、僕は彼らから君を掠うよ。――どうなの。連れて行ってもいいのかい?」