第7話 変身*旅行*……からの再会?
修学旅行前日も午前中のみとは言え、授業がある。……って当然か。
けれど先程とある衝撃的事実を知った自分は無意識の内に鼻歌を口遊んでしまうくらい浮き足立っていた。
だって、だって……!
本田の素顔が本邦初公開された時の衝撃と言ったら!!
例の如く本田が分厚い書籍を重ねてフラフラと廊下を歩いていた昼休みの事だ。
唐突に教室から出て来た男子生徒と丁度教室に入ろうとしていた本田が正面衝突し、一体どんな作用が働いたのか、眼鏡が吹っ飛んでいったのだ。何処の少女漫画だと内心で吹き出した。普通、眼鏡ってぶつかってもなかなか落ちないでしょうに。しかもそれでまた「メガネ、メガネ……」とか呟きながら見当違いな場所を探し出すのだから、彼女にはきっとテンプレ的な何かが憑いているのかもしれない。悟りが一つ開けた瞬間だ。
散乱した本はぶつかった生徒が集めていたから、その現場に居合わせてしまった自分は本田の眼鏡を拾ってあげる事にした。
そこで自分は目撃したのだ!
「いやー、吃驚したな。眼鏡を取ったら美少女ってマジでいたんだから」
「誰に語り掛けているんだ?」
元希さんに胡乱気な視線を向けられてるみたいだけど、今の自分は気にならない。何故なら最後の授業が終わればお楽しみが待っているからね!
本田まりあという女生徒が瓶底眼鏡をしているというのは前にも話したと思う。黒髪パッツンで丸眼鏡。奨学生らしいと言えばらしい格好だと思うが、父親一人で弟と彼女の学費を稼ぐ生活は厳しいらしく、従って将来有望な弟の為に彼女はお洒落も娯楽も切り捨てているんだとか。
でもな。
だからって父親の書斎から盗み出した、何時の時代かも判らないような他人の眼鏡はイカン!
自分に合った眼鏡は必要経費だと思うぞ!
と声を大にして言いたい。そんで自分は思ったワケよ。
元は良いし、興味がない訳じゃない。ならば自分が飾り立ててみたいなと。
斯くして私佐倉涼と三原、裕樹の三名(「眼鏡を取ったら実は……」事件の数少ない証人達だ)による、まりあ嬢改造計画が始動したのである。ちなみに元希と裕也は生徒会の仕事で欠席だ、無念。
古典の授業が終わり、生徒達は解放される。
ガタガタと椅子が床を叩き、あっという間に騒音が教室内に溢れた、――その直後。
「まりあ嬢、確保ォォォー!!」
「ひゃいっ! え、何なに!? 裕樹君!?」
早速帰寮しようとした本田を裕樹が文字通り取っ捕まえて、百万ドルの笑顔(但し悪戯めいている所為で本田は半狂乱だ、可哀想に)が炸裂。行動が早いな。
「涼っ! オレ達は一足先に校門前で待ってるぜーぃ☆」
「え、え? ままま待って何、どうし……っひょわ!? あ、足疾過ぎるよおおぉぉ!?」
……アーメン。
「流石、特攻隊長。見事な猪突猛進だ」
クラス中が呆気に取られていたけど、自分は何も悪くない筈だ、うん。多分。
「裕樹に確保を任せたのがそもそもの間違いだと思うけど」
「いやいや、まさかあんな豪快に」
「拉致するとは思わなかった? 君が? 本当に?」
「……」
すみません、ちょっとは思いました。
んまァね!
そんな些細なアクシデントは横に置いといてさ。楽しいお買い物の時間にしようじゃないか。
「あの、涼君……? なんで私、こんな所にいるの? それにこの車、何処に向かってるの?」
「着けば解るよ」
本田の疑問は当然だろう。なんせ自分達が居るのは車の中だ。自分は車を持っていないし三原も動かせないというから、今回は裕樹の御家に車を出してもらった。運転手付き。セレブ万歳、ゴチになります。
体格的に自分が助手席に座らせてもらって。三原と裕樹に挟まれた本田がとても居心地悪そうなのを横目で眺めてる。
一番最初の目的地には、十分と経たずに到着した。
「……眼科……?」
「そうだよ。じゃ、行ってらっしゃい」
「怖くないからなー!」
「え、私が? え? 行くの? なんっ、でえぇー?」
まだ理解が追い付いてない本田を診察室に押し込めて男三人は待合室へ。
「さて、諸君。作戦会議を始めよう」
議長は自分です。
「次は……美容院だっけ? やっぱり本人の意見なしにバッサリ行くのはどうかと思うから、整えるくらいでいいんじゃない?」
「じゃあパーマなら大丈夫っしょ! 放って置けば落ちるし、髪の長さも変わらないからモーマンタイ! 染めたり脱色したりする訳じゃないから髪もそんなに傷まないしさー」
なんだか裕樹が珍しくマトモな意見を出してる。
悪ノリかと思えば真剣にノリノリなんだな。知らんかった。
「涼、美容院の予約はしてあるよな?」
「ああ、元希の恋人が利用してるトコ紹介してもらった」
「恋人……綾乃さんの事か。あ、ちなみに恋人じゃなくて婚約者だから」
「そうなんだ?」
恋人と婚約者はどう違うのだろう。
婚約者の方が恋人より将来を誓い合った仲で深くて親密な関係なんだから、恋人程度と間違えんなボケェ! って事かしら。分からん。
「まりあ嬢って小柄だからやっぱフワフワした感じかなぁ。オレはゆるーくウェーブしてるぐらいでいいと思うな。あんまり細かいのをキツク掛けるのはオバサンっぽくてヤダし。涼はどう思うー?」
「そうだな。折角綺麗な直毛だから、全体の真ん中くらいからふんわりウェーブとか」
「いいかも。一つに括るのも簡単そう」
髪型は決定、と。
んじゃ、次のお題は――。
「よし、肝心の服装を考えるか。なぁ、本田さんの私服ってどんな感じか分かる? 前回の修学旅行で私服の時とかどうだった?」
と問えば、
「分かんねー」
と即行で裕樹が会議を放棄。ちょっとは思い出す努力をしようぜ!
