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「そうよ」冷ややかに、秋良は肯定する。
長男がさらに慌て、三男が長男の影に隠れ、口元をへの字に曲げていた次男は静かな母に気圧されている。
秋良は続けた。
「高温期で更年期なのよ。それがどうしたの」
はあーとため息と共にぼつりとこぼした。
「男の子のあなたにわかるわけないわよねえ」
「男で産まれちまったもんは仕方ねえだろ、それとも何か、俺が女だったら良かったって言うのか?」
「双葉、それ、言い分として変」長男が何とかタオルを投げようと必死になっている。
「だって、男だからわかんないって言ってるの母ちゃんの方だし!」
「双葉が女の子になっちゃえばいいんだ」三先は援護射撃にならない爆弾を投げた。
「バカかお前! 三先こそお似合いだろう! 声でいつも女子に間違われてるくせに!」
「うわー、気にしてるのに。それ、僕気にしてるのに―!」
「顔も女顔だし。三先なら素のままで女子で通るかもな」
「一馬、ナイス!」
「一馬、ひどいーー。あんまりだー」
「今度女装してみろよ」
「いやだよう、本気でさせようとしてるでしょ!」
夫はくるりと背を向けた。肩が小刻みに震えている。わははと笑い出すのを懸命に堪えているのだ。
ぶちり!
秋良の中で、綱が切れる音がした。
笑うの?
ここは、笑う場面なの?
もう知らない!
どーん! と鈍い音がして、一人を除いた皆が一様に床を見る。
振りかえった夫が見たものは、母親にぶん投げられてしまった次男が大の字で横たわっている姿だった。
「男の子なんて、産むんじゃなかったわ」秋良は暗い声でつぶやいた。
「……んだよ、それ!」腰をさすりながら身を起こし叫ぶ双葉は、少し傷付いた顔をしていた。
けど、かまうこっちゃなかった。
秋良は、つん! と顎をそびやかし、足音荒く居間から飛び出し、寝室のドアを、ばあん! と思いっきり強く閉めて、ベッドに直行し、布団を頭からがばっと被った。
コンコンと、ドアをノックする音がする、おかあさーん、と幼い声が自分を呼んでいる。
「ぼくー、女の子になれないけどー、なれるように努力するからあ」三先だ。
「バカか、お前。女の子になってどうするんだよ」一馬が呆れて言う。
「うーん、わかんないー、だけどさあ」
おかあさーん、と呼ぶ、三男の声が痛い。
けど、起き上がる気にはなれなかった。
一言二言、夫が子供たちに何か言っている声がする。ぱたぱたと足音が遠ざかる、きっと中には次男の双葉も入っているのだろう。
だけど、それが何か?
夕飯の時間になった、ご飯だよう、と呼びに来る声にも答えず、何か食べる? とそわそわしている声も無視して。静かに、きわめて静かに食事をする音を耳にしながら、秋良は入ったままの姿勢で布団の中で丸くなった。
食器を片付ける音の中、小さく2度、ノックして入ってきた夫が声をかける、「秋良」と。
知らんぷりをした。
小さくため息をついた慎一郎は、彼女の肩の辺りを撫で、「ゆっくりおやすみ」と言った。
返事はしなかった。
男の子三人に父親と、4人の人間がいるとは思えない静けさで夜は更け、うとうとしたところで目が覚めた。
夜中の2時だった。
ベッドの隣には夫が、くうくうと寝息を立てて眠っている。
朝の2時に起きてしまうのは職業病のようなもので、朝早い便のシフトが入っている時は自然とこの時間が起床時間となってしまう。
隣に人が寝ているのにも気づかないし、隣も目が覚めないのもお互いが長年の習慣で身につけたことだ。
朝とは言えない時間に起き、電車も動かない時間帯に出勤したかと思えば、終電がなくなった頃に帰ってくることもある仕事についている者がパートナーだと、いちいち起きたり気にしたりはしなくなる。それぞれ自分の時間で寝起きできるようになるわけだ。
部屋を別々に、あるいは寝台を分ければ簡単に解決がつくことではあるけど、結婚した時に決めていた。何があっても寝所だけは分けない、ひとつの寝台で寝むことを決めたのだから、ある程度は慣れていかないとやっていけない。そして人はその気になれば無理と思われることも習慣にできてしまう。
今日も夫は夢の国の人となっていて、簡単に目覚めそうもない。
いつもはありがたく思うこの寝の深さも、どこか恨めしく。
秋良はそろりとベッドから降りた。
着替えることなく普段着のままで寝たわけだから、服はしわだらけだ。
ぺたぺたと部屋を横切り、下へ降り。居間のMacの電源を入れた。
自宅はMacを使っている。実際、アカデミックな世界ではMacを使う人がそれとなく多いらしいのだが、これは完璧夫の趣味でそろえたもの。
windowsよりハード本体の価格が高く、値引きもなく、互換性もいまひとつ。会社で見慣れているwindowsを一台入れて欲しいと頼んでも却下された。
自宅では好きなものを使わせてくれと言って。
ねえ、慎一郎さん。知ってた? Mac、高いのよ。使えるソフトも数ないのよ。わかってるの?
