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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『研究員ごと封鎖しろ!』と地下研究所に生き埋めにされた俺たち、映画のバカ科学者じゃないのでとっくに全員『免疫済み』だった件〜無害な感染者と極上ステーキを食っていたら、上級国民が扉を開けた〜

掲載日:2026/11/03

いつも応援・温かい評価をいただき、本当にありがとうございます!

本作は15分ほどでサクッと読める【完結短編】です。

「もしゾンビ映画の研究所スタッフや清掃員が、映画みたいなバカではなく、最初から全員ワクチンを打っている超有能なプロ集団だったら?」というリアル・サバイバル逆転劇をお楽しみください!


【1日目・ゼロアワー:黒島・海面下40メートル】


 東京湾の南、百二十キロの黒潮のただ中に、いかなる観光地図にも載っていない玄武岩の孤島『黒島(くろしま)』がある。

 海面の上には荒波が打ちつける垂直の断崖と軍用ヘリポート、そしてコンクリートの桟橋があるだけだ。だが、その岩盤を海面下四十メートルまでくり抜いた地下深くには、四層の厳重な隔離構造を持つ『国立第4生物安全研究所(BSL-4)』が隠されていた。


 俺の名前は神崎海斗(かんざき・かいと)。三十二歳の菌類学者だ。

 いや――少なくとも八ヶ月前、防衛省の特別政務次官である黒澤(くろさわ)という六十歳の男に研究を強奪されるまでは、ただの学者だった。


 八ヶ月前、俺と助手の遥(はるか)は、火山の洞窟で新種の『オフィオコルディケプス(冬虫夏草)』の古代株を発見した。損傷した脊髄神経を再生させる奇跡の医薬品になるはずだったその菌を、黒澤次官は国家機密法を盾に差し押さえたのだ。

 黒澤は俺たち研究チームだけでなく、施設の清掃員や食堂の料理人に至るまで全員のパスポートとスマートフォンを没収してこの孤島へ強制移送し、冬虫夏草の遺伝子を書き換えて生物兵器『コルディケプス・ゼロ(コード:C-00)』を開発するよう命じた。

 人間の扁桃体と大脳皮質を百八十秒以内に乗っ取って菌糸に置き換え、痛覚と筋力のリミッターを完全に破壊して、新たな宿主へ胞子を植え付ける本能だけで動く「超代謝の怪物」を生み出す悪魔の兵器だ。


 十一月のその日。外洋で猛烈な季節外れの大型台風が発達し始める中、黒澤次官は防衛委員会の高級官僚十二名と、自動小銃や高圧スタンバトンで武装した民間の特別警護隊八名を引き連れて島へ視察にやって来た。

 仕立ての良い高級スーツを着た彼らは、最深部であるここ『地下第4階層(B4)』――俺と遥、六人の若手技師、三人の食堂料理人、そして三人の清掃・設備保守員を合わせた『十四人の下働き』が働き、寝泊まりしている隔離実験区画へと降りてきた。


「それで? これが私の予算を注ぎ込んだ成果かね、神崎博士」


 厚さ六センチの防弾・耐圧ガラスで守られた観察ギャラリーで、黒澤次官は年代物のウイスキーのグラスを傾けながら、退屈そうに眼下の白い大実験室を見下ろした。

 密閉された実験室の中には、八十人の男たちが立っていた。

 黒澤が極秘裏に刑務所から引きずり出し、生きた実験動物として使わせた元死刑囚たちだ。彼らの人間としての脳は数ヶ月前の感染実験ですでに死んでおり、今は菌糸のネットワークが心臓と筋肉を動かしているに過ぎない。

 そのため、ホラー映画の腐ったゾンビなどとは全く違っていた。『C-00』は宿主の肉体を腐らせるのではなく、異常強化する。青白く張り詰めた皮膚の下には、黒い根のような菌糸が血管のようにドクドクと脈打ち、瞳孔は白濁して開いている。だが今は、体内の代謝水を循環させて酸素とエネルギーの消費をゼロに抑えるため、摂氏十二度に保たれた室内で首をわずかに傾けたまま、彫像のようにピタリと静止(休眠)していた。


「中枢神経への菌糸の定着率は百パーセントです」

 俺は黒澤の顔を見ずに、平坦な声で答えた。「室温を十二度に保っている限り、菌糸は代謝水を循環させながら何週間でも休眠状態を維持します。ですが報告書に書いた通り、この株は凶暴すぎて制御が不可能です。台風で島が孤立する前に、すべて高温焼却炉で処分すべきです」


「処分だと? 学者馬鹿が寝言を言うな」

 黒澤は鼻で笑い、隣に立つ将官の肩を叩いた。「銃弾を受けても痛みを感じず、素手で鉄格子をへし折る兵士だぞ! どれほどの軍事予算と利権になるか分からんのか! ……だが、こうしてマネキンみたいに突っ立っているだけでは面白くない。連中がどう動くのか見せてみろ。実験室の温度を『三十五度』まで上げ、空調から気化アドレナリンを注入しろ」


 俺の背筋が凍りついた。

「次官、それは絶対に駄目です! 十二度の休眠状態にある八十体を同時に三十五度で強制覚醒させれば、急激な温度差と八十体分の運動エネルギーで正面の耐圧ガラスに熱衝撃(サーマルショック)が起きます! 外側のポリカーボネート層には、昨日報告した微細なヒビが入っているんです!」


「それがどうした?」

 黒澤は、三週間前に当研究所の『義務付けられた事前予防接種』を「下賤な作業員や二流学者の血管に入れる薄汚い薬など、選ばれし私の体に入れられるか」と傲慢に拒否した時と寸分違わぬ軽蔑の目で、俺を見下ろした。

「警備員、この臆病者をコンソールから引きずり出せ。サーモスタットを最大に回せ! これは省からの直接命令だ!」


 屈強な警護官に白衣の襟首を掴まれて壁へ突き飛ばされた俺の目の前で、黒澤の秘書官が蒸気バルブのダイヤルを最大まで回し切った。


 一分もかからなかった。

 白い高温の蒸気が実験室に充満した瞬間、八十体の肉体が『完全に同じタイミング』で跳ね起きた。

 呻き声よりも先に響いたのは、八十個の心臓が毎分三十回から『二百二十回』へと跳ね上がる地鳴りのような鼓動だった。大きく裂けた口から白い湯気と菌糸を噴き出し、人間の動体視力では捉えきれないほどの猛スピード――時速五十キロを超える爆発的な脚力で、八十体の捕食者の筋肉の塊が一斉に耐圧ガラスの弱点部分へと体当たりを叩き込んだ!