「ちょっと待って。今思い出すから」
頼むぜ、三原。お前しかいないんだ!
暫く宙を睨んでいた三原は不意に何かを掴んだ様子でポンと両手を叩き、自分達に向き直った。
「違う班だったからあまり詳しくはないけど、一日はズボンだったかな。自由行動の日で多分何処かに出掛けたんだと思う。あまり色気のない実用的な格好が女生徒にしては珍しくて覚えてるから。それから全員参加のパーティーではスカートを履いてた。折り目の沢山入ったやつ。……うん、チェック柄の学生服みたいな奴だった」
「啓祐、良く覚えてんなー」
感心するのは自分も同感だけど、裕樹はもうちょっと見習ってくれ。
「つまり、機能重視のシンプル傾向? でもチェックの学生服みたいなスカートって事は、キチッとした服装が好きなのかね」
「お洒落よりも動きやすさを取るくらいだからな。俺もそうだと思う。例えば……これとか」
そう言いながら三原が指で指し示したのはファッション誌のある1ページ。
「『GARCIA MARQUEZ』? カジュアル過ぎじゃね? ほら、今回も一応パーティーあるし」
「普通に可愛いのでいいじゃん! 女の子は可愛くてフワフワしてるのが似合うって、やっぱ!」
「お前、フワフワしてんの好きだな――」
――"楽しい"。
何の前触れもなく心が弾んだ。
このメンバーで女の子談義とかした事なかったから新鮮なんだな。そう思った。
メカオタクの三原が女性ファッション誌をペラペラと捲って傍目には熱心に眺めてるのも違和感ありまくりで面白いし、裕樹も裕樹で「フリルが云々、レースも然々」とか鼻息荒く語ってるのが笑える。
「カジュアルもいいけど、パーティードレスも要るからなァ」
聞くところによると、学年が上がる毎に女生徒のドレスが気合の入ったものになっていくらしい。となれば、本田も前回までのプリーツスカートでは問題だ。それも考えないと。
「でもさ、涼。一軒一軒店を巡るつもり? 俺としては一箇所で全部揃えた方が楽だと思うけど」
「一箇所で?」
「無理だろー。いくらファッションビルにまとまって入ってるって言ってもさぁ」
あぁん?
今、なんか引っ掛かった。
「それは確かにそうなんだよな。レディースって店数、多いし」
「全部一階にまとめても回りきれないぜー?」
「……、あー」
今度こそピンッ! と来た。
そうそう、回りきれないなら呼べばいいんだよ。
「どうかした?」
「ん、イイトコ思い出した。電話してくるわ」
「何処にー?」
「んなの、当然」
ウィンク一つとカードをひらり。
「三嶋屋の外商サロン」
「……は?」
ポカンと口を開く二人を放っておいて、携帯片手に外へ出る。
絶対使わないと思ってたけど、まさか使う事になるとは。備えあれば憂いなしってか。
カード裏に記載された電話番号に掛ければ、コール一つで相手が出た。
「こんにちは、佐倉ですけど……えぇ。梶村さん、います?」
初めの気後れは何処に行ったのやら、合流するなり「視界が広い! 明るい!」と喜びを全身で表現し始めた本田を連れて(くぅ、今までどんなに見え辛かったんだ……!)近隣にある予約した美容院へ直行した。そうするとまたアタフタと困惑していたが、今度も有無を言わさずカット&パーマ。
三時間後にはパッツン前髪が軽くなり、射干玉の髪が耳の辺りから緩やかに波打っていた。エンジェルリングが眩しいぜ。
もう別人である。でも、まだまだ手は止めない。
「さて、お嬢様。最後の仕上げに参りましょうか」
本田の手を取って車まで誘導すると、彼女はきょとんと首を傾げた。
「へっ? ま、まだ何処か行くの?」
「あったりまえだろー! これからが本番なんだから早く乗れよー!」
「ま、まま待ってよ、私、乗らないんだから! せめて何処に行くのか教えてくれなきゃわぁっ!?」
「ハイ、残念でしたー」
三原に押し込まれて本田の抵抗も止む無く鎮圧されてしまい、車は再び走り出す。
そうして二十分後、最終目的地である百貨店、三嶋屋へ辿り着いた。
地下駐車場の外商エリアに停車すると、すかさずドアを開けて迎えてくれたのは外商受付嬢二人と一人の中年男性だ。上品なブラウンスーツに身を包んだ男が先ほど電話した梶村で、何故か自分の担当者である。自分としては情熱的な勧誘にもめげずに断りきった積りだったのだが、なんでだろう。郵便受けに外商カード入りの封書が届いた際、世の不条理さに天を仰いだあの日は記憶に新しい。
もう一度言うが、何・故・か、自分の担当者になっていた。入会した覚えはないのにな。
こうなったら思惑に乗って、とことん扱き使ってやろう。
「お待ちしておりました、佐倉様」
「突然だったのに悪いな」
「いいえいいえ。感謝こそすれ、謝って頂く事など何一つ。この度は私にお声掛け頂き、光栄に御座います。さあ、どうぞこちらへ。準備は整っております」
言葉通りに梶村は歓喜に彩られた表情を隠す事なく、優雅な仕草で案内を始めた。
奥まった場所にあったエレベーターで一気に十五階まで上がる。彼に先導してもらい、通されたサロンには所狭しと女物の服飾が揃えられていた。
圧巻だ。
三原も裕樹も、こんな大量の衣服に囲まれた事などないのだろう、面白可笑しく表情を崩している。
