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6/10

***** *

◇ ◇ ◇



ドリンクサービスが始まった頃、軽い睡魔に襲われた秋良は、あと一時間半で東京、と窓の外に視線を走らせながら小さく欠伸をした。


機内はほぼ満席で、行きで見たかなりの人数が乗客として搭乗していた。


客の顔と席をいちいちチェックして。こんなところまで職業病を発揮しなくても、と思いはしたが、気にするなという方が無理だ、だって目立ったのだから。一般乗客とは違った彼らはいわゆる航空ファンと呼ばれる人たちだ。今回の747・里帰りフライトではどれほどのファンが席を占めたことだろう。一種異様な空気を醸しているのだが……きっと彼らは気づいていまい。


いえいえ、お客様あっての航空会社。ファンこそ大切にしなくてはね。


……疲れるけど。


乗客をチェックしてしまうくらいだから、もちろん同業のアナウンスやサービス内容も気になってしまう。


往路と復路では座る席をわざとずらしたので、担当者が変わってくれることを期待した。


が……。


自分なら、同じ顔の乗客が復路にも乗っていたら見逃すことはない。きっとこの便の乗務員達も同様だろう。きっとチェックされている。


気にしないで、なるべく普通にしていればいいのよ。


そう、普通に……。


しかしながら、彼女の思惑は簡単に裏切られる。カートを引いて回ってくる担当者の顔には見覚えがあったからだ。


羽田空港に第二ターミナルが増設される前は第一ターミナルが国内線の窓口だった。


同じフロアに複数の航空会社が入り交じる姿は今では想像できないだろう。


もちろん、他社のクルーとも移動中に普通にすれ違っていた。お互い大きな会社、クルーの数も膨大だ。自社ですらやっとなのに、他社の全ての乗務員の顔まで覚えてなどいられるはずがない。


