第4話 五十嵐兼嗣の閑話
五十嵐探偵の推理日記。
この緋鳳院学園にスポーツ推薦で入学してから、気が付けばもう一年が経っていた。
振り返ってみても剣道一色の学生生活。始めは友人を作ったり部活動に慣れたりと、かなり慌しく過ごしていたが、思えば入学前に抱えていた不安や心配事は全部杞憂に終わっていて安心したんだ。
ほら、この学校って所謂セレブ校でしょ? いくら実力主義のスポーツ推薦でも、やっぱり"そういうイザコザ"ってのがあったりするんじゃないかなーって思ってた。確かに僕の家も遡れば古いけれど、それとはまたちょっと違うからね。
でも実際、部活動にそんな面倒な事は起こらなかった。正真正銘の実力社会。強い者だけが上に上がれて優遇される世界だ。先輩達もちゃんと理解しているらしく、一年坊主だった僕に負けても悔しそうにしながらそれでも上に手を伸ばし続けていたし、そもそも文武両道を掲げるこの学校の運動部に入部している時点でそういう精神は持っていたんだろう。って後になって気付いたんだけど。
僕は予想以上に快適な学園生活でとても満足していた。そう、"僕は"ね。
僕には幼馴染の親友が一人いる。日本の防衛システムを画期的に作り変えた指導者で、この日本で知らぬ者はいないと言わしめる佐倉漣太郎を父に持つ次代の星、佐倉元希だ。佐倉家は代々政府官僚を輩出する家系で、加賀美や久我、白河と言った旧家と並び立つほど格式のある御家らしい。
つまり何が言いたいのかと言うと只でさえ父親が現職の防衛大臣(軍のトップ)なのに、その上、由緒ある家柄の一人息子でもある元希は謂れ無い誹謗中傷や恨み妬みを一身に受ける理不尽な立場だって事。
僕だって元希の幼馴染をやってるんだから、剥き出しの欲望が縺れ合った裏事情もそれなりに分かってるつもりなんだよ? でも赤の他人に過ぎない僕が彼の為に出来る事なんて本当に少ないもので、ただ隣に居て励ましたり慰めたりするぐらいしか出来ないのが物凄く歯痒くて仕方ない。
ボディーガードってホントその通りだ。身体は守れるけど、心までは守れない。自分の無力さをいつも痛感する。
ちなみに僕が元希のボディーガードだっていうのは、嘘だけど本当の話。子供の頃に「小さなボディーガード君、元希を助けてくれて有難う」なんて尊敬する漣太郎さんに言われたらもう、職務を全うするしかないでしょう! と幼い僕は決意した訳だ。そのお蔭で苦しい鍛錬にも一層力が入ったし、どんな時でも常に前を向いていられたんだ。とは言え、僕が元希の幼馴染であり親友である事も違いないので、その立ち位置を忘れずにこれからもずっと元希の側に居るつもり。
さて、こんな恥ずかしい事を赤裸々に語ってるのには理由があってね。
「この間の罷免騒動、大きくならなきゃいいけど……」
元希に対する嫌がらせ等の対処をしてるのも僕の仕事だからです。
仕事、とは言っても僕が勝手にしてるだけなんだけどね。でも親友が嫌がらせされてるのを見過ごせる人なんていないでしょ? 見過ごせる、とか言えるのはもう親友どころか友達ですらないと思う。
そんな理由で僕は今、最近怪しい動きをしてる同級生の動向を探っているんです。
僕が目星を付けただけで既に三人。しかしながら、あのグループはいつも五、六人でつるんでいた筈だから、そうすると他のメンバーも怪しいと考えるべきだよね。ところが全員を押さえようと思ったら、全員分の証拠が必要になる。それに捕まえるにしても少しでもタイムラグがあろうものなら、他が逃げてしまうから一斉摘発が望ましい。……一斉摘発と言うと何だか警察官にでもなったようだと内心で笑った。
授業が終わった放課後、部活動をする生徒以外は皆直ぐに帰宅してしまうのが常だ。文化系クラブに所属する生徒も活動時間が終了するまでは部室から出て来ないので校舎内の廊下は閑散としている。
そんな中でこそこそと動き回る影を見付けた。
「あれは確か、2組の――」
先日、罷免された官僚の息子。そして僕が動向を監視しているグループのリーダー格である仙崎だ。
足音を殺してすかさず追い駆けた。しかし何処かの教室に逃げ込んだのか、角を曲がった先にはもう彼の姿は何処にも見当たらなかった。
見失った。と歯噛みするのと同時に、曖昧だった嫌な予感が確信に変わった。大方、何か仕掛ける心算だろう。悪い予感ほど良く当たるもので、僕は思わず溜め息を吐いていた。
今日はもう帰って明日から本格的に調査に乗り出そうと、彼を見付けた時刻と場所を改めて記憶してから僕は鞄を置いてある教室に向かい始めた。
不意に廊下の向こう側、僕に気付きもしないで通り過ぎていく見慣れない黒髪の生徒を見付けた。関係ないけど、そう言えば元希のクラスに転入生が来たんだっけと思考が移ろった時に思い浮かんだのは元希の疲れた顔だった。
* * *
早くも僕は焦っていた。だって証拠らしい証拠が一向に見付からないんだから!