本田は言わずもがな。ポカーンという擬音語が頭の上に見えるようだ。
斯く言う自分も実はちょっと驚いてるんだけどね。ここまでするとは思わなかった。
部屋の中には既に一人の女性が居た。三十代くらいのやり手っぽい人だ。彼女は自分達に気付くと洗練された動作で静かに歩み寄り、深々と頭を下げてきた。うーん、隙がない。
「コーディネーターを、との事でしたので彼女を呼びました。この道十八年のベテランですので、佐倉様のお役に立てるかと」
「コーディネーターの長谷川で御座います。何なりとお申し付け下さいませ」
「佐倉です。今日は急なお願いを聞いて頂き、有難う御座います。聞いてるかもしれませんが、この子の――本田さん、おーい本田さん」
どうやら魂が何処かへ遊びに行ってしまったようだ。
「まりあ嬢、呼ばれてんぜー?」
「ひょ!? あ、あわわわっ涼君、これは一体……!?」
「まぁ、彼女のコーディネートをお願いしたくて」
ぷるぷると小動物みたいに震える挙動不審さが可愛過ぎて、ついつい本田の頭を撫でながら長谷川に視線を戻すと、彼女はクスクスと品良く笑って「かしこまりました」とサロンの中央まで誘導してくれた。
男三人はソファに座り、本田だけがカーテンで作られた簡易な試着室(それでも豪華さは溢れている)へ連れて行かれる。
「可愛く動きやすいもの、という御要望でしたのでカジュアルキュート系を取り寄せました。まずは一着試してみて、佐倉様のご希望に沿うかどうかを確認してもらっても宜しいですか?」
と提案されたので承諾し、訳が分からないなりに着替えた本田が出てきて自分は思った。
「やっぱセクシーなのも入れたいよな」
でもかーわいいー。
試着室が大きいから本田が余計に小さく見える。抱き枕にしてぇ。
ついでに、オロオロしてて泣きそうになってるのが滅茶苦茶ソソるわー。って性癖がバレちゃうから自重自重。
「いやいや、涼。良く見ろって。本田さん、今でも恥ずかしくて死にそうになってるから」
「数こなせば直ぐに慣れるだろ(意訳:それもまた良し)って事で長谷川さん」
「では、そのように」
全く有能過ぎるな、長谷川さん!
こうして楽しい楽しい着せ替えの時間(本田にとっちゃ心労と恐縮で地獄の時間)が始まったのである。
「涼、涼! オレ、フワフワのワンピースがイイー! その『Coigirlmagic』のヤツ!」
フワフワに心奪われたのは言うまでもなく裕樹だ。
主張される前から絶対選ぶだろうって予想してたぞ。
「一応修学旅行用の服装だからな? 可愛いのはイイけどセクシー&キュートなそれは行動派の本田さんにはハードル高いと思うなァ。そっちの『CLATHAS』もちょっと上品で大人っぽ過ぎるし。いや、着てみてほしいけども」
願望駄々漏れな発言は自分。
「なら俺はさっきの『Abercrombie&Fitch』か『JILL STUART』。同一ブランドの方が合わせやすいから、カジュアルスタイルからセクシードレスまで揃ってる『JILL STUART』で纏めるってのはどうかな」
理論的に攻めるのは人間関係が淡白な筈の三原で。
そうか、そんなにノッてくれてるとは思いもしなかった。
男三人であーだこーだ言い合って、気付けばかなりの時間が過ぎていた。
本田は今、三十着目か四十着目かあまり覚えてないが、最後の服に着替えている最中だ。当初の予定では十二着程で決めようとしていたんだけど三人の意見が折り合わず、というか三人でも選びきれずに、購入予定は二十着にまで膨らんだ。うん、でもいいんだ。満足のいく買い物をしたと思ってるから。
出されたジンジャエールで喋り疲れた喉を潤し、彼女が出てくるのを待つ。
「可愛い女の子を自分好みにコーディネート。男冥利に尽きるよな」
「涼、その発言はギリギリアウトだと思う」
「え、マジで?」
「りょ、涼君……っ」
試着室から本田が恥ずかしそうにスカートの裾を押さえながら現れた。膝上なのが気になるらしく頻りにスカートを下にずらそうとしているけど、まぁそんなんじゃ隠れる訳がない。
ってか、もじもじしてるのが可愛いんですけど。お顔が真っ赤、お目々がうるうるでホント御馳走様です。
スカートの下から伸びる細い脚をピタッと揃えてる姿なんか、――っ初々しいなぁもう! ぎゅーってして、小さな頭をわしゃわしゃと撫で回したくなる……、衝動、がっ。
やべっ。なんか違う事考えよう。
えーっと。
3.141592653589793238462643383279502884197
16939937510582097494459230781640628620899
86280348253421170679821480865132823066470
93844609550582231725359408128481117450284
1027019385211055…………! ……!!
……よしっ! 煩悩恐るるに足らず! 次来い、次ィ!
「これ、丈が……み、短いよ……!」
「いや、それくらいがいいんじゃない? 折角綺麗な脚してるんだから見たいじゃん。――……あれ?」
なんで皆、そこで黙るの?