 ――ピシィッ!!

 白い蜘蛛の巣状の亀裂がガラスを走った。

 そして二度目の同時衝突で、厚さ六センチの防弾ガラスが轟音とともにギャラリーの内側へと粉々に爆ぜ飛んだ!


【1日目・ゼロアワー+12分:清掃員の目と、国家安全保障の言い訳】


「ひぃぃっ!! 走れ、中間シャッターを閉めろ! 全員、地下1階の特別司令室へ逃げろォッ!!」

 真っ先に甲高い悲鳴を上げたのは黒澤だった。自分の秘書官を床に突き飛ばし、八人の武装警護官に守られながら専用小型リフトへと全力で逃げ出していく。


 俺と遥は二次被害を防ぐために実験区画の補助シャッターを下ろして感染者の群れを足止めすると、若手技師六名、料理人三名、清掃・保守員三名の全員を集め、地下4階から上層へ続く唯一のメインルート――地上行きの大型エレベーターがある『地下1階(B1)・特別司令室』へと直結する、緩やかな『中央連絡スロープ』を一気に駆け上がった。


 だが、俺たち十四人が連絡スロープの頂上――地下1階の特別司令室の入り口を仕切る『厚さ四十センチの主気密隔壁(メイン・バルクヘッド)』の前へ辿り着いた時、巨大な鋼鉄のスライド扉はすでに目の前で完全に閉ざされていた。

 黒澤と十二人の官僚、そして八人の警護隊は、三十秒前に小型リフトで隔壁の向こう側(地下1階・特別司令室)へ逃げ切った後だったのだ。


「開けてください!! 俺たちがまだスロープの外に残ってます、隔壁を開けてください!!」

 若手技師のタカシが、冷たい鋼鉄の扉を両拳で必死に叩いて叫んだ。

 食堂の料理人三人も真っ白なエプロン姿のまま青ざめて震えている。百メートル後方のスロープの下からは、八十体の感染者が補助シャッターを体当たりで破壊する「ドゴォン! ガシャアァン!」という凄まじい金属音が刻一刻と迫っていた。

「自動隔離ロックが作動したんだ! 誰か内側の手動解除ハンドルを回せ!」


 タカシが壁の赤いホイールに飛びつこうとした、その時だった。

「――無駄だ、若いの。手ぇ離しな」


 低くしゃがれた声が響いた。

 声をかけたのは、五十八歳になる清掃兼・設備保守員の『源(げん)さん』だった。

 不況で小さな町工場が倒産し、この研究所の床掃除と廃棄物処理の仕事に就く前、源さんは三十年間ずっと大型油圧プレス機と高圧ボイラーを組み立ててきた熟練の職人だった。

 源さんはモップを片手に持ったまま扉の横の壁際にしゃがみ込み、手動油圧バルブの圧力計と電磁クラッチの表示灯を鋭い目で睨みつけていた。


「無駄って、どういうことですか源さん!?」とタカシが涙声で叫んだ。

 源さんはモップの柄で、針が完全に『0』に落ちた油圧メーターと、『次官専用マスターロック:作動中』と赤く点灯したパネルを指差した。


「これを見ろ。自動隔離なんかじゃねえ。向こう側の地下1階の司令コンソールから、黒澤の野郎が自分の指紋と『次官専用マスターコード』を入力して電磁デッドボルトを二重ロックし、おまけにこっち側の手動解放バルブの油圧オイルを全部ドレンへ抜いてやがる」

 源さんは皺(しわ)だらけの顔を上げ、氷のように細めた目で言った。

「内側から手動で開ける油圧そのものが切られてるんだ。上の背広組の連中はな、俺たちを隔離したんじゃねえ。――俺たち十四人を、この地下に生き埋めにして見捨てやがったんだよ」


 俺たちの間に戦慄が走るより早く、隔壁の上部に埋め込まれた防弾モニターがブツッと音を立てて点灯した。

 画面に映し出されたのは、扉のすぐ向こう側――安全な『地下1階(B1)・特別司令室』にいる黒澤次官の顔だった。

 背後には官僚たちと八人の武装警護隊が並んでいる。黒澤はシルクのハンカチで額の冷や汗を拭っていたが、カメラが繋がった瞬間に、記者会見でカメラの前に立つ政治家特有の「悲痛で厳粛な仮面」を作った。


『神崎博士、ならびに地下4階のスタッフ諸君』

 スピーカーから、吐き気がするほど芝居がかった黒澤の声が響き渡った。

『見ての通り、極めて遺憾なバイオハザードが発生した。国家安全保障プロトコル第1条に基づき、政府代表である私の至上命題は、この危険な寄生菌の胞子をただの一粒たりとも地上へ漏らさず、日本国民の安全を守り抜くことにある』


『てめえが勝手に温度を上げさせてガラスを割ったんだろうが、このクソ野郎!!』

 技師のタカシがカメラに向かって絶叫した。『ここにはまだ十四人も人間が生きてるんだぞ! 今すぐ扉を開けろ!!』


『君たちの恐怖は痛いほど分かる。だが、国家の安全に対して一ミリたりともリスクを冒すわけにはいかんのだ』

 黒澤はいかにも苦渋の決断を下した指導者のように、重々しく首を横に振った。

『もし五秒でもその隔壁を開ければ、汚染された空気がこの地下1階まで入ってくる危険がある。さらに悪いことに、外は大型台風が直撃して風速四十メートルの暴風圏に入り、今後「五日間」は自衛隊の船もヘリも島には近づけない。よって我が対策委員会は全会一致で、安全のためこの主隔壁を完全封鎖する決定を下した。五日後に台風が去って救助部隊が到着した暁には、君たちは自らの実験ミスを封じ込めるために命を捧げた英雄として報告してやる。――国家は、諸君らの尊い犠牲に深く感謝する』


 プツン、とモニターが真っ暗に消えた。

 そしてその一秒後、百メートル後方の連絡スロープの下で、最後の補助シャッターが蝶番ごと弾け飛ぶ凄まじい破壊音が轟いた!


【1日目・ゼロアワー+18分:「俺たちが映画のバカ科学者に見えるか?」】


『『『グオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!!』』』


 菌糸によって筋肉を異常強化された八十体の感染者が、黒い雪崩となって連絡スロープを駆け上がってきた。

 首筋の黒い血管を浮き上がらせ、床の樹脂を爪で引き裂きながら、四つん這いと二足歩行が混ざった異様な姿勢で時速五十キロの猛スピードでこちらへ突進してくる!