グループで犯行に及ぶのかと思いきや、彼らが集合してる瞬間すら見当たらないんだよね。寧ろ違和感を感じるくらい個人行動が目立つ。単独で行動する可能性を視野に入れて調べても、やる事が増えただけで手掛かり一つ見当たらないって一体どう言う事っ!?
時間ばっかり過ぎて、あの日からもう四日経ってるのに――。
「五十嵐ィ! テメェ、やる気ないなら帰れ!!」
「っすみません!」
普段は丁寧な言葉遣いをする顧問の、荒々しい叱責にビクリと背筋を伸ばした。そうだ、僕は今、部活中じゃないか。それなのに違う事を考えるだなんて、集中出来ていないにしても酷過ぎると唇を噛み締めて素直に反省した。
「ドリンク、一人で行ってこい!!」
「はいっ! 行ってきます!」
答えるや否や、竹刀を立て掛けて走り出した。
ドリンクの用意は本来ならマネージャーの仕事だが、その内容のハードさから時々罰にも使われる。その内容と言うのはポカリスエットのクーラージャグタンク20Lを五個、満タンの状態で運ぶものだ。粉と水の分量は決まっているから問題ないが、作業場から体育館までの運搬作業が半端なく辛い。何と言うか、難行苦行? 悟り開けちゃうよって、仲間内で真剣に言い合ってるのは顧問に内緒の話。その上、一回につき一個しか運べないようでは「何、チンタラしてんだ仲間が脱水症状起こしてもいいってのかアァ!?」とその筋の人みたいなお叱りを受けるので、腕に怪我でもしていない限り二個ずつ運ぶのが原則である。ついでに作業場から体育館までの距離が微妙に遠いというオプション付きだったりするのは御愛嬌だろう。
だからこそ部員達はマネージャーに敬意を払うのを忘れないというのもあるけど。
「よいしょ、っと!」
ホント、女の子の細腕で毎日このジャグを運んでくれるんだよ。例年なら一人くらい男手があるものなのに、今年はどう言う訳か、女の子一人しかマネージャーに来てくれなかったから。部員も手伝うようにはしてるものの、彼女の負担が例年以上なのは間違いない。
「ドリンク、持って来ました!!」
「よぉーし、休憩!!」
僕はもう二往復しないといけないから、顧問の言葉も碌に聞かずに踵を返す。
この罰の山場は二往復目の中盤。突然ジャグが重くなるのだ。一歩踏み出す毎にどんどん重くなって、三往復目の最後の一個なんかは20kgしかない筈なのにその三倍くらいに感じるようになる。到着した頃にはヘトヘトだ。
「っはぁー、久しぶりの全力疾走でした。気分は爽快ですけど、腕が震えてます」
「久しぶりのドリンクでしたからね、五十嵐君は。さ、腕を出してください」
そう言いながら力なく腰を下ろせば口調の戻った顧問が隣で膝を衝いて、腕のマッサージを始めた。片腕に20kgの負荷をかけた上での全力疾走は、特に両腕にかなりの負担がかかる。要するにこの罰は筋トレも兼ねているのだ。勿論、その後のケアは欠かせない。罰と言いながらアフターケアもしてくれる、こんな所が部員達に好かれる要因かなぁと思いつつ「有難う御座います」と礼を述べた。
「それで? 部活動に熱心な君が珍しく心此処に在らずなのは何故ですか?」
「……気になる事があるんです」
慕っている顧問とは言え、話しても良いものか判断がつかずに言葉を濁してみた。嫌がらせ、という点では学校の問題なので話すべきなのだろうけど、当事者は僕じゃない。元希の問題でもあるから話し辛いというのもある。プライベートな問題も若干混じってるし。
そうやって答えあぐねていると、先生は狐のような細い目を更に細めて小声で「佐倉元希君の事でしょう?」といきなり核心を衝いてきた。
「え……っ」
それ以上の反応は何とか押し留めたけど、最早肯定したも同じだ。案の定、先生は「やはりそうだと思いました」って自己完結しているし。ちょっと、一人で納得しないでくださいよ。