「…………涼、それは流石に思いきりアウトだ」
「え、マジで?」
煩悩撃退ならず?
でも俺が気にしないからセーフだろ。
結局、選び終えてから時計を見ると十七時を過ぎていた。
「じゃあ涼、また明日」
「じゃあなー! オレ達がちゃんとまりあ嬢、送ってくから安心しろよー」
「えっ、えっ? 涼君はまだ帰らないの?」
「俺はちょっと用事。本田さん、明日に備えて今日はゆっくり休んでね」
「う、うん! じゃあね、涼君。今日は有難うっ!」
多分、今日着た服が寮室に届くだなんて考えてもいないんだろうなと北叟笑みつつ、それぞれの性格が現れた挨拶に答えてチラチラと振り返る本田がドアの向こうに消えるまで見送り、それから自分は再びサロンの中央へ。
振り返ると既にショーケースが運び込まれていて――理解していたつもりだったが――仕事の速さに舌を巻いた。
「可愛らしい方ですね。私も楽しんでしまいました」
「そうでしょう? だからつい構いたくなってしまうんです」
そうしてケースの中を覗き込む。どれもキラキラしていて目移りしてしまう。
「それにしても貴女の手際の良さには驚きました。いつの間に指のサイズなんて測ったんです?」
「ふふ。いくら佐倉様でも、こればかりは企業秘密です」
声を潜めて、まるで悪事を企んでいるかのようだ。
本当はそうじゃないけど、それが面白い。
「残念。それで長谷川さん、ドレスは?」
「こちらに。本当ならご試着頂きたかったんですが……」
「俺も着てもらいたかったけど内緒なんでね。……うん、綺麗だ。落ち着いてて、控えめな感じが彼女をより神秘的に魅せるだろうな」
「お気に召して頂けましたか」
「勿論。貴女に頼んで良かった」
「有難う御座います。では、これに合うジュ――と――を――した。それで――」
「そ――すね。なら――が、――いいと――」
此処から先は立入禁止、だぜ? なーんて。
専用口の前までハイヤーを呼んでもらい、梶村と長谷川に来た時と同じ場所までお見送りされた。ハイヤーはとっくに待機していたらしく客である自分の姿が見えた瞬間に運転手は姿勢を正し、ドアを開けて待ってくれていたのでそのまま乗り込む。
梶村は運転手に小さくはない荷物を手渡し、少々言葉を交わしていた。
「では、梶村さん。残りは彼女の所へお願いしますね」
「かしこまりました。佐倉様、本日は誠に有難う御座いました。また何時でもお呼びくださいませ」
今日はホント疲れたー。
運転手が気を利かせて晩御飯の事を聞いてくれなきゃ、食べずに帰宅するところだった。
外食で済ませたけど。
その間、運転手放ったらかしだったけど。
「構いませんよ。お気になさらず、ごゆっくりどうぞ」と微笑んでくれたから言葉に甘えた。惚れちまうぜ。
夕食後は自宅に直行し、風呂の予約してた自分偉いとか自画自賛しつつジャボンと浸かってサクッと洗ってパパッと上がり、そしてそのままベッドへ倒れ込んだ。天国だ。ささやかな幸福感に包まれる。至福の瞬間である。
すると不意に携帯が鳴ったので携帯片手にベッドの上で転がった。疲れてんのに一体誰だと歪んだ顔は、差出人の名前を見てフッと緩んだ。
視線は液晶画面に向けたまま。
右の親指が物凄い速さでキーを叩いていく、――女子高生みたいに。
……だって近頃、携帯での遣り取りが多いんだもんっ!
誰に言い訳してるのかって話だな、ほっといてくれ。
「……あ し た が た の し み で す、と」
ポチッと送信ボタンを押してメールを飛ばす。相手は――実は知らない。
最近の事だ。
所謂メル友という存在と連絡を取り始めたのは何がきっかけだったのか、自分でも思い出せないから多分どうでもいいような、気紛れとかそんな理由だろう。初めは筆不精な自分が会った事もない人間と長くメール出来るとは思いもしなかった。けど、何故かまだ続いてる。逆にビックリだ。
自己申告によるとブルーマンと名乗る相手は男らしい。まあ内容とか文章を見ても女っぽくはないから、そうなんだろう。年齢は知らないけど、真面目に働いてる社会人だとか。どうやら年上のようだ。とは言っても話題の引き出しも多いし、興味の範囲が自分とそうズレてもないのでそんなに離れていないのかもしれない。兎に角、話し上手。短文を活かす文章構成力がハンパない。だからこそメールが続くんだと思う。
ピロリロリン――。
夜だからブルーマンも返事が早い。
「今日は特に早いな。もしかしてブルーマン、暇なの?」
返ってきたのは当たり障りの無い文章。自分達のメールなんて、いつもこんなものだ。
「はいはい、しっかり楽しんで来ますよ」
何を隠そう、京都の隠れた名所を教えてくれたのがこの『ブルーマン』なのだ。
* * *
某月某日――嘘だ、6月中旬です。
やって参りました、修学旅行の日! 新幹線でバビュンと京都まで走りまーす。
京都までの移動手段は新幹線だ。通勤ラッシュ時間を避ける為、十時頃に出発。そしてわざわざグリーン車を二車両貸切にしての移動しました。
本田が物言いたげに熱い視線を飛ばしてきたけど、促して聞けば文句のような言葉と感謝みたいな台詞がバラバラと出てきて話してる内に本田も己が何を言いたいのか分からなくなってきたのか、最終的に「あうあう……」と小さく鳴いて自分の萌え心を大層刺激してくれた。何この子、可愛過ぎる。
まあ、それは横に置いといて。
初日は殆ど何も予定が入っていない。
京都に到着すると直ぐにホテルモントーレ京都へバスを走らせ、昼食を兼ねた立食パーティーが開かれた。