「お、終わりだ! 生きたまま殺される!!」

 若い女性技師が悲鳴を上げて床にへたり込み、三人の料理人たちは閉ざされた鋼鉄扉に背中を押しつけて涙目で震え上がった。源さんだけが六十センチの大型パイプレンチを両手で構え、若い連中を庇うように一歩前へ出た。


 八十体の怪物が百メートルのスロープを駆け上がるのに、七秒とかからなかった。

 だが――俺は1ミリたりとも後ろへ下がらなかった。

 俺の隣で、助手の遥もまた、白衣の胸の前で静かに腕を組んだままピクリとも動かなかった。


「神崎先生、遥さん、下がれェッ!!」

 源さんが目を剥いて叫ぶ横を通り過ぎ、俺は白衣のポケットに両手を突っ込んだまま、丸腰で二歩前へと進み出た。


 先頭を走っていた感染者――口の端から白い菌糸の束をはみ出させた、身長二メートル近い元死刑囚の大男――が凄まじい跳躍を放ち、俺の革靴のわずか三十センチ前にドォン!と着地した。

 その後ろに続いた七十九体の感染者たちも、火花が散るような勢いで俺たち十四人を取り囲み、逃げ場のない半円形の肉の壁を作った。


 女性技師が両手で顔を覆って悲鳴を上げ、料理人たちの呼吸が止まった。

 身長二メートルの先頭の感染者が、顎が外れるほど大きく口を開き、俺の無防備な喉笛の『わずか二センチ手前』まで顔面を突き出した。

 摂氏四十二度を超えるそいつの熱い呼気が俺の首筋の肌を撫で、黒ずんだ歯茎の上で無数の胞子が脈打つのが肉眼ではっきりと見えた。


 感染者が、鼻を大きく鳴らして俺の匂いを吸い込んだ。

 ――フガッ……スゥゥッ……。


 一秒。二秒。三秒。

 そして、凍りついた十四人の目の前で、信じられない光景が起きた。


 身長二メートルの怪物の大きく開いていた顎が、ゆっくりと閉じたのだ。

 白濁した瞳から獰猛な殺気がスッと消え失せ、まるで自分の目の前にいるのが生きた人間ではなく「ただのコンクリートの柱」か「古びたロッカー」ででもあるかのように、完全に興味を失って首を横へと逸らした。

 それだけではない。八十体すべての感染者が、俺の横をすり抜け、パイプレンチを構えて固まっている源さんや、床で震えている料理人たちの肩をかすめながらも『誰一人として一瞥(いちべつ)すらくれずに完全に無視』し、そのままスロープの両脇の壁際に並んで、再び静かな休眠姿勢へと戻ってしまったのだ!


 傷つけられた者は、ゼロ。流れた血は、一滴もなし。

 静まり返ったスロープの上で、タカシや料理人たちが震える手で自分の首と顔を触り、一メートル横で彫像のように立っている感染者と俺の顔を交互に見て口をパクパクさせた。


「え……? な、なんでですか……!?」

 タカシが裏返った声で呟いた。「俺たちの匂いを嗅いだのに……どうして一匹も襲ってこないんですか!?」


 俺はポケットから両手を抜き、腰を抜かしている十三人の仲間たちの方へ振り返って、冷ややかな笑みを浮かべた。


「全員、深呼吸して頭を冷やせ」

 俺は静まり返った通路に自分の声がはっきりと響くように言った。

「よく俺の目を見ろ、お前たち。――俺と遥が、ハリウッドのB級パニック映画に出てくる『バカ科学者』に見えるか?」


 若い技師たちが、きょとんとして目を瞬かせた。


「映画の中の科学者どもはな」と俺は言いながら、すぐ横に立つ二メートルの感染者の肩に、まるでマネキンに寄りかかるようにポンと片手を乗せてみせた。「世界を滅ぼす致死性の病原体を研究しておきながら、自分たちにワクチン一つ打たずに実験室へ入り、開始十分で襲われて全滅する。――だがここは現実の世界で、俺たちは『最高度安全実験施設(BSL-4)』のプロフェッショナルだぞ」


 隣に立つ遥が眼鏡の位置を直し、源さんや料理人たちに向かって優しく微笑んだ。

「皆さん、この半年間で地下4階の全スタッフに義務付けた『4回の新型インフルエンザ予防接種』と、毎朝食堂の給水サーバーに添加していた『ミネラル栄養液』を覚えていますか?」

 遥は澄んだ声で種明かしをした。

「あれはインフルエンザのワクチンではありません。『C-00』の最初の胞子を培養するよりも前に、私と神崎先生が開発し、研究員から料理人、そして清掃員の源さんに至るまで、この区画で働く十四人全員の血液に定着させておいた【対コルディケプス・完全擬態ワクチン】です」


 源さんがゆっくりとパイプレンチを下ろし、自分の節くれだった手の甲をまじまじと見つめた。「お、俺たち清掃員や賄(まかな)いの料理人にまで、最初から免疫をつけてくれてたのかい、先生……?」


「当たり前だ、源さん。毎日汚染フィルターや排水を処理するお前たちを守らずに、どうやって研究所を回すんだ」

 俺は自分の胸を軽く叩いて説明した。

「冬虫夏草(コルディケプス)という寄生菌の生物学的ロジックは極めて単純だ。連中は腹が減って人間を食べるわけじゃない。『まだ菌に感染していない、健康な新しい宿主の神経系』を探して胞子を植え付けようとするだけだ。そして、すでに菌が定着した個体同士で攻撃し合ってエネルギーを浪費しないよう、感染者の汗腺からは『タラロマイシン誘導体』という特有の化学マーカーが分泌され、お互いを【すでに感染済みの同族(繁殖不可能な対象)】として認識して素通りする仕組みになっている」


 俺は壁際に並ぶ八十体の怪物を指差した。

「俺たち十四人の血液に入っているワクチンは、体には一切無害なまま、汗腺からその『感染済みマーカー』とまったく同じ分子を分泌させる。つまりこいつらの嗅覚と神経受容体にとって、俺たちは『すでに感染し終わった仲間』か『石ころ』にしか見えないんだ。横で昼寝しようが鼻先でダンスしようが、絶対に襲ってはこない。――この島で唯一、その予防接種を『下賤な作業員の薬など打てるか』と拒否して生身のままでいるバカは、今この扉の向こうの地下1階で祝杯を挙げている黒澤次官たち二十一人だけだ」