「どう言う事ですか?」
「この世界にいる以上、五十嵐君とて知っているでしょう? 傍から見るだけなら華々しく見えますが、一歩裏に踏み入ればドロドロとして薄汚い。佐倉君だけでなく、大なり小なり毎日のように起きているものです」
「ですが、元希は僕の親友なんです。見過ごすだなんてそんな事」
「ええ、分かっていますよ。先日の職員会議でもね、その話が挙がりましたから。佐倉君の影響力は計り知れないですし、何と言っても相手は"色々と激しい"生徒……。表立って行動してはいませんが、教員側は既に警戒態勢を布いています」
それは知らなかった。
確かに廊下で擦れ違う先生が多いなとは感じていたけれど、それが学校側の警戒態勢だったなんて。言われてみれば、仙崎の近くには必ず教職員が居た気がする。
あれ? でも、じゃあなんでこの間は一人でこそこそとしていたんだ?
「こんな事を言っては失礼ですが、……それだけで大丈夫なんですか?」
漠然とした不安は拭い去れない。
そうだよ。「そんな遣り方で大丈夫なの?」って失礼な事言ってるのは百も承知だけど、いくら教職員が張り付いていたって先生は先生だ。プロじゃない。教職員には彼らの仕事があるし、素人相手なら生徒の方も撒こうと思えば撒けるだろう。授業中、休み時間、トイレ、保健室など、監視の目が離れる時もある筈だ。
僕はそれが心配なんだ。相手が理性的じゃないなら尚更、行動は読めない。感情的になった人間は予想の遥か上をいくものだから。
「勿論、自衛出来ればそれに越した事はありませんから、お家の方に連絡する話も出ています。ただ、これをするには相応の証拠がなければなりませんし、それに――」
それに?
「……いえ、何でもありません」
何を言い掛けたんだろう。
疑問に思った表情のまま先生を見詰めてみたけど、これ以上話す気はないようだった。
「さて、五十嵐君。君はドリンクをしてしまったので、今日はもう上がりにしましょうか」
「え、もうお終いですか」
「お終いです。下半身を重点的にクールダウンして、今日一日は腕を使わないようにゆっくり休んでください」
「分かりました」
言われた通りにクールダウンして、サクサクと着替えを済ませてみれば部室を出たのはいつもより一時間も早い時間だった。
先生にもゆっくり休めと言われている事だし、本来ならば真っ直ぐ帰宅するのが良いんだろう。頭の片隅ではそう思うのに、僕は何故か人も疎らな校舎に足を向けていた。
キュ、キュ、と歩く度に床が鳴る。それが何だか面白くて、気付いたら態と鳴らしていた。シン、と静まり返った校内はひんやりとしていて、僕の足音だけが余韻を残して静かに響く。
行き先は決まっていない。ふらりふらりと特別教室の多い北棟を一周する要領で練り歩いた。
「……この時間って、こんなに静かなんだなぁ」
遠くで運動部の掛け声が聞こえるが、それだけだ。特別教室を使う文化部も殆ど休みなのか、電気が点いていなくて薄暗いし、心なしかこの前よりもひっそりとしている。
(ホント、誰もいないよね)
学校側は警戒態勢らしいから、一介の生徒(僕)がこんな事する必要はないのかもしれない。
(人の気配も感じないしさ)
犯人検挙(だから、こんな事言うと警察官になったみたいだ)するよりも、元希の側に張り付いていた方が余程有効的な気もする。
「帰ろうかなぁ……」
よし。そこの角を右に曲がれば丁度エントランス方面だし、そうしよう。
そう、考えた矢先だった。
あ。
危うく声に出すところだった。寸での所で飲み込んで、慌てて身体を引っ込める。
「……」
黒髪の、知らない生徒。この前と同じような状況で再会とか、どんな運命?
