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***

昨晩のことだ。


「双葉! これは何?」次男を呼ぶ秋良の手には、インターネットの本屋さんとして名高い、amazonの段ボール箱があった。受取人名は次男である双葉(双葉)。未開封の箱はずっしりと重い。


自分の部屋から居間にやってきた息子は、何? と誰何すると同時に、母の手にある箱に飛びつき、あっというまに開封してしまった。中身の本を見るなり、興奮し、ページをめくり、すげー! と連呼している。


それは、大変分厚い、白いカバーの大型書籍だった。シンプルなデザインの書名は『747の操縦』とある。


何、何―? と次男の声に誘われて三男の三先みさきが来、ソファーでスマートフォンを操作していた長男の一馬も顔を上げた。


「どうしたの、その本」


「買った」ぽんと即答する息子へ、秋良は言う、「お母さんは聞いてませんよ」


「うん。父さんに買ってもらった」顔も上げず本に集中している双葉は答える。


「いつのことなの」


「えっと、おとといかな」


「知りませんよ」


母の声に棘が混ざるのを察知した長男は次男をつつくが、つつかれた方はまったく意に返さない。ひょいと弟の手から本を取り、ひと目見たなり、「……わからん……」と一馬はうめく。


「お前、何書いてあるかわかるのか?」


「わかんねえよ」双葉は兄から本を取り返そうとするが、「一馬」と母に声をかけられ、弟ではなく母の手に本をゆだねた。


ずしりと重い本の中身は、書籍のタイトル通り、航空機を操縦するマニュアルに近い内容で、一般人には無用の長物、おそらく理解できるのは同業者か相当なマニアぐらいだろう。当然ながら中学生の子供が読んで理解できるはずもない。


そして、内容の難解さもさることながら、書籍の価格が半端なかった。


「いちまんえん!」秋良は叫ぶ。


「いちまんえん???」一馬と三先も母にならった。


「高すぎないか、それ」と一馬は即答し、「一万もする本なんて、初めて見た―」と三先も目を丸くする。


「お小遣いより高い買い物、許すはずないでしょう!」秋良は言う。


高遠家では子供たちの金銭の使い道にはとても厳しい。


これは主に母の意向が反映されている。


彼らの父は、どこか浮き世離れしたところがあり、それは金銭感覚にも反映されている。つまり、子供の頃からお金に困ったことがない良いところのボンボンで、庶民感覚では理解しがたい買い物をぽんとしてしまう。金遣いが荒くないのはありがたいが、そのありがたみが帳消しになることもままあった。


かくいう秋良も、少しばかり良い暮らしができる家庭の出身だ。中の上、あるいはかぎりなく上に近いといった辺り。仕事も対外的には派手と見られかねない客室乗務員だ。その、派手な同僚に染まらないように極力節制を続けてきたおかげで、質素に地味に、けど質は高い生活をしてきた。これは単に彼女の母のおかげと言わねばならない。していい贅沢と悪い贅沢にはとても厳しく、母の目を盗んだ買い物はまったくできなかった。


つまり、秋良は吝嗇とは言わないまでも夫や自分の職業にしては珍しく慎ましい生活をしてきたわけだが、これは彼女の努力によるところが大きい。夫の金銭感覚と自身とのギャップに頭を痛め、結婚前には気づかなかったことでもあったけどこれからは許しません! と散々言い続け、介入し続けたおかげで夫のそれはかなり彼女に近づいてきた。


けれど時折、バケツの底が抜けたような散財をしてくれるので、ちまちまとした節約貯金はあっという間に使い果たされる。

人間、幼少時に培われた金銭感覚は簡単に矯正できないのだ……。


彼女は夫に懇々と散財をいましめる説教をし、夫は殊勝な顔をして聞き、気をつけると言いはするが、振り出しに戻ることに変わりはない。


自宅に車がないのはありがたかった。夫は車だけは興味を示さなかった。常々、乗用車を所有するメリットがないと言ってたからだ。交通の便がとても良い所に家があったのもありがたかった。もし、趣味が車だったらどうなっていたことやら。誇張でも何でもなく、ろくに乗りもせず車を買い換え、持てる限りの車を所有し、あちこちにガレージを建てて借りていたかもしれない。


つまり、夫のような金遣いを子供もしてくれたら我が家はあっという間に破産してしまうというわけだ。しかも息子は三人いる。


彼女は夫に口を酸っぱくして訴える。


子供に充分な教育をし、私たちの老後にも備えなければならないのですから! 蓄えはとても大切。蓄える重要性を教えるのも大切。与えられた小遣いの範囲で工夫して遣うのを教えるのもとても大切なんですから!