 タカシや料理人たちの顔に一気に血の気が戻り、恐怖の涙が歓喜と驚嘆の輝きへと変わった。


「だが、ただ無視されるだけじゃあの厚さ四十センチの隔壁は開かない」

 俺の瞳に、冷徹な科学者の光が宿った。

「俺と遥は、黒澤のような政治家が最後には俺たちを口封じに殺そうとすることを最初から読んでいた。だから『C-00』の遺伝子を設計する際、防衛省への報告書には一行も書いていない『ある生物学的バックドア(裏口)』を組み込んである」


 俺は白衣のポケットから滅菌済みのメスと採取チューブを取り出すと、すぐ目の前に立っている身長二メートルの先頭個体(アルファ個体)の首筋へと歩み寄った。

 大男の感染者はピクリとも動かない。

 俺はその喉元の皮膚を突き破って生えている「白い王冠状の菌糸体(子実体)」をメスの刃で生きたまま削り取り、チューブの中へと収めた。


「群れを作る冬虫夏草やアリと同じで、この八十体は自分の意志を持たない『働きアリ』だ。今このアルファ個体から採取した活性菌糸を下のラボの培養器にかけ、食堂の発酵タンクを使って『高濃度の女王フェロモン(統率シグナル)』と『細胞壁を溶かす溶解酵素』を大量合成する」

 俺はチューブを高く掲げ、十三人の仲間たちを見渡した。

「台風が去って救助の船が来るまで、丸五日ある。黒澤たちは自分たちが安全な地下1階の司令室に逃げ込んだつもりでいるが、あそこには厨房もなければ浄水プラントもない。すべての発電機も、水も、半年分の極上食材も、俺たちの地下4階にあるんだ。――俺の指示通りに動け。五日後、外の世界にパンデミックを1ミリも漏らすことなく、上の二十一人の上級国民どもに『黒澤自身の指紋であの扉を開けさせて』、俺たち全員で英雄として地上へ帰るぞ!」


「「「はいっ、神崎先生!!」」」

 十四人の科学者と労働者たちの目が、一つの鋼鉄の意志となって燃え上がった。


【2日目〜4日目:凍える司令室と、怪力荷運び係、そして『極上コンフィ』】


 そこからの四日間は、科学と現場の職人技を総動員した痛快な準備期間だった。


 まず源さんが地下4階の主機械室へ降り、地下1階の特別司令室へ送られている「暖房用蒸気バルブ」と「飲料水の主給水弁」をパイプレンチで完全に閉鎖した。さらに俺が中央サーバー室から暗号ロックをかけ、地下1階から地上ヘリポートへ出る大型装甲エレベーターとハッチを電子的に完全封鎖した。

 その結果、扉の向こうの黒澤たち二十一人は、外を吹き荒れる台風の冷気で室温が『摂氏八度』まで下がり、蛇口から水が一滴も出ず、地上へも出られない密閉空間に閉じ込められた。連中が持っている食料は会議用の乾いたクラッカー三箱と、喉の渇きを悪化させるウイスキーやシャンパンだけだ。


 一方、俺たちの地下4階は文字通りの楽園だった。

 独立した地熱発電タービンによって室温は常に快適な二十二度に保たれ、遥が管理する水耕栽培ドームには新鮮な野菜が実り、無菌畜産室と大型冷蔵庫には医療研究用の最高級『SPF豚(無菌飼育された極上豚肉)』や熟成牛肉が何百キロも眠っていた。


 二日目の午後には、遥と技師たちが最初の『合成女王フェロモン(アルファ1)』の精製に成功した。

 俺が24キロヘルツの超音波発信機と合わせてその青いフェロモンをひと吹きすると、通路にいた八十体の感染者は一糸乱れぬ兵隊のように整列し、俺たちの指先の合図一つで動く「無言の怪力作業員」となった。


「おい、そこの一番デカい兄ちゃん! その二百リットルのドラム缶をこっちの配管の横へ運んでくれ!」

 三日目には、なんと清掃員の源さんが、身長二メートルのアルファ個体を筆頭とする十体の感染者たちを指図して、人間なら四人でも持ち上がらない重い培養タンクや培地の麻袋をホイホイと運ばせていた。怪力の感染者たちが一列になって真面目に荷物を運ぶ光景は、ホラーどころか実に頼もしい工場の引っ越し作業そのものだった。


 その怪力労働力をフル活用して、俺たちは八十体の感染者を最後に一掃するための切り札――菌糸のキチン質細胞壁だけを瞬時に分解して無害化する『特異的溶解酵素(L-9溶液)』の大量培養を開始した。

 ここで大活躍したのが、『三人の食堂料理人』と『源さん』だった。


「温度管理と発酵なら、俺たち料理人の専門分野ですよ、先生!」

 料理長が目を輝かせ、食堂の厨房にある二百リットル入りの『大型低温調理用スチームケトル(蒸気釜)』と『業務用スープ寸胴鍋』をすべて稼働させたのだ。

 料理人たちは摂氏三十七・五度の精密な温度管理で昼夜を問わず四千リットルの『L-9酵素』を高速培養し、源さんがその培養液を地下1階と地下4階の天井に張り巡らされた『消火用スプリンクラーの貯水タンク』へとパイプで直結して充填していった。


 同じ頃、地下1階の特別司令室では、醜悪な地獄が繰り広げられていた。

 三日目の夜にはクラッカーの一欠片まで尽き果て、極限の渇きに耐えかねた高級官僚たちは、なんと部屋の隅に飾られていた『観葉植物の植木鉢の泥水』や、消火栓のパイプの底に溜まった『赤錆だらけの腐った水』を奪い合って啜(すす)り始めていたのだ。


 そして四日目の夜。すべての仕込みが終わった地下4階の厨房で、三人の料理人たちが腕によりをかけた「前夜祭のディナー」を振る舞ってくれた。

 メインディッシュは、無菌飼育された最高級SPF豚の肩ロースとバラ肉の塊に、天然塩と潰したニンニク、そして遥の温室で採れた新鮮なローズマリーを擦り込み、純粋なラード(豚脂)の中で摂氏八十五度で五時間じっくりと煮込んだフランス伝統の『極上ポーク・コンフィ』だった。