気持ちを落ち着けてからもう一度顔を出す。すると何処かの教室から出て来たらしい彼は、僕の居る方向とは逆を向いて何事もなかったかのように去って行った。
手には何も持っていなかったけど、エントランス方向に行ったという事はそのまま帰るのかな。姿が角の向こうに消えても、階段を使うような足音はしない。そのままの体勢で耳を澄ましていると、靴箱の開閉音が小さく鳴って革靴特有の硬い靴音が遠ざかっていくのが分かった。
帰った、みたいだ。
そこまで確認してから、僕は彼が出て来た教室に行ってみる事にした。
何処から出て来たんだろう。
「化学室……ここ、かな」
ドアの取っ手に手を掛けて少し、力を入れてみる。――開いた!
この学校は基本的にどの教室もオートロック仕様だ。一定時間開かれないと自動的にロックが掛かるようになっている。化学室に到着する前に別の教室も調べてみたけど、そこはちゃんと閉まっていたから彼が出て来たのは此処で間違いない。
「こんな所で一体何を」
彼が化学部の一員であるという可能性が頭を過ぎったが、僕はすかさず否定した。化学部は確か今日、明日、明後日と、学会だったか国際フォーラムだったかに出席する為に海外へ出向いている筈だから。
無意識の内に息を潜めてドアの隙間から室内へ滑り込んだ。電気が点いていない所為で薄暗い室内は、ヒヤリとした室温の低さも相俟って何となく薄気味悪い。授業で化学も取ってるので何度か来た事はあるけれど、誰もいない教室でこんなにまじまじと様子を眺めたのは初めてだ。一度だけ日直と被って薬品棚に触れる機会があった時でも、その日の授業で使用した薬瓶を仕舞っただけで終わった。
「へえ、劇薬の入った棚は南京錠付きなんだ」
スポーツ特待生は学業に重きを置かれないものだ。試合や練習で授業を抜ける事は日常茶飯事だし、スポーツで成績を残せば試験の点数が多少低くても大目に見てもらえるなんて良くある話だ。それでも一応学生だからと言う事で授業範囲は一般生徒と同じなんだけど、その内容は比べ物にならないくらい薄い。って実は最近知ったんだけどね。この前、元希の課題を覗き見た時なんか、チンプンカンプン過ぎて一瞬暗号かと思ったよ。
まあ、そんな訳で僕らスポーツ組は勉強とかその関連に疎いものなんだ。新入生よりも校舎の構造を知らないという自慢にもならない自信もある程で、時々校舎内を彷徨ってる先輩とかも見掛けるよ。
「でも……、これは流石におかしくない?」
普通の薬品棚に収納された「Hg」と表記してあるガラス瓶。
良く分からないけど、Hgって水銀だったよね。水銀って危険なんじゃなかったっけ? それがなんでまた施錠されてない棚の方にあるんだろう。前はこんなのなかったと思うんだけど。
薬品棚を前にして考え込んでいたら、背後でガチャリとドアの開く音がした。振り返ってみれば、緩やかに波打つマロンブラウンの髪を横で一つに結った女性が帰る支度万端で準備室から出て来たところだった。
「あら、五十嵐君? こんな時間にどうしたの?」
化学の臨時教師だ。
「あれ、畑山先生。先生こそ今日はお休みじゃないんですか?」
「そうなのよ。本当はお休みだったのだけど、忘れ物を取りに来たら丁度質問に来た生徒に捕まっちゃって。でも、あんなに勉強熱心な生徒だったかしら。メチル化なんて大学生の範囲なのに」
質問に来た生徒?
