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ゆめうどん

作者: 武者かるび
掲載日:2026/04/11

ある夜、眠れないまま外に出ると、路地の奥に見慣れない暖簾が揺れていた。

 

「ゆめうどん」

 

白い布にそう書かれている。

こんな店、昨日まではなかったはずだ。

吸い寄せられるように中へ入ると、湯気と出汁のいい香りがふわりと包み込んだ。

 

「いらっしゃい。どんな夢にしますか?」

 

店主は年齢のわからない人で、穏やかに笑っている。

 

「夢…?」

 

「ええ、ここは夢を食べる場所です。うどんにしてね」

 

半信半疑のまま、私は口を開いた。

 

「じゃあ…もう一度、あの頃に戻れる夢」

 

店主は頷くと、静かに麺を打ち始めた。


トントン、トントン、と規則正しい音が、なぜか懐かしく胸に響く。

やがて運ばれてきたのは、透き通った出汁に白いうどんが揺れる一杯だった。

 

「冷めないうちにどうぞ」

 

箸で持ち上げると、麺がほんのり光っている

ひと口すすった瞬間、景色が溶けた。


気づけば、子どもの頃の台所に立っていた。

母が笑いながら鍋をかき混ぜている。

テレビの音、夕方の光、全部そのままだ。私は思わず駆け寄る

 

「おかえり」

 

母がそう言った。

その声を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがほどけた。

  


どれくらいそこにいただろう。

気づくと、私はまた店のカウンターに座っていた。

目の前には空になったどんぶり。

 

「いい夢でしたか?」

 

店主が静かに聞く。

 

「…はい」

 

それ以上の言葉は出てこなかった。

  

「夢はね、なくなるものじゃありません。ただ、思い出すきっかけが必要なだけなんです」

 

店主はそう言って、暖簾の外をちらりと見た。

いつの間にか夜明けが近づいている。

 

店を出ると、もう暖簾はなかった。

路地も、いつもの見慣れた景色に戻っている。

けれど、口の中にはまだ、あの出汁のやさしい味が残っていた。

 

あれは夢だったのか、それとも——。

 

その日から、ときどき思う。

もしまた眠れない夜が来たら、あの「夢うどん」の店に、もう一度だけ行けるだろうかと。

そして次は、どんな夢を食べようかと。

 

 ◇ 

 

ある夜、眠れないまま歩いていると、あの暖簾をまた見つけた。

 

「ゆめうどん」

 

——二度と来られないと思っていたのに。

 

迷う理由はなかった。

気づけば、私はもう席についている。

 

「いらっしゃい。今日はどんな夢にしますか?」

 

店主は前と同じ顔で、同じ声で笑っている。

 

「前と同じ…あの頃に」

 

「かしこまりました」

 

出てきたうどんは、やはりあの優しい香りだった。

ひと口すすれば、すぐに戻れる。あの時間に、あの人に。

 

——だから、迷わなかった。

 

 ◇


それから私は、何度も店を訪れるようになった。

仕事で失敗した日も、誰とも話さなかった日も、理由なんていらない。

ただ暖簾をくぐればいい。

 

「今日は長めにしておきますか?」

 

そんなことも言われるようになった。

 

夢の中の時間は、現実よりずっと長い。

気づけば一晩で、何日も、何年分も過ごしていることさえある。

現実に戻ると、少しだけ体が重い。でも、それだけだ。

 

——最初のうちは。

 

 ◇

 

ある朝、鏡を見て違和感を覚えた。

 

「……誰だっけ」

 

映っているのは自分のはずなのに、名前がすぐに出てこない。

スマホを見る。

通知が溜まっている。

知らない名前ばかりだ。

いや、知っているはずなのに、思い出せない。

代わりに、夢の記憶だけがはっきりしている。

昨日の夜、母と話したこと。

その前の日、昔の友達と笑ったこと。

さらにその前——もう何十回も繰り返している。

現実が、薄い。


 ◇


「少し、来る回数が増えていますね」

 

店主が言った。

 

「けどね、問題ありませんよ。皆さん、そうなりますから」

「皆さん…?」

「夢の方が、居心地がいいでしょう?」

 

