ゆめうどん
ある夜、眠れないまま外に出ると、路地の奥に見慣れない暖簾が揺れていた。
「ゆめうどん」
白い布にそう書かれている。
こんな店、昨日まではなかったはずだ。
吸い寄せられるように中へ入ると、湯気と出汁のいい香りがふわりと包み込んだ。
「いらっしゃい。どんな夢にしますか?」
店主は年齢のわからない人で、穏やかに笑っている。
「夢…?」
「ええ、ここは夢を食べる場所です。うどんにしてね」
半信半疑のまま、私は口を開いた。
「じゃあ…もう一度、あの頃に戻れる夢」
店主は頷くと、静かに麺を打ち始めた。
トントン、トントン、と規則正しい音が、なぜか懐かしく胸に響く。
やがて運ばれてきたのは、透き通った出汁に白いうどんが揺れる一杯だった。
「冷めないうちにどうぞ」
箸で持ち上げると、麺がほんのり光っている
ひと口すすった瞬間、景色が溶けた。
気づけば、子どもの頃の台所に立っていた。
母が笑いながら鍋をかき混ぜている。
テレビの音、夕方の光、全部そのままだ。私は思わず駆け寄る
「おかえり」
母がそう言った。
その声を聞いた瞬間、胸の奥に溜まっていた何かがほどけた。
どれくらいそこにいただろう。
気づくと、私はまた店のカウンターに座っていた。
目の前には空になったどんぶり。
「いい夢でしたか?」
店主が静かに聞く。
「…はい」
それ以上の言葉は出てこなかった。
「夢はね、なくなるものじゃありません。ただ、思い出すきっかけが必要なだけなんです」
店主はそう言って、暖簾の外をちらりと見た。
いつの間にか夜明けが近づいている。
店を出ると、もう暖簾はなかった。
路地も、いつもの見慣れた景色に戻っている。
けれど、口の中にはまだ、あの出汁のやさしい味が残っていた。
あれは夢だったのか、それとも——。
その日から、ときどき思う。
もしまた眠れない夜が来たら、あの「夢うどん」の店に、もう一度だけ行けるだろうかと。
そして次は、どんな夢を食べようかと。
◇
ある夜、眠れないまま歩いていると、あの暖簾をまた見つけた。
「ゆめうどん」
——二度と来られないと思っていたのに。
迷う理由はなかった。
気づけば、私はもう席についている。
「いらっしゃい。今日はどんな夢にしますか?」
店主は前と同じ顔で、同じ声で笑っている。
「前と同じ…あの頃に」
「かしこまりました」
出てきたうどんは、やはりあの優しい香りだった。
ひと口すすれば、すぐに戻れる。あの時間に、あの人に。
——だから、迷わなかった。
◇
それから私は、何度も店を訪れるようになった。
仕事で失敗した日も、誰とも話さなかった日も、理由なんていらない。
ただ暖簾をくぐればいい。
「今日は長めにしておきますか?」
そんなことも言われるようになった。
夢の中の時間は、現実よりずっと長い。
気づけば一晩で、何日も、何年分も過ごしていることさえある。
現実に戻ると、少しだけ体が重い。でも、それだけだ。
——最初のうちは。
◇
ある朝、鏡を見て違和感を覚えた。
「……誰だっけ」
映っているのは自分のはずなのに、名前がすぐに出てこない。
スマホを見る。
通知が溜まっている。
知らない名前ばかりだ。
いや、知っているはずなのに、思い出せない。
代わりに、夢の記憶だけがはっきりしている。
昨日の夜、母と話したこと。
その前の日、昔の友達と笑ったこと。
さらにその前——もう何十回も繰り返している。
現実が、薄い。
◇
「少し、来る回数が増えていますね」
店主が言った。
「けどね、問題ありませんよ。皆さん、そうなりますから」
「皆さん…?」
「夢の方が、居心地がいいでしょう?」
答えられなかった。
でも、その通りだった。
現実は雑音が多くて、うまくいかないことばかりで、戻ってきても何かが欠けている。
けれど夢は違う。望めば、ちゃんと応えてくれる。