「それってもしかして黒髪の、……背の高い男子生徒ですか?」
僕の質問に先生は可愛らしく首を小さく傾げて「黒髪?」と繰り返した。
「いいえ、男子生徒だけど髪は茶色に染めてたわ。背もそんなに高くないし。えぇっと、名前は何だったかしら……ごめんなさいね、まだ全員の名前を覚えきれてないの」
「えっと、それじゃあ今まで此処に黒髪の生徒はいませんでしたか?」
「誰も来てないわよ? あの子が帰ってから私は一人で準備室の後片付けをしてたから目で見て確認した訳じゃないけれど、物音一つしなかったもの。――いやだ、五十嵐君ってもしかして"そういうの"が視える人なのっ!?」
「え、えぇ!? それこそ嫌ですよ! 僕、見えないし見たくもありませんから!」
ドアをすり抜けて行く半透明の影を想像してしまって僕は身震いした。怖っ!
だって確かにこの教室から出て来たのを目撃したのに、先生は誰もいなかったと言う。
じゃあ、僕が見たのは一体誰だったんだ……?
「多分見間違いだったんでしょう。すみません、時間を取らせてしまいました。僕はもう帰りますので」
「そう、気を付けてね」
教員室とエントランスは反対方向だから、僕と先生はドアの前で別れる。真っ直ぐと背筋を伸ばして歩く先生の後ろ姿は綺麗で、それを暫らく見送ってから僕も歩き出した。
一人になって考えるのはやっぱり仙崎の事。茶髪に染めてる男子生徒なんて二年生ともなれば普通だ。僕が気にしてる仙崎も茶髪だし、それほど勉強熱心なタイプでもない。そこは先生の証言に当て嵌まる。でも、そんな彼が態々質問しに来るのか? しかも大学生の範囲を。言っちゃ悪いが、似合わないよ。
僕が監視してる生徒と今日来た子は違う気がするなぁ。
翌日、昼休みを終えた学校は密かに騒然としていた。
表面上はいつも通りなんだけど、何処となく落ち着かない雰囲気が彼方此方から滲み出ている。同じクラスの子も「どうしたんだろう」って頻りに聞いてくるし(僕が分かる訳ないじゃない)、隣の3組なんかもっと酷い。まあ、噂好きが集まってるクラスだから当然と言えば当然の反応なんだろうけど、仲の良い友達である筈の伊集院環に理由を聞きに行っても「今、ネタ集め中だから!」で逃げられた。全然取り合ってくれないってどういう事さ。
分かるのはただ、「何かが起こったらしい」って事だけ。それでも異様な空気の中、授業が坦々と進められていったのは、嵐の前の静けさみたいで気味が悪かった。
そんな可笑しな日が二日続いて三日目の一限目終了後、僕は漸く核心に迫る何かを環から聞き出す事に成功した。いや、成功というか逆に利用されてるというか。うん、いいんだけどね。僕も聞きたかったし。でもさ、もうちょっとこう、他にも言い様があるでしょ?
思わず愚痴りたくなるくらい開口一番告げられたのは、削りに削られた要点のみだった。
「という訳で五十嵐、ちょっと聞き出してきたまえ」
いや、どう言うワケで?
反射的にそう返した僕は間違ってないと思う。
「ここ数日、学校の雰囲気が可笑しくなってるのは気付いてるだろ?」
「まあね。だから君に教えてもらおうとしたのに」
「俺もその原因を調べてた途中だったんだから仕方ないだろ。ってそんなのはどうでもいいんだよ」
「何か分かったの?」
「ああ……、いや。原因だけど教師側も把握出来ていないのか、どうも推測の域を出ないんだ。だからお前を投入する事にした。2年3組特捜部満場一致だ良かったな、心安らかに逝ってこい」
「いやいや、字が違うから! っていうか特捜部なんてあったんだ!? 満場一致……って、そもそもなんで僕!?」
「凄いな、何時にも増してツッコミが切れてるぞ。お前、大坂でも生きていけそうだ」
「そう言う事じゃないよね!?」
ねぇ、漫才しに来たんじゃないんだけど!