 表面を鉄のフライパンでカリッと黄金色に焼き上げ、ナイフを入れると、ゼラチン質に変わったコラーゲンと甘い肉汁がジュワッと溢れ出す。付け合わせには、牛骨髄のブロスと発酵バターで炊き上げたリゾットと、焼きたての白い丸パンだ。


「うめぇ……! 外は台風で、横の廊下には八十体の怪物が立ってるってのに、こんな三つ星レストランみたいな肉が食えるとはな!」

 源さんがホロホロと崩れる熱い豚肉を頬張って豪快に笑った。

 そして源さんは、意地の悪い笑顔を浮かべると、厨房の換気ダクトの『地下1階・司令室直結ダンパー』をわざと十分間だけ開け放ち、大型換気扇を回して「焦がしニンニクとローズマリーと焼きたての肉の香ばしい匂い」を、上で赤錆の水を舐めている黒澤たちの部屋へとたっぷり送り込んでやったのだ。


 モニターの音声マイク越しに、上の司令室から「な、なんだこの肉の匂いは!?」「どこからステーキとパンの匂いがしてくるんだ、腹が減った、水が飲みたい……!」と狂ったように床を引っ掻く官僚たちの声が聞こえてきたが、俺たちはワイングラスを傾けて静かに微笑み合った。


【5日目・午前8時00分:『浸透圧カタレプシー』の科学的ブラフ】


 五日目の夜明け。ついに台風が温帯低気圧に変わり、気象レーダーは「あと四時間で海上保安庁の巡視船と防衛省の回収ヘリが黒島に到着する」ことを示していた。

 仕上げの時間だ。


 午前八時。俺は連絡スロープの頂上(主気密隔壁のすぐ手前)に整列させた八十体の感染者に『休眠抑制フェロモン』を吹きかけ、皮膚の表面に白い粉を吹かせて石膏像のようにピタリと静止させた。

 それから五日ぶりにスロープの監視カメラと、地下1階とのビデオ通信回線をオンにした。


 わずか五秒で、隔壁の上のモニターが点灯した。

 画面に映った黒澤次官の顔は、見る影もなくボロボロだった。

 四日間、摂氏八度の寒い部屋で赤錆の水を舐めて過ごしたせいで、頬は骸骨のようにこけ、唇は脱水症状で縦に裂けて血が滲み、目の下にはどす黒い隈(くま)が張り付いていた。

 だが、カメラのこちら側で俺たち十四人が半袖シャツ姿でツヤツヤした顔色をしており、湯気の立つホットコーヒーを飲みながら、直立不動で固まった八十体の感染者の間をマスクもせずに歩いているのを見た瞬間――黒澤は幽霊でも見たかのように目を剥いた。


『か、神崎……!?』

 黒澤がガラガラに掠れた声でマイクに掴みかかった。後ろの官僚や警護隊長も画面に殺到してくる。『き、貴様ら、なぜ生きている!? なぜその八十体の化け物は石像みたいに固まってお前たちを襲わんのだ!? それに、なぜ地上行きのエレベーターをロックしている!?』


 俺は左手に『銀色の密閉ジュラルミンケース』を持ち、右腕の手首に巻いた『青いランプが点滅する超音波発信機』をカメラに見せつけながら、非の打ち所のない丁重な口調で答えた。


「おはようございます、黒澤次官。五日前は慌ててお逃げになったので、我々の研究の本当の成果をお見せできませんでしたね」

 俺は冷たく微笑んだ。「次官が隔壁を閉鎖された後、私と遥は抑制フェロモンとこの超音波デバイスを完成させ、八十体の感染者を『完全な浸透圧カタレプシー(硬直休眠状態)』に置くことに成功しました。そしてこの銀のケースの中には、完成した三百人分の『完全治療ワクチン』と特許データ、および地上行きのエレベーターを動かすマスター基板が入っています」


 画面の向こうで、黒澤の血走った目に猛烈な強欲の光が宿ったのが分かった。

 もし救助隊が到着した時、感染者が無力化されており、自分の手元に完成したワクチンがあれば、実験事故の責任を問われるどころか「危機を未然に防いだ英雄」として総理大臣の椅子すら狙えるからだ。


『で、でかしたぞ、神崎博士! さすが私が目をかけた天才だ!』

 黒澤は乾いた唇を舐め、手のひらを返したような猫なで声を出した。『五日前に扉を閉めたのは規定に従っただけで、君たちを見捨てたわけではないのだよ! よし、その八十体の化け物はそのままスロープの下に置いて、今すぐこの扉のところへ銀のケースと……あと、飲み水をすぐさま私に持ってくるんだ!』


「そうしたいのは山々なのですが、次官。私がこの八十体を下に残していくことができない『物理的な絶対理由』と、あなたの八人の警護隊員に厳守していただかねばならない『重大な安全規則』があります」

 俺は声を一段低くし、深刻な科学者の顔を作った。


『物理的な理由だと? どういうことだ!』

「今、私の後ろに立っている八十体の感染者は死んでいるわけではありません。『高圧浸透圧による臨界硬直状態』にあります」

 俺は素人が聞けば百パーセント信じ込むもっともらしい専門用語を、よどみなく並べ立てた。

「抑制剤によって筋肉の動きは止まっていますが、体内の菌糸が発酵を続けた結果、彼らの胸腔内には『約6気圧に圧縮された高濃度のメタン・胞子混合ガス』がパンパンに充満しています。彼らが破裂もせず、暴れ出しもしない唯一の理由は、私の手首にあるこの『24キロヘルツの位相発信機から半径8メートル以内』にいるからです」


 俺は手首の青いランプを指差した。

「つまり、二つの絶対条件があります。第一に、もし私が彼らをこのスロープに置いたまま地上エレベーターに乗れば、私の手首から8メートル離れた瞬間に硬直が解け、八十体が暴れ出してそちらの司令室へなだれ込みます。ですから、私は彼らを自分の後ろに歩かせてそちらの司令室を横切り、すぐ奥にある『地下1階・装甲除染室』の中へ八十体全員を入れて外からロックしなければなりません」


 黒澤の後ろで、自動小銃を持った警護隊長がゴクリと唾を飲み込んだ。『……では、第二の条件とは何だ?』


「第二の条件は、あなた方が持っている『すべての武器』です」

 俺はカメラのレンズ越しに、警護隊長の目を射抜くように見つめた。

「申し上げた通り、今の八十体の肉体は『6気圧の生物ガスボンベ』と同じです。もし私たちが八十体を連れてそちらの司令室を横切る際、警護隊の誰か一人でもパニックを起こして『拳銃やライフルを発砲』したり、『高圧スタンバトンの電気火花』を散らしたり、あるいは『ナイフで胸部を突いたり』したらどうなるか? 火薬やスタンガンの火花がメタンに引火し、傷口から防毒マスクのフィルターすら一瞬で貫通する高圧の胞子ガスが連鎖大爆発を起こします。――武器を使った瞬間に、あなた方も我々も全員即死します」