が、年数を重ね、すれ違う回数が増えれば話したことはなくても顔なじみはできてくる。


その、なじみだった一人が、秋良が座っていた席の担当だった。


まだお仕事、続けていたのね、と半分驚き、それはお互い様か、と思い直した。


おそらく彼女も同じ思いだったのだろう、目立たないように目配せしながら内心でサインを送り合う。



お久し振り。

あなたも。

また続けていたのね。

おかげさまで。



ドリンクのカップを受け取った時、秋良は伝えた、「お手すきの時に機内販売をお願いしたいのですけれど」


「かしこまりました」


相手は会釈をした。


子供に買い物を怒っておきながら、自分はいいの? 予定のない買い物は散財だ。どうしよう。特に欲しいものがあったわけではないけど……。


少しむっとした。今は家族のことは忘れたい。少しの間だけ。


それに買い物は女の華だわ。やらない手はないわよね。


前ポケットの機内販売誌を手にする。ぱらぱらとページをめくりはしたが、睡魔には勝てない。


秋良はこくりこくり、船を漕ぐ。


昨日、寝たつもりだけど妙に興奮して布団を被っていただけだものね。


明日こそ朝早いのに。せっかくのオフにバカなことしたわ、今日は帰ったら早く眠ろう。



そう、帰る家はひとつしかない。


でも、でも……



がくり、首が垂れた時だった。「お隣、空いていますか」と声をかけられたのは。


「どうぞ」


反射的に秋良は答えた。


どなたですか、と顔を確認するまでもない。この声は五十嵐だ。


空いているかどうか聞いておきながら、五十嵐は通路で立ったまま動かない。


小さく欠伸して、「失礼」と前置きして。秋良は訊く。


「そこで立ちんぼのままだと、他のお客様に迷惑だわ」


「ああ、その通りだね」


五十嵐は通路側の席に腰をかける。


「水流添君、君」


「はい?」


「口をぽかんと開けて寝る方かい?」


「あらやだ、開いてました?」


しらっと答えたけれど、内心、やってしまったと思う。あまり見た目が良くないから、なるべく自宅以外ではうたた寝もしないようにしていたのに。


「うん、開いてた。ちょっと……頂けないな」


「そうかしら」


「うん、無防備と言えば聞こえはいいけど、何と言うか、100年の恋も醒めかねないものがあるね」


その程度で愛想が尽きるような恋なら、さっさと醒めてしまえばよいのだ。


「失礼しました」ぺこりと頭を下げ、けどこう付け加えた。


「でも、眠っている時は気をつけようがないでしょ、そこを突かれてもどうすることもできません」


「お話中失礼致します、お客様」


ふたりの会話に割り込むのを詫びるように、客室乗務員が声をかける。つい先刻、機内販売を頼んだ彼女だ。


「おまたせしました、ご注文を承りますが」


「ああ、そう。お願いしますわ」


慌ただしく前ポケットからカタログを取り出し、ぱぱぱと指差していく。


勢いで買った品物は、嵩張ったり重かったりするものばかりで、ショッピングバッグにたっぷり2個分に相当した。


会計はもちろんクレジットカード。差し出して、あ、と思った、自社のマイレージも兼ねたカードだったからだ。使えないことはない、けれど、少し気がひけた。秋良も、そして対応する客室乗務員も苦笑した。


「ごめんなさい」とつい口にする秋良に、「いえ、使えますから大丈夫ですよ」と彼女は答える。


「残念ながら割引はできませんけれど」と付け加えるのを忘れずに。


「私の分、私の分、子供の分。私の分、私の分、これは旦那の分」上部のトランクに品物をしまう彼女を手伝いながら五十嵐は言う。


「何の話?」


「さっきの君の買い方」


「え?」


「まるで憂さ晴らしをしているようだったけど」


「そんなこと……ありません」


答えつつ、秋良は調子が狂った。


深く考えず指差したつもりだったけど……。


子供や夫の分まで買っていたですって?


そんなの。渡さなければ良いだけの話だわ。


むっと唇をひきしぼって。誰に知られるでもなく肩をすくめた。


「お客様」別の客室乗務員が秋良の隣に声をかける。今度は五十嵐に用があるらしい。


「五十嵐様……でいらっしゃいますか」


「ああ、そう。ごめんね、自分の席に座ってなくて」


いえ、と言う彼女の手には絵ハガキがあった。


「メッセージを預かって参りました」彼に差し出して言う。


機内では乗客の求めに応じてクルーがサインをすることがある。メモ帳やノートなど書く媒体は様々だ。特に希望がない時は搭乗機の写真を印刷した絵ハガキが使われる。


「お友達に頼んだんですの?」


「あはは、怒ってる、怒ってる」


ほら、と差し出された絵ハガキの裏面には、依頼主の名前と今日の日付、クルーのサインが並んでいる。ちらとのぞき見た書き文字はほぼ書き殴りに近かった。何客ぶって頼んでるんだ! と暗にほのめかしているようだ。


「あなたもお人が悪い。忙しいのはお互い様でしょうに」


「あげるよ。お子さんへの土産にするといい」


「いえ。だって五十嵐君の名前入りですのに。頂けませんわ」


「なら、新しく書いてもらえばいい。君! あと一枚、頼まれてくれるかな?」


君、と声をかけられた客室乗務員はメモを手にする。


「ご希望はありますか?」


「特には……」つい口ごもる秋良に、「いいじゃないの。確かお子さん、パイロット目指すんだって言ってなかった? 将来の後輩になるかもしれない少年に、何か夢を後押しする一言を書いてやれ、って伝えてくれる?」


一礼して去って行くCAの後ろ姿を見て、五十嵐は言う。


「今日何枚目のサインだろう。機長も大変だ」


「ご自身のことを仰っているのかしら」


「半分はね。わざわざCAの仕事の手を止めてまで頼んでくるんだ、ただの冷やかし以上のものがあると思うんだよね。中にはサイン帳を持ってくるコレクターもいるけど、それも彼らにとっては記録以上の意味を持つ。僕たちは最後の最後で顧客に接する立場にある。満足してもらえるかどうかのさじ加減は些細な事だったりするから。無事、何事もなく定時に出発して定時に到着できればいい時代は終わってるんだよね」


