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秋良は世間一般で言うところのバブル世代だ。
日本が未曾有の好景気に湧き、踊りまくっていた頃に就職をした。いろいろと華やかで楽しい時代だった。彼女も時代の申し子として青春を謳歌した。
特に同期入社した者とはよく遊んだ。五十嵐も遊び仲間の一人だった。皆、浮かれていた。恋に遊びに夢中だった。
もっとも、秋良は恋だけは門外漢。友人達に任せていたが。
「僕と付き合わない?」五十嵐はよく言った。
「お生憎様。足りてますわ」秋良は毎回そう答えた。
というのも、五十嵐は少し調子が良く、人当たりも良かったので女子に人気が高く、挨拶代わりに「付き合ってよ」と言う方だったからだ。
今ではセクハラギリギリと捉えられても仕方がない軽さ。時代のひとこまだ。
五十嵐や秋良、同期の皆それぞれがライフステージの移行に伴い、仲間で集う時代から自分達の人生を歩む時代へシフトすると、自然と遊び仲間は解散した。
子育てが一段落したら、仕事が落ち着いたら、親の介護や家のことが片付いたら。集えない理由は時が移るにつれ変わっていく、最近では定年間近になったら同窓会をしようと言い合っている。同僚と呼べなくなったり、消息がたどれない者も中にはいるが、時候の挨拶を交わす間柄は続いている。それでいいではないか、と思っている。
『みず・あきら』あるいは『とっちらかしの秋良』とは、彼女が客室乗務員の訓練に入って間もない頃についた渾名だ。まるでタレントやお笑い芸人の芸名みたいで、いやだわ! とふくれたが、半分以上は当たっていて、ついても仕方がない有様だった。
今でこそベテランと崇め奉られてはいるが、新人だった頃は散々だった。とにかくよくとちった。
特に水難の相が出ていますよ、と言われかねないくらいに飲み物を扱う場面で災難によく遭った。
「名字に水がつくとはいえ。そこまで仲良くならなくてもいいものだが。ねえ、君」とは、あるフライトでチームを組んだ、初老のベテランチーフパーサーの言。
何とも申し上げようもございません、と床にひっくり返した水を拭きながら恐縮する彼女だった。
先輩から叱責を受けることもしばしば。洒落にならない失敗もし、落ち込んでなかなか浮上できず、控え室のベンチに座ったまま動けない夜もあった。
そんな時代は少々続く。が、どんなにダメダメな新人も、いつかは中堅となり、後輩を従えるようになる。
気がついたら同期は寿退社で会社を辞め、あるいは結婚を機に現場を退き、違う部署へ異動した。
かつて彼女を嘆かせたチーフパーサーに限りなく近い立場になった時には三十路が目前に控えていた。
その頃だ、高遠慎一郎の元へ嫁いだのは。
平成25年現在、男女ともに平均的初婚年齢は男性は30歳、女性はほぼ29歳なのだが、バブル世代は25歳前後で寿退社が当たり前、秋良は晩婚に入る。しかも結婚しても仕事を続けた。同期の友人達のように寿退社とは無縁だった。もちろん客室乗務員の仕事が好きだったから退職という選択肢は考えられなかった。出産後も復帰した。彼女の世代では、就職は腰掛け、大半は結婚を機に会社を辞める。共働きをしたとしても、出産を契機に家庭に入る女性が一般的だ。
結婚してあと少しで20年を数え、高校生の長男を頭に次男三男と三人の子供を産みつつ、未だに現職であり続ける彼女は少し……いや、珍獣クラスの存在だ。
家庭と仕事の両立はなぜか女性に重くのしかかる問題で、子育てしつつ現職バリバリは家族の協力なくしてなしえないこと。30,40歳台は男性もキャリア形成で必至のお年頃、大半は夫の理解を得られず自分のキャリアを諦める。が、彼女はその点で恵まれていた。目と鼻の先にある実家と理解ある夫なくして今の彼女はありえなかっただろう。
結婚から数えての20年間足らずの年月はあっという間に過ぎていった。
夫との馴れ初めは幼稚園の頃。
当時、慎一郎は高校生。
一回り近く離れた、うんと年上のお兄さんに彼女は魅了された。
おませさんだったわけではない、けれど彼女の瞳は慎一郎に一心に注がれ、彼以外の異性には心惹かれなかった。
彼女の理想の相手は、惚れた欲目を抜きにしても他の女性にも好ましく映る存在だったから、想いが届かない日々に涙を流したこともあった。
けれど、ふたりは結ばれた、嬉しかった。
初恋は実を結ばないものと世間一般では言われているが、彼女は見事に結実させた。
しあわせだった。
結婚、出産、育休を終えて職場復帰して日が浅い頃だ。指に光る結婚指輪を見た同僚は言う。
「秋良はいいわよね」
乗務が終わり、クルー全員で反省会であるデブリーフィングに向かう途上だった。
唐突な投げ掛けに、相手の意図がわからず、ただ見つめるだけだったから、相当間抜けた顔だったのは間違いないのだが、かえって相手を怒らせることになった。
「恋もキャリアも結婚も子供も、全て手に入れて! 思うまま全部叶って本望でしょう!」