一向に説明を始めない環に焦れた僕は半ば脅すように諭して、やっと本題に入れた。情報を手に入れるのにどれだけ手間取ってるんだよ。
北棟の端で声を潜める友人は辺りを見回し、他人の存在を気にしているようだった。それだけ内密な話なんだろうか。一応、人気はないと頷いて続きを促した。
「まず確認が取れてるネタだけど……、あの佐倉に復讐しようとした仙崎達が何者かの返り討ちに遭った」
「はぁ!?」
「ちょ、声がでかい!」
素早く口を押さえられる。血相変えて焦った様子で周囲に注意を向ける振る舞いは堂に入ってるな、って全く違う事を考えちゃったよ。
「悪い、それで?」
「おう。こっからが問題だ。誰がそれを為したのか、それが分からん」
「飛ばし過ぎ。こっちもそれじゃ分からない。時間を追って説明してよ」
と言えば「協力しろよ」と念を押された。ネタを小出しにして取引する手管も慣れたもんだよね、ホント。
「知ってる事もあると思うけど、取り敢えず黙って聞け。仙崎のグループは全部で五人だ。リーダーは勿論仙崎。他の四人は仙崎家が持つ系列会社のお仲間で漆原、陣内、蛯原、笹塚。先日の罷免騒動で腹を立てた仙崎は佐倉に一泡吹かせようと、何かしらの策を仕掛ける為にここ数日準備で走り回ってた。で、リーダー仙崎の怨みを晴らすべく俺達も何か手伝おうぜ! と漆原達も個々で動き始めた。これが先週までの話」
そこまでは分かる。
僕自身が調べた情報も彼らが個別に動いていたと示しているから。
「続けて」
「三日前の昼休み、家庭科室でボロボロになった蛯原を発見。同日放課後、中庭で気絶していた陣内を保護。どちらも見回り中の教師によって見付けられたんだけど、どうも態度がおかしい。何があったと問い掛けても決して答えない。仕方なくそのまま病院に搬送された。後で見付かったんだが、彼らが発見された場所に封筒が置かれてたらしい。中には佐倉への嫌がらせを企てていた証拠となる書類等が入っていたと専らの噂だ」
「……何となく、先が読めた気がする」
環も真剣な表情で頷いた。
「翌日も同じ事が起きた。標的にされたのは漆原と笹塚。発見場所はそれぞれ化学準備室と空き教室。両方とも三限目の授業中に見付かった事から、前日のも含めて何れの所業も昼休み中に行われたと考えられる。勿論、同様の封筒も見付かった」
仙崎が、残った。
しかし、二日の間に起きた出来事で十分見当がつく。次の日、つまり昨日、仙崎はとうとう魔の手に捕まったのだろう。そしてきっと――。
「残念ながら五十嵐の予想は外れだ」
「……は?」
環は至極楽しそうに、そして意地悪そうに口元を歪めて見せた。
「昨日、仙崎は学校に来なかった。その代わり教務課に一通の封筒が届けられたんだ。中にはICレコーダーと書類、それから数枚の写真が入っていてそれらは全部、仙崎がしようとしていた犯行の証拠となるものばかり。こうして悪事は露見し、佐倉への復讐劇は未遂に終わりましたとさ。めでたしめでたし」
そう言いながら環はまるでピエロのような仕草で一礼するが、僕は混乱するばかりだ。
聞きたい事が聞けてない。モヤモヤとした気持ち悪さがまだ沢山残ってるよ。
「それからどうなったの? 何故昨日仙崎は来なかったのか。今日は? 仙崎の処分は? それに漆原達もどうなったのさ。彼らも元希に何かしようとしていたんだって明らかになってるのに、この騒動の被害者だから何のお咎めもなしなんて事はないよね。そもそも誰がそんな事したの。君の話にはそれらについて触れられてない。奥歯に物が挟まったような気持ち悪い話し方してないで、はっきり言ってよ」
僕の矢継ぎ早な追及にも環は肩を竦めて躱そうとする。こう言う所ばっかり様になられても、こっちは困るんだって。……ん?