「管理職は大変ですわね」


「それはお互い様」


二人は小さく笑んだ。


同じ職場を支える同志だ。若い時代を共に歩んできた同僚であり仲間、彼と仕事のことで話していると共感を覚える。でも、それは仕事の話だけの話。


秋良がまだ若かった、小娘だった頃は、彼も青二才だったわけで、時代の空気も手伝い、今思い起こすと痛い思い出ばかりが想起される。


恐い物知らずだったころが懐かしい。


「少し、いいかな」


「ええ、どうぞ。さっきからお隣に座りっぱなしじゃありませんか」


「いや、そうなんだけど。少し、話をしてもいいかと」


お好きなように、と答えようとした時だった、すぐそばの座席から赤ん坊のけたたましい泣き声がしたのは。


乳児は気圧の変化に対応する術を持たない、泣き止まない時は大人ですら閉口する耳の痛みを訴えていることも多い。


行かなきゃ、と腰を浮かせそうになって、はっと思い直した。


いけない、私は一般の乗客。きっと担当のクルーが対応する。もし手に余るようだったらお手伝いすればいいんだわ、子育て経験者として。


案の定、秋良と会釈しあったCAが駆けつけ、他のクルーに細かく指示をする姿が見えた。


「お母さんだねえ」五十嵐は言う。「それとも職業病?」


「困っている人がいたらお手伝いしたいと願うのは自然な感情ですわ」


「そうだね、……からかいが過ぎた、ごめん」ふっと、目を細め、母子やCAがいる方を、いや、その向こう側を眺めた彼は思いだしたように言う。


「君は、子供連れの親子への対応に定評があるけど、僕も太鼓判を押す。気遣いが特に素晴らしい」


「見たことがあるように言いますのね」


「もちろん。君とは見事に同じクルーになったことはないけど、仕事ぶりを端から見かけた。乗務で他の空港へ向かう時だった。赤ん坊ばかり乗り合わせた便で、離陸前からギャン泣きしてる乳児がいた。僕は一番最後の乗客として空いた席に座ったけれど、ほぼ真後ろがその赤ん坊連れだった」


いつのことだろう、と秋良は記憶の引き出しを片っ端から開けて閉める。子供が泣いたり、パイロットが勤務地へ移動するケースなどごくありふれたこと。五十嵐とも度々顔を合わせている、いつのことかまったくわからない。


「母親は弱り切っていたし、つられて他の赤ん坊もぐずりだして機内の空気は険悪になりかけていたし、僕は制服を着ていたから、こちらをちらちら見る客もいるし。何か言った方がいいかなと思った中、もうすぐ飛び立つ直前まできめ細かい対応をしていたのは君だった。手際が見事だと思った、接遇のプロというより、母親の顔だった。自宅でも子供たちを同じようにあやしているんだろう、と。君の子供たちはしあわせだ」


顔を傾げ、視線を落とす彼の生え際に白い物が混じるのが見える。


もう、若くない。彼も私も。お互いに同じ年月だけ時は降り積もっているのだ。


「子供を産んだ女性は母にはなれるが、母親であり続けられるわけじゃない。大人は忙しい、時間はいくらあっても足らない。その限りある時間をやりくりして子育てをしている。普段の君の物腰からは柔らかさ以外感じない。きっと家庭内も夫婦仲も円満なのだろう、僕は君の夫が羨ましかった。何故……僕が君の隣に座れなかったのだろうと。逆恨みかもしれないけど」


五十嵐は秋良が結婚した後を追うように所帯を持ち、彼女とほぼ同時期に父親になった。親バカぶりを発揮したのに、数年後に離婚し、以後、独り者を通していた。かつて暮らしていた家族たちは今頃何をしているのか。彼はそのことに話が及ぶと口をつぐむ。個々のプライベートのことだから特に聞き出しはしないし、人の数だけ家族や生き方に違いがある。


しあわせの基準も。


「五十嵐君」何を、と言いかけ、止めた。


彼からはしきりに「付き合わないかい?」と問われ続け、いつしかそれが軽口以上のものに変わったのに気づいていたのだ。副操縦士になった時も、線が増えて四本線、つまり機長になった時も嬉々として見せに来た彼へ対する秋良からの返答はいつも。


「良かったわね、それが?」


だった。


しょげていた姿が微笑ましくも懐かしい。五十嵐に限らず、誰に対しても対応は同じ。今思えばしょげた五十嵐の姿は異質だった。


どうしてそう残念そうな顔をするの? と不思議だった。


けれど、自分に問う。意識してのことだったの、と。そうしなければいけない気がしたのは、同期の仲良しさんの関係を崩したくなかったの。


「私、思い出しましたの」


彼が出発前に問うたことを引き合いに出す。


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