クリスタルの繊細なシャンデリアと、白と青を基調としたアーツ&クラフトのデザインテイストで構成された会場は清楚で気持ち良く、修学旅行の開幕を祝うパーティーは大いに盛り上がっていた。
これで全員が制服でなければもっと華やかだったろうに。そう残念がりながら自分は一人の男に近付いた。
「よぉ元希」
シャンパングラスを掲げて声を掛ける。
元希は生徒会長だから修学旅行に関しても何だか面倒な仕事があったらしく、これが昨日ぶりの挨拶になるのだ。いくら会長でもその前に一生徒なんだから、準備期間中ならまだしも旅行本番には返してくれてもいいと思うんだ。彼の綺麗な御尊顔でニヤニヤと良からぬ妄想を――ゴホンッ保養したいのに。
「涼か。聞いたぞ、恋人でもない女性に大量の服を送り付けたそうだな」
言いながら視線を流す元希。その先にはヒロユウコンビに絡まれている本田がいた。
「もっと他に言い様があるでしょーよ。せめてプレゼントって言ってくれるかね、元希君?」
騒がしい二人に囲まれているからか、はたまた時代錯誤的だった瓶底眼鏡がなくなったからか、本田の回りにも男女関係なく人が集まり始めていた。突然の環境変化に本田は間誤ついているものの、概ね明るく会話しているようだ。良い傾向じゃんよ、と一人で頷く。
琥珀色の飲み物で唇を湿らせた元希はそんな自分の様子を見て、「駄目だコイツ」と言わんばかりに首を振った。失敬な。
「何を仕出かすか分からんヤツだとは知っていたが、そこまで常識に欠けていたとは……。呆れを通り越したら、その感情は何と呼ぶんだろうな?」
「なんだ、知らないのか? そんなの『感服』に決まってんだろ。流石です涼様って感涙に咽びながら平伏してもいいぞ」
「馬鹿かっ!」
折角教えてやったのにホント酷いな!
まぁ、修学旅行の幕開けなんて大体こんなモンか。
明日からは班毎での自由行動となり、課題や観光で忙しくも楽しい数日が我々を待っているだろう! ……と堅苦しい前置きはこれくらいにして。
取り敢えず明日からの修学旅行の為に、今日はこのくらいにしておこうかね。
さぁて、新しい一日の始まりだ! と太陽が燦々と大地を照らし出す。本日も晴天なり。
改めまして皆様、お早う御座います。
部屋に贈り届けた洋服をメモの指示通りにちゃんと着ている本田と、生まれ変わった彼女に驚く元希と裕也の素直な反応に御満悦の涼君です。頑張った甲斐があったというものですね。
観光は誰もが知っているような観光地から巡り始めた。
平日だと言うのにそれなりの人出があったので混雑する細道では観光客を避けながら見て回り、知る人ぞ知る隠れた名所はその合間に訪れた。元希の威光を笠に着て、普段は御開帳してない伽羅香漂う奥まで見せてもらったりして中々貴重な体験でした、マル。
正直、元希のネームバリューが凄過ぎてヤバかったな。彼がいなきゃ予定の半分も回れなかったんじゃないだろうか。元希と、あぁそうそう、久我先輩とやらの名前もやたら効果が高かった。元希の名前で「ほうほう」と話を聞く態勢になり、久我の名前で「まぁ、そう言う事なんですね、どうぞこちらへ」と奥へ案内される。事前に連絡はしてあったんだろうけど、なんかあくどい!
旅行中は晴れが続いた。
暑くもなく寒くもなく気持ちの良い気温。爽やかな風が頬を撫で、現在と過去が交差する京都は光に溢れてとても綺麗だ。
その内に気分が乗ってきたので人力車の上で『やさしさに包まれたなら』をBGMに、というか皆で口遊みながら遊覧し、身体で、心で、古の都を堪能した。
竹林の軽やかな葉音。
境内の厳かな空気。
建物を守る木の温もり。
体感するもの全てが未知の扉に触れるのに似ていた。
見た事がある筈なのに生まれて初めて見るような、知らない筈なのに懐かしいような、心地良い不思議な感覚に今も包まれている。
こんな調子で課題も観光も恙無く終わり、最後の夜を迎えた。
「涼ー、今日も温泉行かないのかー?」
「おう、悪ぃ。やめとくわ」
「そっかー、気持ちイイのになー……ま、無理はすんなよっ。裕也、行こうぜー!」
「行ってらー」
男共を見送って自分は備え付けの風呂へ。サッと汗を流して、空いた時間に課題をまとめる。これくらいしなきゃ面倒臭がりな自分では提出日に間に合わんのだよ。
しかし旅行に来てまでレポートに追われるってコレ如何に……と自分の境遇を嘆いていたら携帯がピロリロリンと主張した。
「お、ブルーマンか。どうしたよ?」
メールの文はかなり簡潔だった。
『旅行はどうだ?』
「楽しいよ。教えてもらった甘味処も中々良かったし」
本蕨、超美味! と端折りまくった返事を送る。すると一分もしない内に返信された。
「早っ」
『それは良かった。ところで温泉は入ったか? 今度其処に行こうと考えているんだが。』
「いやいや、暇過ぎでしょ、ブルーマン」
なんだか風邪を引きそうな危ない感じがするので部屋風呂。気持ち良いらしいよ。と、これまた簡単に送る。やはり返事は早かった。
『風邪? また無理してるんじゃないだろうな?』
してないっつか『また』って何、『また』って。俺は何時だって60%の力しか出してませんよ。
『嘘ばっかり。英語のテストくらいで徹夜するヤツが60%? よく言うな。』
あれは必要に迫られて……ってなんで俺が怒られてんだよ。風邪引き掛けの可哀想なソラ君に心配じゃなくて説教するってどんな鬼畜。信じられん。
『心配してるだろうが。』
何処が。
『無理するなと言った。帰ったら柚子茶を飲め。風邪に効く。レシピを教えてやろうか?』
ブルーマンがレシピとか言ってる!?