「……ここからは不確定な情報だってこと?」
「勘が良くていらっしゃる。さて、お巫山戯はここまでにしようか。五十嵐の言う通り、ここからは推論だ。それをお前に確かめてほしいってワケ。OK?」
「前フリが長いってば」
溜め息が出た。
「でも必要な事だろう。それで五十嵐が聞きたい事だけどな、此方も把握出来ていないんだ。何故昨日仙崎は休みだったのか、そんなもん俺も知らん。今日は? 残念ながら今日も休みだ。奴の処分……はまだ決まっていないのか、極秘事項なのか、現在も調査中。生徒には知らされてない。ただ教師側もあまり現状を把握していないらしい。漆原達に関してだが、それぞれまるっきり別件扱いで聴取を受けてるみたいだ。と言うのも佐倉に対する嫌がらせの証拠は挙がってるものの、どれも繋がりがない上に四人とも単独だと証言してるから。更に仙崎ほどの悪質さはなく、イジメや嫌がらせの域を出ないという判断が下された。それなのに漆原達は犯人についてだけは話そうとしない。教師や警察関係には知らない、或いは黙秘で通してる。これじゃあ、この事件の黒幕は結局分からず仕舞いだ」
「それの何処が不確定情報なの?」
「いいから聞きたまえよ。奴ら五人をやった犯人像を描くのは簡単だ。共通点は『佐倉』、それも佐倉の味方となる人物。だが、それだけじゃ特定出来ないってんで、この前コレを仕掛けてきた」
これ、と言いながら環がポケットから取り出したのは、指先サイズの黒っぽい何か。
なんか嫌な予感がするんだけど、もしかしてそれって盗聴器とか呼ばれる物じゃ……。
今にも後退りそうな僕の思考を呼んだのか、機嫌の良いチェシャ猫のようにくすりと笑った環はソレを良く見えるように人差し指と親指で摘んで掲げた。
「盗聴器」
犯罪だからソレ!!
「ちょいと仕掛けてみたら大当たりだ」
「……あまり聞きたくないんだけど、聞かなきゃ始まらないんだよね……? どうぞ」
「仕掛けた翌朝、ご丁寧にも答え合わせしてくれたよ、彼ら。四人をやったのは間違いなく同一人物。黒髪で、180以上の長身。二年の徽章。白いジャケットを羽織ってて、見た事のない美形だったと」
黒髪、と言われるとあの生徒が思い浮かぶよ、僕は。
「で、俺達特捜部は一つの可能性に辿り着いた。即ち、『佐倉の番犬説』!」
握り拳を突き上げて力説する環はかなり楽しそう。
「ナニソレ」
「ほら、佐倉って良く怨み辛みをぶつけられてるだろ? この前も妙な脅しされてたし……知ってたか?」
「うそ……元希、また話してくれてないよ」
「とまあ、そんな面倒事が度々あるようじゃ流石の佐倉も疲れる。そこで最強の番犬の登場だ。『主に狼藉を働く無礼者め、どなたに刀を向けたのか思い知らせてくれようぞ。天誅!』」
わざわざ番犬になりきって刀を振り下ろす動作付きだしね。
「つまり、何? 元希が君の言う番犬に指示して、仙崎達を懲らしめたって言いたいの?」
つい声のトーンが低くなる。
いくら仲の良い環と言えど、元希を貶めるような言い方は許せない。
元希は誰かを使って力に物を言わせる方法なんか選ばない。聞けば、これって完全な暴力事件じゃないか。いくらイジメだ何だって、相手がどんなあくどい手を使ってきても元希なら絶対に正攻法で立ち向かう筈だ。
「いや、番犬云々は後で確かめよう。それにしても最近、佐倉の周りで見慣れない奴がウロチョロしてるんだが、この時期に突然そんな奴が現れるなんて……」
ふつ、と言葉を切った環は猫みたいな瞳を細めた。
そして口元を黒革の手帖でうっそりと隠し、小さく、本当に小さく囁いた。
「――怪しくないか?」
「……っ!」
まさか!
僕は矢庭に駆け出した。
確かに元希は真っ直ぐな男だ。決して卑劣な手段を用いない、僕の敬愛する親友。けれど、『自称番犬』は違う。「元希の為」という言葉を盾にして、元希の知らない間にこの事件を起こしたのだとしたら?