『なっ……!? じゃあ、どうやって通過する気だ!?』と官僚の一人が悲鳴のような声を上げた。


「安全手順は一つだけです」

 俺は氷のように冷静に告げた。「今から源さんが油圧回路を復旧させますので、黒澤次官ご自身の指紋とマスターコードでそちらのパネルから隔壁を開けてください。ですが扉を開ける前に、八人の警護官と官僚の全員が【すべての自動小銃と拳銃から弾倉(マガジン)を抜いて薬室を空にし、スタンバトンやコンバットナイフの付いた戦術ベルトごとすべて外して、部屋の北側の隅の床に並べて置くこと】。そして全員、私たちの通路から十メートル離れた壁際に丸腰で立つことです。私たちは『2リットルの冷たいミネラルウォーター24本』と『ワクチンの銀ケース』をそちらのテーブルに置き、八十体を奥の除染室へ閉じ込めてから、地上エレベーターへ乗らせていただきます。――決断の猶予は二分です。もし誰かの腰にナイフ一本でも見えたら、発電機を止めてあなた方を永遠に暗闇に放置します」


 俺はマイクのスイッチを切った。

 後ろで、源さんや料理人、若手技師たちが固唾を呑んでモニターを見守る。

 二分待つ必要はなかった。わずか三十秒だった。


 四日間の極限の渇きと、ワクチンを手に入れて出世したい黒澤の強欲、そして「火花一つで胞子ガスが爆発する」という恐怖が、彼らの理性を完全に麻痺させていた。

 地下1階の監視カメラの映像の中で、黒澤が警護隊長に向かって顔を真っ赤にして怒鳴り散らすのが見えた。

『聞いたか、お前たち! お前らの誰かが引き金を引いたりスタンガンを鳴らして胞子ガスが爆発したら、私が死ぬんだぞ! 今すぐ全員、ライフルと拳銃からマガジンを抜いて、ナイフとスタンバトンのベルトごと北の隅の床に置け! 神崎の奴が水とケースを置いてエレベーターに入ったら、すぐに武器を拾い直せばいい! 早くしろ、私は喉が渇いて死にそうなんだ!!』


 画面の中で、八人の警護官たちが自動小銃と拳銃からマガジンを抜き、薬室を空にして、ナイフやスタンバトンのベルトと一緒に、俺たちが通るルートから十メートル離れた部屋の北の隅にすべて並べて置いた。そして黒澤たち二十一人全員が、完全な丸腰のまま壁際へと下がった。


 俺は白衣の下に手術用のラテックス手袋を二重に装着した十三人の仲間たちを振り返り、白衣の袖口に隠した『真紅のガラスアンプル』を指先で確かめた。

「いいか、全員2列になって落ち着いて歩け。水の箱とケースを置いたら、誰とも目を合わせずに真っ直ぐ地上行きの大型装甲エレベーターの中へ入れ。――源さん、油圧を送ってくれ」


【5日目・午前8時15分:科学の審判と、完璧なる現場検証】


 ――ピピッ、『次官認証コードを確認。主気密隔壁を解放します』。

 ――ゴオオオオオオオ……プシュウウウウウッ!!


 黒澤自身が司令室のパネルに自分の指紋とマスターコードを入力したことで、厚さ四十センチの主気密隔壁が重厚な音を立てて左右にスライドし、連絡スロープと、地下1階の広大な特別司令室が五日ぶりに一つに繋がった。


 敷居の向こう側では、黒澤次官と十二人の官僚、そして丸腰になった八人の警護官がハンカチで口元を押さえ、壁際に張り付くようにして目を見開いていた。


 俺は銀色のジュラルミンケースを片手に先頭を歩き、その後ろに遥、源さん、そして『冷たい2リットルの水ペットボトルが入った段ボール箱2箱』を持った料理人と技師たちが続いた。

 そして俺たちのわずか四メートル後ろを――超音波とフェロモンで統率された『八十体の感染者たち』が、一糸乱れぬ無言の行進でゆっくりと歩いて司令室の中へと入ってきたのだ!

 しかも俺は、八十体の隊列がちょうど『壁際の黒澤たちと、北の隅の床に置かれた銃器の山のど真ん中(武器への進路を完全に塞ぐ位置)』に来たところで、手首のスイッチを押して八十体の足をピタリと止めさせた。


「ほ、本当に腕時計の電波だけで化け物を操ってやがるぞ……!」

 唇がひび割れた将官が、床に置かれた冷たい水のペットボトルを食い入るように見つめながら震える声で呟いた。


「よし、そこまでだ神崎!」

 黒澤が荒い息を吐きながら、左奥にある装甲除染室の扉を指差した。「水とワクチンのケースはそこのテーブルに置け! そして早くその八十体の化け物を左の除染室へ入れてロックし、お前たち下働きはさっさと地上エレベーターへ乗って消えろ!」


「承知いたしました、黒澤次官。まずは安全のため、私のスタッフを先にエレベーターの中へ入れます」

 俺は礼儀正しく一礼すると、銀色のジュラルミンケース――その中身はワクチンなどではなく、源さんの工具室から持ってきた『ただの鉛の重り4個』だ――をテーブルの上に置いた。

 そして遥、源さん、料理人、技師たちの十三人全員を、地上桟橋へ直通する大型装甲エレベーターのカゴの中へと入らせた。


 十三人全員がカゴに入ったのを確認すると、俺は除染室の方へは向かわず、そのまま後ろ向きに二歩下がって、最後に自分自身もエレベーターの中へと入った。


 黒澤が眉をひそめ、テーブルへ歩き出しながら怒鳴った。

「おい神崎! どこへ入る気だ、まだこの八十体の化け物を除染室へ入れていないぞ!」


「ああ、黒澤次官」

 俺は源さんがエレベーターの『厚さ五センチの防弾ガラス付き二重装甲扉』の閉鎖ボタンを押すのと同時に、マイク越しに声をかけた。「お別れの前に、科学者として二つほど訂正しておかなければならない嘘があります」