使いやすいと言ってはくれたけど、この使いやすさとやらはやっかいで、最終的には慣れが左右する。実際どちらが良いか、使いやすさで優れているかどうかもわからないし、ぱっと見た目だけ重視しているとしか思えない。
暗闇の中、銀地に浮かぶ白いリンゴマークがほんのり浮かんでいた。
そこから先は実はよく覚えていない。
気がついたら羽田空港の、青が基調のターミナルに立っていた。
財布には週末に銀行から下ろしたばかりの現金を詰め、クレジットカードもしっかり持って。
搭乗口から乗客たちの波に乗って、長崎行きの便に乗っていた。
家族に書き置きもせず飛び出したことに気づいたのは離陸した直後。大きく旋回する747の機内でのことだった。
◇ ◇ ◇
隣に五十嵐を置いて、秋良は変な格好をしてないかしら、と、横目でぱぱぱとチェックをした。
大丈夫、完璧だ。
服と髪型とメイクに乱れがないのは、もう、職業病としか言いようがない。出先では何があっても見苦しくない身だしなみで人前に出る。出なければならない。
ほっとした。
長年にわたり身に染みついたものだ、彼女は無意識の内であっても崩れた自分を表に出すことができない。
食事も昨晩からとってない。けど、長時間不規則で食べられないことも当たり前。半日ぐらいどうということはない。
無意識であっても回りの目を気にしている。明日を考えて行動してしまう。
別に……選んだわけではないのよ、行き先はどこでもよかったのだけど……。
でも明日にそなえて今日中に東京へ帰らないといけなかったし。夕方になればなるほど席が空いてなかったし……
朝、空港で衝動的に飛び乗った便、勢い100%のことではあったけど、ちゃっかり帰りの予約も入れていた。そこは抜かりがない。
そして無意識とはおそろしい、他社便を選んだのは、自社便だと知り合いが誰かしらいるから避けたのだ。
この、自分の如際のなさがいやになる。
おかげで、かえって目立ち、まさか同期の同僚で、寄りによって五十嵐と鉢合わせすることになってしまうとは。
世の中、広いようで狭い。この業界は特に。
「わざわざこっちの便を選んでのご搭乗、しかもトンボ帰りとはね。何? かつての職場が懐かしくなって乗ってみたとかそういうのではないのかい。もしかしたら、里帰り便に盛り上がるファンと同じクチ?」
「違います。あなたこそどうですの?」
「たまたま本当に長崎に用があったから来ただけ。そしたら今日限定で747が来るというだろう。同級生に長崎出身の友人がいるからまさかと思ったらドンピシャで。奴が動かすと聞いたら尚更、知らん顔はできない。大急ぎで空いた席を予約したの。……ほら、話をしていたら今言った彼が来たよ」
ふたりが視線を向けた先には、四本線の肩章をつけたパイロットが乗客の間を縫ってゲートさしてくる。入り口を抜ける際、すれ違い様に五十嵐は彼へ目線でサインを送った。
「いいなあ、僕はとうとう747とは縁がなかったから。一度でいいから操縦桿を握ってみたかった」五十嵐はつぶやく。
「そうでした?」
「うん。三名体勢で運行してた頃からだから。どんどん実機が減って売っぱらわれてただろ。なくなるのは時間の問題で、もう乗れないのかと焦ってた頃、やっと訓練の機会が巡ってきたのに、前倒しで退役が決まって訓練の話も流れた。この時はさすがに、『いつかはジャンボ』の夢が潰えたと落ち込んだ。憧れを逃す悔しさを教えてくれたよ。さっきもこいつが到着した所を送迎デッキで見ていたら、あの悔しさを思い出したさ。搭乗機が放水アーチを浴びる機会は滅多にない。操縦席から見るのは尚更だよ。悔しさプラス羨ましさ1000倍、ってところかなあ。そういえば、水流添君」
「はい?」
「長崎。覚えてるかい?」
「覚えているって……何をですの?」
「思い出さない?」
「何も?」
「『みず あきら』君、それはないよ」
がっかりした声を上げるので。つい振り返ると、苦笑に近い笑みを浮かべた五十嵐が、真っ直ぐに彼女を見つめている。
長崎……。
何があったかしら。
記憶の箱をいくつかほじって開けた時だった、優先搭乗の受付を告げる場内アナウンスが流れたのは。
「やっと番が回ってきた。僕は行くけど、君は?」
「私はかなり後になりそうですわ」
「そう。じゃ。また後で話そう」
飛行機はてんでばらばら好き勝手に乗れるわけではない。
まずは子連れや介助が必要な人、次に優良顧客、その次が上位シートの乗客。その後にやっと一般乗客が後ろの席から順繰りに乗り込んで行く。
片手をあげて乗り込む五十嵐は、つまり上位の席を取ったということだ。前後に気兼ねせず傾けられる大きなシートと広い通路の快適さは一度味わうと普通席にはなかなか戻れない。五十嵐ぐらいの人間になると、躊躇なく出せてしまうチケットだ。
秋良が取った席は一般席の前よりだった。お呼びがかかるのは一番最後。
私の番はいつ回ってくるかしら、と流れていく人の群れを見ながら、あ、と思った。
思い出した。
五十嵐が、覚えているかと言ったこと。
長崎。
どうして忘れていたのかしら、今の今まで思い出さなかったのかしら。
秋良は何度も何度も訪れては発った搭乗ロビーを端から端まで見渡していた。