『……悪化させろ』
とメールに励んでいたら、部屋の入口の方から物音が聞こえてきた。
「あれ? 何処だ? 涼ー、生きてるかー? 生きてたら返事しろー」
裕樹の声だ。
どうやら温泉から戻って来たようだ。
「勝手に殺すなよ! こっちだ、こっち。奥座敷だ」
出迎えようと立ち上がり、居間へと足を向けた。と、その前に、
『酷いな! それで心配してくれてたとは。でもまぁレシピ送っといて。ダチ戻って来たから、またメールする。』
言いたい事だけ打って即送信。彼からの返事も早かったけど、チラリと確認してから袂に仕舞い込んだ。
「なんだよ、お前ら今日は早いな。元希と三原はどうした?」
「もうちょっとゆっくりするって――あ、裕樹! 零した牛乳はちゃんと拭けよー! そんで帰りにまりあ嬢と会ったんだけどさ、後でこっち来るって言ってたぜー」
ああ、明日で帰るからな。班行動がどうなるのか確認しに来るんだろう。
やがて元希と三原が戻ってきて本田も合流し、明日半日の予定を軽く話し合った。
それが終わると旅行最後の夜は早めの就寝となり、流石のヒロユウも大人しく布団に潜っていた。ずっと騒ぎまくっていたから疲れていたんだな、きっと。
『気を付けて帰って来い』
アリガト。そーします。
とは言ったものの。
……。
……寝れない。
…………一向に寝れないんですけど、どうしたらいいでしょうか先生。
「……ふぅ」
何度か寝返りを打つものの、余計に目が覚めるばかりで眠気は微塵もやってこない。
仕方がないので爛々とした自分の瞳は目の前で邪気ない寝顔を向けて眠る元希さんを、これでもかッ! って程に凝視しております。
(綺麗な寝顔だな……)
部屋が真っ暗だろうが、関係ない。就寝と言って電気を消してから約二時間。闇に慣れた瞳は幽かな月灯りしかなかろうと、詳細に鮮明に元希様の美顔を捉えている。呼吸が浅くピクリとも動かない元希はまるで彫刻のようだ。暗闇の中でも髪が僅かな光源に反射して綺羅綺羅してる。
不意に元希が身動ぎした。すると絹のような髪が頬に流れ落ちて固く閉じた目蓋にも掛かり、赤子がむずかるような幼い仕草で金色の睫毛が震えた。
「……ん」
動けば動くほど髪が前に落ちてきて元希の眉も寄っていく。起きている時のような不機嫌顔。それを眺めていると、つい、手が伸びてしまった。
さらり、と金糸が指先をなぞる。
(流石に起きるかと思ったけど)
そっと髪を避けても元希は起きなかった。それどころか睡眠を邪魔する髪を取り除いた事で満足したのか、眉間に皺を作り掛けていた眉は元の位置に戻り、すぅ……と眠りが深くなったように見えた。
「……」
(無垢だねえ)
遂に諦めて自分は起き上がる。
(今日は眠れそうにない、な)
只でさえ人の気配があると眠れない性質なのに、今日は特に酷い。何が原因かは判らないが、どうも気が昂ってるみたいだった。
さて、どうしようか。
朝が来るまで布団でゴロゴロしていても良いけど、何もする事がないというのは暇過ぎる。どうせ眠れないのなら気分転換に外の空気を吸って来るのもいいかもしれないな。
そうと決まれば早かった。
いそいそと布団から這い出し、居間で乱れた寝間着からシャツやジーンズ、パーカーと言った軽装に着替えて静かに部屋を後にする。多分誰も起こしてない筈だ。
履き崩した革靴を引っ掛け、白粉の香りが烟る夜の京はどことなく隠微な気配が横たわっていた。
「夜は流石に気温が下がるな」
ひんやりとした夜気を楽しみながら禄に考えもせずに歩いていれば、いつの間にか道を外れていた。
旅館の周辺に置屋でもあるのか、裏道にそっと視線を走らせると着飾った芸者や遊女風の女が数人、そろそろと何処かへ出向く様子が目に入る。
彼女達の派遣された先には何があるのだろう。
汚職政治家による裏工作の場か、それとも裏社会の住人が待っているのか。
良からぬ好奇心が首を擡げるのをどうにか気付かぬフリをして、足早に通り抜けると小川に沿う中通りに出た。左は小洒落た酒場が続き、右に顔を向けると繁華街と四ツ辻を作っているようで京の街には似付かわしくないネオンの明かりが目を引いた。
「……」
もう一度、左側をチラと見遣る。
アルコールでも入れれば眠れるだろうか。
そう考えて足を動かそうとした矢先、遠くの方から怒声が聞こえたような気がして動きを止めた。
良く耳を澄ませば、喧騒の合間を縫ってそれは段々と近付いてくる。
「なんだろ」
「――――めェ……! 待ちやがれッ!」
「……っ」
お。
毳々しいネオンに塗り潰されたシルエットがじわりと浮かび上がる。じっと睨むように眺めていると面倒な騒動に巻き込まれるのを恐れた人々が道端に避け、自分の目でも騒ぎの主演者が視認出来るようになる。
あ。
足を縺れさせて自分の方向に一直線で走ってくるのは学ランを着た少年だった。
真昼のように明るい繁華街から届く光でも見間違う筈がない、赤毛だ。時折後方を確認しながら追っ手を撒こうとするその顔には何処か見覚えがあって、野次馬じみた好奇心も状況判断をしようとする思考力も停止した。
きゅるんっ、とパソコンで検索するように記憶が脳裏を駆け巡る。
血の匂いと、ナイフの煌きが――……。
『……のクセに粋がって……』
『殺す……!』
『……だけでも庇えって……』
『ヒーロー気取り……』
『素敵なお馬鹿め』
『……またカワイイって……!』
『……ってた先輩様だよ』
『……っ涼サン……』
『じゃあな、――" "』
「……ぁ」
(――陽太、だ)