そんなことないわ。いろいろと大変なのよ、とつい口に上りそうになった彼女の言葉は出ずじまいだった。
脇を小突いた人がこう耳打ちしたからだ、「彼女、恋人と別れたところだから。荒れてるだけなのよ、相手にしないほうがいいわ」と。
デブリーフィング先では粛々とその日の反省会が行われたが、解散をした時の後味は良くなかった。
気にしない方がいい、あの子も冷静になったら落ち着くだろうから、と複数のクルーに口々に声をかけられたけれど、そのうちの一人がこう言ったからだ。
「彼女が毒づくのもわかる気がする。だってその通りだものね、初恋が成就してめでたしめでたしだけでもめっけものなのに、出産後に職場復帰できて、ご主人も協力的なんでしょ。できすぎだもの。羨まれても仕方ないわ」
皆、一様に首を縦に振っていた。
秋良は考え込む、まったく同じことを母からも言われた所だったからだ。
「あなたは強欲だから。ほどほどに収めることを覚えないと。旦那に愛想尽かされてもしらないわよ」
わからない。
家庭を持ち、末を拡げ、添い遂げるのが人としてのつとめなのだとしたら、どうでもいい相手よりは望んで望まれた人の方がいいではないか。
仕事だってそうだ、まぐれあたりで就ける程、客室乗務員のハードルは低くない。仕事に愛着を持ち、末永く続けたいと願い、それが受け入れられたのだからさらにがんばることのどこが悪いのか。
出産後の職場復帰も会社と夫の理解があって初めてできたことだけれど、それぞれと話し合い、納得した結果が今だ。
無邪気に願ったものが努力もせず天からふってきたわけではないのだ。始めることより続けることの方が何倍も難しい。けれどその大変さを他人に理解してもらうのは難しい。
いや、同年代の大人がそれぞれの責務を果たす上で当然のこと。仕事も家庭も子育ても、特別なことではない。人や家庭の数だけ事情は異なる。大変だと言ってはいけないのだ。皆もやっていること。それはわかってる。
けれど、秋良は事あるごとに羨ましがられた。少しばかり疲れることだ。
日々の暮らしに追われながらも次男が産まれ、三男が出来、見事に男の子ばかり三人に囲まれ、ただでさえ手が掛かるやんちゃ盛りの時期を乗り越えて落ち着いた頃だった。
ふと口にしていた。
「私、女の子が欲しかったわ」
実家の居間で、母とふたり。茶を飲んでいた時だった。
はあ? と母は問い返す。
「三人も産んでいながら。まだ足りないの? まさかもうひとり産むとか言うんじゃないでしょうね。慎一郎君もあなたももう若くないのよ!」
「まさか」秋良は一笑に付す。
「本気に取らないでくれる? いえね、裕のところの娘が大きくなってきたでしょう、ふたりで歩いているところを見るとね、ああ、女の子っていいなあ、かわいいなあ、って思っただけのこと」
「そうねえ」母はそこは同意する。
「男の子は結婚した相手次第で変わるけど、女の子は嫁いだ後も母親についてくれるものね。私だって秋良がこうして遊びに来てくれるし? 妹の加奈江のところも子供が女の子でしょ。娘の裕だって産んだのが愛美で娘。そりゃ母親としては女の子がいてくれた方が何かあったときも安心できるわ」
「でしょ?」
「でもね!」母は難しい顔をして娘をにらむ。
「こればかりは天からの授かりものだから。あなたのところは男の子だけがもたらされたということよ、それとも何? 息子たちが嫌いとかそういうこと言い出すんじゃないでしょうね」
「そんなことないわよ。ばかばかしい」
「わからないからね、秋良は」
「そう?」
「ええ、そう。あれもこれも欲しがってきりがないもの。昔からあなたは欲張りだったから」
また言われた。
強欲だとか、欲張りだとか。
茶飲み話に花を咲かせながら、内心穏やかではない。
女の欲にはきりがない。もっともっとと次をねだるとは良く言われることだ。
私もそうなのかしら。
自分を高めたい、更なる上を目指したい、洗練されたい、責任を果たしたい。
人から求められる自分を常に提供し続けたい。
終わりがないと言われる接客業に就いているのだから、貪欲になっても許されると思ってはみてもそれは仕事に限ったことなのだろうか。
わからない。
好きな人と結ばれてしあわせに暮らしました、めでたしめでたし、は、童話の世界で使い古された結末だ。
おとぎ話はそこで終わる。
現実はそこから始まる。
40を過ぎ、干支を四巡し、子育ても一段落ついた頃に子供たちと夫がそれぞれの将来像を語り出した。
私は。
語るべき未来がないのだろうか。
やっと築いた一家5人の姿はかりそめで、あっという間に崩れてしまうなんて。
嫁いだ頃は想像もできなかった。
子が巣立った後の未来像を築けないでいる、自分に、彼女は焦りを感じていた。
その最中に、起きたこと。
きっかけは次男が買い求めた本を夫が知らせてくれなかったこと。
とても些細な出来事だったけれど、胸の内でぐるぐる廻る焦りと怒りの波は簡単に収まってはくれなかったのだ。