 黒澤の足がピタリと止まった。「嘘だと……?」


「一つ目は、その八十体の感染者は、私の腕時計から8メートル離れても暴走しないということです。彼らは私たちが作ったフェロモンに反応しているだけです」

 俺は閉まり始めた扉の向こうの黒澤を見つめ、人生で最も冷酷で晴れやかな笑みを浮かべた。

「そして二つ目は――『銃で撃つと胸の6気圧の胞子ガスが爆発する』というさっきの話は、私が十分前にでっち上げた真っ赤な嘘だということです。もしあなたの八人の警護隊が最初から銃やナイフを手にしていたら、この八十体の頭を撃ち抜いて簡単に全滅させられたでしょうね。私はただ、生物学の本を一行も読んだことがない八人のバカから、安全にすべての武器を取り上げ、あなた自身の指紋でその扉を開けさせたかっただけですよ」


 黒澤の顔から、一瞬にしてすべての血の気が失せた。

「なっ……貴様、何だと!? 警備員、今すぐ銃を拾え、銃を取れェェッ!!」


 八人の警護官が真っ青になって北の隅の銃の山へと走り出そうとした。だが、銃までは十メートルあり、マガジンは抜かれており、そのど真ん中には八十体の怪物が立ち塞がっている!


 俺はエレベーターの扉が閉まり切る最後の『十センチの隙間』から右手を突き出し、袖口から抜いた真紅のガラスアンプル――『1000倍濃縮・強襲繁殖フェロモン(未感染宿主への攻撃誘発剤)』を、黒澤の革靴の真ん前の大理石の床へと全力で投げつけた!


 ――パァンッ!!

 ガラスが砕け散って赤い液体が気化し、未接種の二十一人の人間たちの体臭と混ざり合ったまさにその瞬間、俺たちの目の前でエレベーターの装甲扉が「ガチャン!」と完全に密閉ロックされた。


 防弾ガラスの窓越しに、俺たちは『科学の審判』を目撃した。

 赤いフェロモンを吸い込んだ八十体の感染者の白濁した瞳が一斉に見開かれ、八十個の心臓が毎分二百二十回へと爆発的に跳ね上がった。


『『『グギャアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!』』』


 次のコンマ五秒、時速五十キロで弾け飛んだ八十体の怪物の群れが、完全な丸腰の二十一人の「上級国民」たちへと一斉に襲いかかった!

 この菌は人間を「食べる」のではない。新しい宿主の首筋に菌糸を植え付けるため、抵抗する標的の四肢の骨を怪力でへし折り、喉笛を爪と牙で引き裂いて床へと縫い止めるのだ!

 銃へ走ろうとした八人の警護官は、一歩目を踏み出した瞬間に背後から飛びかかられ、鎖骨と腕を粉々に折られて床へ叩き伏せられた。


 黒澤次官が半狂乱で俺たちのエレベーターの防弾ガラスへと駆け寄り、血まみれの両拳でガラスをバンバンと叩きながら絶叫した。

『開けろ、神崎!! 悪かった、開けてくれ!! 金をやる、百億円でもやる、お前を大臣にしてやるから開けてくれぇぇぇっーー!!』


 ガラス一枚を隔てたわずか二十センチ先で泣き叫ぶその男――俺たちの研究を奪い、五日前に俺たちを生き埋めにして見殺しにした男を見つめ、俺はエレベーターの内線マイクのボタンを押した。

 そして、五日前のあいつと寸分違わぬ、静かで厳粛な声でこう告げた。


「あなたの恐怖は痛いほど分かります、黒澤次官。ですが、国家の安全に対して一ミリたりともリスクを冒すわけにはいきません。――国家は、あなたの尊い犠牲に深く感謝します」


 直後、黒い菌糸が浮き出た十本の腕が背後から黒澤の高級スーツの襟首と両肩をガシリと鷲掴みにし、絶叫する黒澤を司令室の真ん中へと引きずり戻した。


 俺はまだ、エレベーターの上昇ボタンを押さなかった。

 腕時計の針を見つめ、きっちり『三分間』待った。

 三分後、司令室の中で二十一人の人間が誰一人として動かなくなり、周囲の感染者たちから新たな胞子が放出され始める直前に、俺はエレベーター内のマスターパネルを開き、料理人と源さんが四日間かけて仕込んだ最終システム――『地下1階および全階層・消火スプリンクラーの一斉放出スイッチ』を押した!


 ――プシュゴォォォォォォォォッ!!

 司令室の天井のノズルから、四千リットルの『特異的溶解酵素(L-9溶液)』が豪雨のように降り注いだ。

 その無色透明の酵素の雨が感染者たちの皮膚に触れた瞬間、『C-00』の菌糸の細胞壁は太陽の下の雪のようにシュウウウッと音を立てて溶け去った。人間としての脳がすでに死んでいた八十体の宿主たちは、操り糸を切られた人形のようにその場に崩れ落ち、わずか百八十秒ですべての心拍が完全に停止した。同時に、空気中や床に落ちていた胞子も一分子残らず完全に分解・無菌化された。


 センサーの数値が「バイオハザード汚染度:0・00%(完全無菌)」を示したところで、俺はエレベーターの扉を再び開けた。


「源さん、タカシ、俺と一緒に来てくれ。捜査官たちが来る前に『五分間の現場仕上げ』をやるぞ」

 俺たちは靴カバーと二重の手袋を着けて静まり返った司令室へと出た。

 まず、テーブルの上から鉛の入った銀ケースと水の段ボール箱を回収した。

 次に源さんとタカシが北の隅に置かれていた戦術ベルトを八人の警護官の腰に戻し、自動小銃と拳銃にマガジンを装填すると、手袋越しに銃を握って『まず室内の防犯カメラのレンズを撃ち抜いて破壊し、続けて部屋の壁や、すでに死んでいる二十体ほどの感染者の死体に向かって六十発ほど銃弾を乱射』した! 床一面に空薬莢(やっきょう)を撒き散らし、弾切れになった自動小銃を、死んでいる八人の警護官たちのまだ温かい指にしっかりと握らせる。


 これで現場の証拠は百パーセント完璧になった。

 メインコンピューターのシステムログには、『1日目に黒澤次官がマスターコードで隔壁を閉鎖して研究員十四名を閉じ込めた記録』と、『5日目の朝8時15分、救助隊が到着する直前に、黒澤次官自身が自分の指紋とマスターコードで地下1階側から隔壁を開けた記録』が改ざん不能なログとしてしっかりと残っている。

 百人の科学捜査官が調べても、『黒澤次官が救助隊の到着前に研究サンプルを独占しようとして自ら隔壁を開けた結果、待ち構えていた八十体の感染者になだれ込まれ、警護隊がカメラを壊しながら最後の弾まで撃ち尽くして応戦したものの全滅した(そしてその直後に、下から上がってきた免疫済みの俺たちがL-9酵素を散布して怪物を全滅させた)』という結論にしかならないのだ!