唐突に、遠ざかっていた現実が騒音を伴って戻ってくる。
深く息を吐き出し、改めて騒動の元に目を向けると陽太はまだそんなに近付いておらず、思い出に耽っていた時間は奇しくも一瞬だったようだ。
頭を振り乱して一心不乱に疾走していた陽太が徐に顔を上げる。すると険しかった彼の表情が徐々に驚きを露わにし、遂には瞠目した。まぁ、自分は彼を何とはなしに見詰めていたのだから、陽太が此方を見れば当然目は合うんだけど。
それにしても目がいいな。繁華街から離れた此方は明かりが少ないというのに、彼は自分に気付いたらしい。
後ろを見遣れば、追っ手とはある程度距離が開いている。
「……っんで、こんな、トコに……っ!?」
「こっちだ」
「え!?」
スピードを緩めた陽太の腕を捕まえて、有無を言わさず路地に連れ込む。素早く脱いだグレーのパーカーを着せてフードも目深に被せつつ、彼が走って来た方向を確かめると直ぐ傍まで来ていた。
「ハァ、ぁ、の……ハァ、何して、スか……?」
ぶかぶかのフードの下からおずおずと顔を出す陽太には悪いが、特徴である赤毛が見えないように隠しただけでは不安要素が大きい。となれば表通りを駆け抜ける追っ手を撒くには、もう少し付き合ってもらわなきゃならんかな。
先程一人だけ通り過ぎたが、追っ手は複数人だ。
未だに呼吸が整わない陽太に顔を寄せて、内緒話をするように声を潜める。
「撒きたいんだろ? なら、その為だと腹決めて大人しくしてくれると助かるね」
「……?」
小さく首を傾げる、『追われる者』。
そうそう、訳が分からなくたって騒がずにね。今も其処で『如何にも』な男が不粋にも此方を窺ってんだよ。
軽く唇を重ねて、直ぐに離す。
「――」
急激な状況変化に理解が追い付いていない陽太少年は放っておいて路地の入り口に佇む男を盗み見るが、まだ自分達を注視しているみたいだった。
マナーのなってないヤツだな。人のキスシーンをそこまで堂々と眺めるだなんて。見てられないようにしてやる。
漸く理解し始めたのか、陽太は大きな瞳をもっと零れそうな程に見開いて呆然としていた。おや、可愛らしい。
「キスする時は目を閉じるのがマナーだぞ」
言うや否や、柔らかな唇に噛み付いた。
「えっ、むぅ……!?」
驚きで半開きだったのを良い事に、無遠慮に入り込んでビクつく舌を引き摺り出す。混乱の境地にある陽太の意識を無理矢理引き戻そうと強めに甘噛みすれば、彼は思わずと言った体でシャツの裾を掴んだ。
「んんっ……ふ、ぁん……はぁ……っんぅ」
鼻に掛かったような喘ぎ声が思いがけず艶かしくて、煽られてしまった。そうと自覚しているだけマシか――それを活かすかどうかは別として。
だってぎこちない舌使いとか反則でしょ。どれだけ初心なの、却ってゾクゾクするわ。
陽太の華奢な身体をビルの壁に押し付けて左手でフードが摺り落ちないよう後頭部を固定し、反対の手では歳相応の円やかな頬を撫でていた。
舌先で遊ぶように上顎に触れ、熱くなった陽太の舌を唇で食む。時々身震いする度に開いていく脚の間を割って身体を密着させ、更に深く深く、舌を絡ませていく。
陽太の身体はすっかり弛緩していた。
成長途中の細腰を抱き、翻弄されながらも懸命に応えようとする舌を根元からねっとりと舐め上げる。そしてゆっくりと顔を離すと自分を見詰める陽太の、恍惚に潤んだ瞳が疑問符で溢れているのが解った。
「――行ったな」
「ッな、ななななっ!」
おぉ。何の為にこんな事してたか、やっと思い出したか。
我に返って力の入っていない両腕で突っ張るものの、腰が抜けている状態では意味がないのだがね。
「は、離してくださいってば!」
「ああ、そんなにヨかった?」
「~~涼サンっ!!」
堪え切れなくてクスクス笑いながらわざわざ口に出して確認すれば、図星を衝かれた陽太少年は真っ赤に染まった。
倒れないように抱え直してやらなくても、股割った時から気付いてたぞ。
「この隣、BARだったな。抜いてくるか?」
もう言葉にもならないようでワナワナと熟れた唇を震わせ、それから前屈みになって弾丸のように飛び出して行った。
自分もそれに続いてBARのドアを潜る。客入りは程々。落ち着いたクラシックジャズが暗い店内に品良く流れていた。
カウンターが丁度空いていたので、背の高いスツールに腰掛ける。
「マスター、何か適当に宜しく」
「では……マッカランの18年物は如何でしょう? この歳になるまで様々なお酒を飲み歩いてきましたが、やはりこの安定感が一番ですね」
「じゃあそれで。あと、オレンジジュースとかある?」
「御座いますが……」
怪訝そうではあったが、トイレから出てきた少年を顎で示すと納得したように頬を少し緩ませて「かしこまりました」と手早く用意してくれた。明らかに未成年なのに、反応らしい反応もなし。中々良い店を当てたな。
カウンターに座る自分を見付けた陽太が色々な感情を滲ませた表情で隣の席に腰を下ろし、「オレは不機嫌だぞ!」と強調するように尖らせた唇でストローを咥えた。顔はまだほんのりと赤く色付いている。
「それにしても驚いたな。なんでこんな時間に追い掛けっこなんかしてたんだ?」
「っ驚いたのはオレの方っスよ! いくら撒く為だって、あんな事……っ! もう、いいですけどっ」
ブクブクとジュースに息を吹き込んで、居心地の悪さを誤魔化しているのか知らんが、此処ではそれはマナー違反だ。ストローの中程を摘んで止めさせると、恨めしげな視線が控えめに飛んできた。
ん?