答えられなかった。

でも、その通りだった。


現実は雑音が多くて、うまくいかないことばかりで、戻ってきても何かが欠けている。

けれど夢は違う。望めば、ちゃんと応えてくれる。

 

「ただし——」

 

店主が初めて、少しだけ真剣な顔をした。

 

「食べ過ぎると、戻れなくなります」

「戻れなくなる?」

「ええ。現実にではなく、“こちら側”に」

 

意味がわからなかった。

でも、その日のうどんも、結局食べた。

 

 ◇

 

次に目が覚めたとき、私はカウンターに座っていた。

目の前には湯気の立つどんぶり。

 

「……あれ?」

 

いつ来たんだっけ。

いや、それより——

 

「何を、頼んだんでしたっけ」

 

店主は静かに笑う。

 

「もう、覚えていなくても大丈夫ですよ」

 

箸が、勝手に動く。

 

「ああ、そうだ。私は——」

 

何かを思い出しかけて、やめた。

どうでもよかった。

だって、ここには全部ある。

失くしたものも、欲しかったものも、まだ起きていない未来さえ。

 

「次は、どんな夢にしますか?」

 

その言葉に、私は少しだけ考えて——

そして、答えた。

 

「できるだけ覚めない夢を」

 

 

店の外では、今日も誰かが暖簾を見つける。

その中には、もう二度と現実に戻らない人もいる。

けれど誰も、それに気づかない。

なぜなら彼らは今、いちばん幸せな夢の中にいるのだから。

  

 ◇

 

気づいたとき、私はまたカウンターに座っていた。


目の前には、湯気の立つ「夢うどん」


「今日は、どうされますか?」


店主の声は相変わらず穏やかだ。

けれど私は、箸を取れなかった。


——思い出したのだ。

ここに来すぎたこと。

現実がどんどん薄くなっていったこと。

そして、「戻れなくなる」と言われたこと。


「……帰りたいんです」


自分でも驚くほど、小さな声だった。


店主は少しだけ目を細める。


「珍しいですね」


「でも、もう……わからなくなるのが怖い」


夢は優しい。何度でもやり直せる。

けれどそのたびに、何かを置いてきている気がした。

名前。

顔。

大切だったはずの、誰か。


「……本当に戻りたいですか?」


「はい」


少しの沈黙のあと、店主はゆっくり頷いた。


「では、最後の一杯です」



出てきたうどんは、今までと少し違っていた。

出汁の香りは同じなのに、どこか現実の匂いが混ざっている。

土の匂い、風の匂い、少し冷たい空気。


「これは、“夢ではない夢”です」

「夢じゃ、ない?」

「ええ。あなたが忘れかけている現実を、もう一度ちゃんと味わうためのものです」


意味はよくわからなかった。

それでも私は、箸を取った。

ひと口、すすった。



目を開けると、見慣れない天井だった。

いや、違う。見慣れているはずなのに、ずっと遠くにあった場所。

スマホのアラームが鳴っている。止め方を一瞬忘れて、少し焦る。

体は重い。頭もぼんやりしている。

でも——


「……ああ」


名前が、すっと出てきた。

自分の名前。

働いている場所。

最近うまくいかなかったこと。

ちょっとした後悔。

 

全部、ちゃんと「現実」だった。

 

窓を開けると、朝の空気が入ってくる。少し冷たくて、でも確かにここにある温度。

夢みたいに都合はよくない。

でも、触れることができる。



その夜、私はもう一度だけ、あの路地に行ってみた。

けれど暖簾はなかった。

代わりに、何もない壁があるだけだ。

少しだけ寂しくなって、でも——不思議と足は止まらなかった。

 

「……大丈夫」

 

そう呟いて、私は帰る。

夢の中のように完璧じゃなくても、

取り戻したものは確かにここにある。

 

 ◇

 

それからしばらくして、ふと気づく。

あの店の味を、少しだけ思い出せなくなっていることに。


けれどそれでいいのだと思った。

 

全部を覚えていたら、また戻りたくなるから。

 

「夢うどん」は、きっと今もどこかにある。 

 

疲れた人の前にだけ現れて、

優しい夢を差し出してくる。

でも——

最後に出てくる一杯は、きっと決まっている。

 

「現実に戻るための味」。

 

それを選べるかどうかは、

その人次第なのだ。

  

 


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