「ただし——」
店主が初めて、少しだけ真剣な顔をした。
「食べ過ぎると、戻れなくなります」
「戻れなくなる?」
「ええ。現実にではなく、“こちら側”に」
意味がわからなかった。
でも、その日のうどんも、結局食べた。
◇
次に目が覚めたとき、私はカウンターに座っていた。
目の前には湯気の立つどんぶり。
「……あれ?」
いつ来たんだっけ。
いや、それより——
「何を、頼んだんでしたっけ」
店主は静かに笑う。
「もう、覚えていなくても大丈夫ですよ」
箸が、勝手に動く。
「ああ、そうだ。私は——」
何かを思い出しかけて、やめた。
どうでもよかった。
だって、ここには全部ある。
失くしたものも、欲しかったものも、まだ起きていない未来さえ。
「次は、どんな夢にしますか?」
その言葉に、私は少しだけ考えて——
そして、答えた。
「できるだけ覚めない夢を」
店の外では、今日も誰かが暖簾を見つける。
その中には、もう二度と現実に戻らない人もいる。
けれど誰も、それに気づかない。
なぜなら彼らは今、いちばん幸せな夢の中にいるのだから。
◇
気づいたとき、私はまたカウンターに座っていた。
目の前には、湯気の立つ「夢うどん」
「今日は、どうされますか?」
店主の声は相変わらず穏やかだ。
けれど私は、箸を取れなかった。
——思い出したのだ。
ここに来すぎたこと。
現実がどんどん薄くなっていったこと。
そして、「戻れなくなる」と言われたこと。
「……帰りたいんです」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
店主は少しだけ目を細める。
「珍しいですね」
「でも、もう……わからなくなるのが怖い」
夢は優しい。何度でもやり直せる。
けれどそのたびに、何かを置いてきている気がした。
名前。
顔。
大切だったはずの、誰か。
「……本当に戻りたいですか?」
「はい」
少しの沈黙のあと、店主はゆっくり頷いた。
「では、最後の一杯です」
出てきたうどんは、今までと少し違っていた。
出汁の香りは同じなのに、どこか現実の匂いが混ざっている。
土の匂い、風の匂い、少し冷たい空気。
「これは、“夢ではない夢”です」
「夢じゃ、ない?」
「ええ。あなたが忘れかけている現実を、もう一度ちゃんと味わうためのものです」
意味はよくわからなかった。
それでも私は、箸を取った。
ひと口、すすった。
◇
目を開けると、見慣れない天井だった。
いや、違う。見慣れているはずなのに、ずっと遠くにあった場所。
スマホのアラームが鳴っている。止め方を一瞬忘れて、少し焦る。
体は重い。頭もぼんやりしている。
でも——
「……ああ」
名前が、すっと出てきた。
自分の名前。
働いている場所。
最近うまくいかなかったこと。
ちょっとした後悔。
全部、ちゃんと「現実」だった。
窓を開けると、朝の空気が入ってくる。少し冷たくて、でも確かにここにある温度。
夢みたいに都合はよくない。
でも、触れることができる。
◇
その夜、私はもう一度だけ、あの路地に行ってみた。
けれど暖簾はなかった。
代わりに、何もない壁があるだけだ。
少しだけ寂しくなって、でも——不思議と足は止まらなかった。
「……大丈夫」
そう呟いて、私は帰る。
夢の中のように完璧じゃなくても、
取り戻したものは確かにここにある。
◇
それからしばらくして、ふと気づく。
あの店の味を、少しだけ思い出せなくなっていることに。
けれどそれでいいのだと思った。
全部を覚えていたら、また戻りたくなるから。
「夢うどん」は、きっと今もどこかにある。
疲れた人の前にだけ現れて、
優しい夢を差し出してくる。
でも——
最後に出てくる一杯は、きっと決まっている。
「現実に戻るための味」。
それを選べるかどうかは、
その人次第なのだ。