「まさか初めてだったとか?」
「うぐ」
なんとまぁ、判りやすいリアクションですこと。というか、うん。なんか悪い事したな。
「でもまぁそんなに落ち込むなよ。男同士ならノーカン、ノーカン。で、追い掛けっこの理由は?」
「……別に。肩ぶつかっただけ。そしたらなんかイチャもん付けられて」
「それにしちゃオジサン達、かなり必死だったよな。なんか盗ったりしたんじゃないの?」
「オレ、んな事しないっスよ! そりゃムカついて少し手ェ出したけど……涼サンまでいつもオレが悪いみたいに言うんですか……?」
「俺はその場面を見てないからな。一応確認。ポケットの中には何も入ってないな?」
「だから入ってませんてば! ほらっ……あ」
空のポケットを見せようとした陽太の左手が不自然に硬直する。
「『あ』?」
「マジ……?」
そっと取り出した手の平の上に鎮座在す(まします)シンプルなUSBメモリー様。初めまして。
って違ーう。
中身が何かは皆目見当も付かないが、そりゃあヤクザなオジサン達も必死になるわな。
「……涼、サン……これ」
「不可抗力、って訳にはいかねえなァ」
陽太はもう半泣きである。だが、これはお前が招いた事態だ。ぷくく。
「頑張って返してこい」
「むむむむ無理っス! 出来ませんっ、どうしよう涼サン!」
「自分の尻は自分で拭えよ」
まぁ後日、用途不明なUSB様は丁重に郵送しましたけども。
そしてその後オジサン達の組織がどうなったのかは分からないが、取り敢えず。
これにて一件落着、ってね。
鼻腔に広がるスイートで奥深さのあるシェリー香。芳醇な銘酒を舌の上で転がし、ロングフィニッシュを楽しむ。
カラン、――と来店者を知らせるドアベルが鳴った。
泣き付く陽太を無視してせっせとアルコール摂取に勤しんでいたら、新たな客は迷う事なくはっきりとした足取りで此方に歩いてくるのが硬い足音で分かった。
視界の端に映る人影。
ガイヤックウッドのスモーキーなフレグランスが、――触れ、
「……聖也」
記憶の海にぽかりと浮かんでくる、彼の名。
確かめるように呟く自分の眼前をジャケットに覆われた腕が横切り、目の前にいる陽太の胸ぐらを乱暴に締め上げた。
「この駄犬が……! 問題起こすだけじゃ飽き足らず、この人にまで迷惑を掛けたのかッ」
鼻先寄せて唸るのは今時ワンレングスが似合う男、それが高倉聖也その人である。『聖也』だなんて清廉潔白そうな名前とは到底似ても似つかぬ極悪な双眸が、細長い眼鏡の奥で剣呑に眇められていた。
ついでに押し殺したような低い声が聖也の怒りの度合いを物語っている。しゅ、修羅がいるよママン!
「そ、そんな事言ったって、しょーがねーだろ……っ!? オレだって好きで」
「馬鹿は馬鹿なりに大人しくしてろっつっただろーが。……チッ、アイツ等にはガセ掴ませたからもう追っては来ねぇけどな、テメェマジで一遍死んでこい」
ったく、なんで俺がテメェの為にこんな事しなくちゃなんねーんだよ。
そう吐き捨てながら突き飛ばすように陽太から手を離した聖也は長い髪を鬱陶しげに掻き上げ、一息吐いてから自分に向き直った。ってか、なんでいんの?
「迷惑、掛けたみたいで」
「いや、首突っ込んだのは俺だから。それにしても何故京都に?」
そう問えば、聖也の眉がぎゅっと寄った。それはもう心底嫌そうに。
「……佐倉が、京都に来てるって零したらこの駄犬が」
「ああ、飛んで来たって訳ね」
「コイツはいつもどんな時でも問題起こす天才だから見張ってたんだがな、少し目を離した隙にコレだ」
「元気なのは善き事かな。陽太が大人しくなったら地球が滅亡するぞ」
「……確かに」
聖也は神妙に頷いた。
「二人して、オレを何だと思ってんだよぅ……」
二人の容赦無い仕打ちに涙する篠崎陽太十五歳、仲間であろうと世の中は優しくない事を思い知らされた一夜であった。