あり得る。
実は似たような問題は過去にも数度、起きた事があるんだ。今回もその可能性は高い――と考えた直後、無情にも校内に鐘の音が響き渡った。
「くそ……っ」
仕方がない、教室に戻ろう。今更Sクラスに行っても向こうは向こうで授業があるし、真面目な元希が授業をサボるとは思えない。と言うか、サボろうと誘おうものなら鉄拳制裁が待ち構えている。
僕はもう授業中、気が気じゃなかった。正直言うと、何の科目だったかも思い出せないくらいの焦りようだった。だから授業終了の鐘が鳴った瞬間、僕は読んで字の如く教室から飛び出した。先生、ごめんね。
殆ど授業終了と同時に飛び込んだSクラスはやっぱりまだ人が多く残っていたものの、髪の色的に目立つ元希は直ぐに見付けられた。
「元希!!」
僕の声に吃驚したのか一斉に視線が集まるけど、一々気にしている余裕はない。机を飛び越えるようにして彼の元に駆け寄ればいつも通りの元希で、安心して良いのか、逆に番犬とやらを警戒すべきなのか焦燥感は大きくなるばかり。
それでも元希は冷静に僕を落ち着かせてくれて、一緒に昼食を摂ろうと言う話になって、そうしてやっと気付いた。彼の存在に。
一旦認識すると何故気付かなかったのかと自身に詰め寄りたくなるくらい、存在感のある彼。黒髪で、背が高くて、白ジャケットの二年生。極めつけはその美貌。
多分、僕が二度ほど見掛けた黒髪の生徒であり、十中八九、件の番犬なのだろう。
「は、初めまして……だよね」
あ、変な挨拶になっちゃった。彼――涼も妙な顔してるし。
でも勝手に見知ってる僕としては「初めまして」と言うのは違和感があって。
だから、
「どうも。元希に幼馴染なんてモンが居るとはビックリだ。頑張れ」
と言う挨拶にしては元希にやたら失礼な返事をされた時は、こっそりと安堵の溜め息を吐いた。
結論。
環を筆頭とする3組特捜部が考えた『最強の番犬』は、疑いようも無く涼でした。
しかも放課後にそれを報告に行くと、「やっぱり。俺の時は知らぬ存ぜぬで通したくせに」ってぼやいていたんだけど、まさか涼、環相手に白を切り通すつもりだったの?
彼がマムシという異名を持つ人間だなんて知らなかったんだろうなぁ、と涼の怒りも忘れてそんな事を考えつつ日常生活に戻った僕が、まだまだ半人前で呑気だったんだと気付かされるのはまた後日。
別の日、僕は畑山先生に会いに行き、そこで事件の背景に気付いて静かに衝撃を受けた。
キーワードは「水銀」と「メチル化」。
涼が零したのは、「一歩間違えれば死に至る方法」――。
何が「一歩間違えれば」だ。元希を殺す心算で準備していたのは確実じゃないか!
只でさえ水銀は有毒なのに有機水銀、特にジメチル水銀となると0.001ml吸入しただけで致命的な猛毒だと教えられた。それだけじゃない。ジメチル水銀はゴム手袋でさえ通過してしまうらしい。しかも曝露して発症するまでに数ヶ月掛かる、と言う事は余程の事がない限り犯人の特定は困難を極める事実に思い至った。それじゃあ「真相は闇の中」ってのと同義だ。それだけの時間が経過してしまえば素人でも逃げ切れるだろうし、面倒な証拠隠滅も容易になる。涼が言ってた「巧妙な手口」って、恐らくこの逃亡手段も含まれているんだと思う。
ああ、そう言う事か。僕は唐突に納得した。
元希に対する嫌がらせを阻止するだけじゃ駄目だったんだ。阻止するだけでなく、手段も逃げ道も全て洗い出して、二度目の芽すら完璧に摘み取らなければならなかった。
社会的制裁に加えて執拗な粛清。
きっと二度と立ち上がれまい。
涼の、肌を突き刺すような怒気はこれが原因だったんだ。彼らは覇王の逆鱗に触れてしまったから、情け容赦なく潰された。
僕の甘さを思い知らされた五月二十三日。
突き抜けるような蒼穹が目に痛かった。
水銀は劇薬ではなく、毒劇法で毒物に指定されています。