自分のことは棚に上げ、妻の言い分には諸手を挙げて賛成する夫は、子供たちに物を買い与えるにあたり、夫婦で取り決めをした。


お小遣いは今時の常識にはあわせず、『余所は余所、うちはうち』を通し、子供たちに納得させること。


欲しがる物を何でもかんでも買い与えないこと。ただ、全てを拒否するのではなく、子供たちの求めに応じて柔軟に対応すること。


その際の金額は、月々のお小遣いの範囲内に止めさせるようにすること、予算を超えてしまう時は必要度に応じて考えること。


何を買うかは夫婦双方の同意を持ってして行うこと。


つまり、子供の持ち物を親が知らずの内に買わせることは断じて許さない、未成年の学生のうちは! というわけなので、双葉の買い物を秋良が知らない状態は起きてはならないことなのだった。


「えー、だってー」双葉は口を尖らせる。


「父ちゃんいいって言ったし」


「お母さんは聞いていません」


「だって。早く買わないと売り切れそうだったし」


「理由になりません。一万円もする書籍が簡単になくなるはずないでしょう」


「違う違う、安く出てたの。実際の値段は3500円なんだ」


ほらほら、と双葉は明細をかざした。


確かに、請求額は3500円とある。


「元値一万円の本が送料込みで3500円なんて、安すぎると思わね? しかも状態が新品並みだし! amazonから出た在庫だし、未読品! 破格でしょ」


「子供が、安いだのなんだのと。言うものじゃありません!」


「頭固いなあ、母ちゃんは」


双葉の一言にかちんと来たその時、夫、慎一郎が帰って来た。


妻と次男に一冊の本のことで詰め寄られた慎一郎は「あ」と呆けた顔をし、次に「すっかり言い忘れてた」と頭をかいて言った。


「双葉から相談されて買ってやった。自分が志望する職業の一端を覗く機会にもなろうし。せっかく本人もやる気になっているのだから、無駄にはならないだろうと」


「それにしても! いくら値引きされていても双葉のお小遣いより高い本ですよ?」


次男の小遣いは月額3150円だ。本来3000円のところ、消費税分5%を認めてくれ! と涙ぐましく訴える次男の言い分を認めた。次男が通るなら長男、三男もというわけで、息子たちの小遣いはそれぞれ消費税分上積みされることになった。来年、税率が上がったらプラス3%の加算になるわけだ。


「私、伺ってましたかしら」


「昨日今日のことだったから、言い忘れていたんだ。ごめん、現物が届いた時に君に話そうと」


親が確認するまえに開封してはいけないだろう、と双葉に小言を言うが、まったく小言になっていない。


はあーい、と気のない返事をして、顔をしかめた双葉は愚痴る。


「もういいじゃないか、うちぐらいだよ。中学にもなって買い物ひとつでねちねち言われてるのは!」


「口答えするんじゃありません!」秋良はさらにかちんと来る。最近双葉は扱いにくい。屁理屈だけは一人前なんだから! 母は負けじと言った。


「余所は余所、うちはうちといつも言ってるでしょう?」


「うるせえなあ」双葉は少し憤る。


「母ちゃん、融通がきかないんだよ。高温期じゃねえの?」


秋良は目を丸くして次男を凝視した。


母子の応酬を見守っていた夫は目を線にし、三男がぽかんとしている顔が視界の際に入ってくる。


「ち、違っ! 双葉それ違う!」長男が慌てて手を左右にぶんぶん振る。


「あ、そうか」ぽんと手を打った双葉は続けた、「更年期だ!」


あーあ、と一馬は額を手で押さえた。


「ねー、こーねんき、って、何?」三先は無邪気に問う。


「お前は知らなくていいんだ!」


「えー、どうしてだよう」


長兄から良い咎められ、三男が口を尖らせたその時。


ぷ、と吹き出す声がした。


「すまん」口元を覆っているのは。夫だ。


一瞬、居間の時が止まった。


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