 俺は最後に過去五日間の映像データだけを破損セクタとして処理し、『初日に黒澤次官が俺の警告を無視して実験室の温度を三十五度に上げさせた音声記録』をそのまま残した。


 俺たちが再びエレベーターに乗り込み、地上へと上がった時。

 台風一過の澄み切った青空の下、太陽に輝く桟橋の向こうの水平線には、ちょうど海上保安庁の白い大型巡視船とヘリコプターの姿が見え始めていた。


 俺は潮風の中で振り返り、遥、源さん、三人の料理人、そして六人の技師たちの顔を一人ずつ見つめた。

「みんな、最後に一度だけ確認するぞ。今日これから調査委員会とマスコミに話す『真実』はただ一つだ。――黒澤次官は俺たちを不法に監禁して生物兵器を作らせ、五日前に自ら実験室を破壊して地下1階へ逃げた。今朝、サンプルを回収しようとした黒澤次官が自ら隔壁を開けたことで感染者になだれ込まれ、銃撃戦の末に全滅したが、事前にワクチンを接種していた俺たち十四人のスタッフが無傷で上へ上がり、溶解酵素を撒いてパンデミックを完全に食い止めた。……いいな?」


 源さんが潮風に背を向けてタバコに火をつけ、ニヤリと最高の笑顔を浮かべた。

「俺はただのしがない清掃員だがね、先生」

 源さんは料理長の肩をバンと叩いた。「下の現場の証拠もコンピューターの記録も、そして俺の記憶も、先生の言った通りにしか残っちゃいねえよ」


 十四人全員が誇らしげに頷き、俺たちは救助のヘリコプターへ向かって大きく手を振った。


【12日目(1週間後)――東京・新橋】


 それから一週間後の、金曜日の夜だった。

 十一月の澄んだ夜風が吹く東京・新橋の駅前は、ネオンの明かりと仕事帰りのサラリーマンたちの活気に満ち溢れていた。山手線の電車が時間通りに高架の上を走り抜け、道行く人々の中には、わずか一週間前に太平洋の孤島で人類滅亡の危機が起きていたことなど知る者は誰一人としていない。


 俺たち十四人は、新橋の路地裏にある昔ながらの温かい大衆居酒屋の奥座敷を貸し切りにして、テーブルを囲んでいた。

 長い木のテーブルの上には、キンキンに冷えた生ビールのジョッキ、炭火で香ばしく焼かれた焼き鳥の盛り合わせ、新鮮な刺身の舟盛り、そして湯気の立つ牛すじ煮込みの鍋が並んでいる。

 研究所の三人の料理人たちは居酒屋の大将と「豚の脂の温度管理」について楽しそうに語り合い、タカシたち若手技師は大笑いし、源さんは熱燗(あつかん)のお猪口を傾け、そして俺のすぐ隣に座る遥は、ほんのりと桜色に染まった頬で俺の肩にそっと頭を預けていた。


 その時だった。

 店のカウンターの上に吊るされたテレビと、隣のテーブルで飲んでいたサラリーマンたちのスマートフォンが一斉に緊急ニュースの通知音を鳴らし、午後八時の特別報道番組を映し出した。


 画面に『故・黒澤政務次官の違法生物兵器開発と黒島研究所事故の最終調査報告』というテロップが流れ、東京地検特捜部による記者会見の映像が映し出された。


『――回収された音声記録、隔壁の指紋認証ログ、および現場の弾道鑑定の結果、死亡した黒澤次官が職権を乱用して民間の研究チームを不法に監禁し、危険な寄生菌兵器の開発を強要した末に自らの命令で暴走事故を引き起こした事実が確定しました。黒澤次官らは5日目に自ら隔壁を開放した際に感染者の群れに襲われ、護衛の銃撃戦も空しく現場で死亡しましたが、神崎海斗博士ら十四名の所員たちの英雄的な処置により、病原体は島内で完全に消滅したとのことです』


 俺たちのすぐ隣のテーブルで、スーツ姿の二人のサラリーマンがスマートフォンの画面を覗き込みながら驚きの声を上げた。


「おい、この記事の詳細を読んだか?」

 一人のサラリーマンが、同僚にスマホの画面を見せた。

「あの島の地下には、時速五十キロで走る感染者が八十体もいたらしいぞ! 一歩間違えれば世界中がゾンビ映画みたいに滅んでいたって書いてある……! でもすげえよな、ハリウッドのパニック映画なら科学者が真っ先に噛まれて世界中にウイルスを広めるのに、神崎博士のチームは『所員全員から清掃員のおじさんや食堂のコックさんに至るまで、事前に全員ワクチンを接種済み』だったから、怪物の真ん中を無傷で歩いて、酵素で菌を全部溶かして、パンデミックが起きる前に完璧に鎮圧したんだってよ!」


「マジかよ、めちゃくちゃカッコいいじゃねえか!」

 もう一人のサラリーマンがビールを一口飲んで笑った。「映画のバカ科学者と違って、現実の日本の研究者と現場の職人さんたちは頭がキレるってことだな! それに比べて、自分たちだけワクチンを拒否して死んだ政治家の連中は、まさに自業自得だぜ!」


 奥座敷の俺たちの席で、源さんが無言のまま熱燗の猪口を俺に向かってスッと掲げ、片目をつぶってウインクした。

 遥がテーブルの下で俺の左手をぎゅっと握りしめて微笑み、タカシや料理人たちが声を殺して笑顔でジョッキを持ち上げた。


 俺は曇った窓ガラスの向こうに輝く東京の街の灯りを一瞬だけ見つめ、それから自分の冷たい生ビールのジョッキを高く掲げて、十三人の最高の共犯者たちに微笑みかけた。


「――科学と、現場のプロの仕事に。そして、扉を開ける前に必ずワクチンを打つ俺たちに、乾杯だ」


【完】


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!

「映画の科学者はなぜ事前にワクチンを打たないのか?」という疑問から生まれた、科学者&現場職人たちの逆転サバイバル劇、少しでも楽しんでいただけましたら幸いです!


―――――――――――――――

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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!グラッツェ!!


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