虚飾の聖女と、影の執行人 〜嘘から始まる救世伝説〜
プロローグ:靴底が覚えていること
雨の市場。
エナは石畳の湿りを靴底で読んだ。滑る。油だ。魚の脂。新しい砂利が軋む。警戒の証。
標的は香辛料商人。右足が重い。客に背を向けた。今だ。
指が伸びた瞬間、冷たいものが手首を覆った。
体温がない。羊皮紙を擦り潰したような乾き。
「動くな」
声は雨音と同じ。起伏がない。
黒いフード。その奥、灰色の瞳。焼け跡の灰の色。
抵抗。無理。重心がぶれない。
泣き落とし。無駄。この目は百以上の涙を見過ごしている。
嘘。見抜かれる。
「プロだな」男が言った。「私もだ。無駄な手間を省かないか」
「……どこへ」
「話を聞く場所だ」
拘束は解かれなかった。だが「導き」に変わった。
エナは市場を見た。戻れなくなる。
唇を噛む。鉄の味。
それが、生きている証明。
——その「話を聞く場所」は、神殿の裏口だった。
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神殿の裏口。
壁の石材が微かに震えている。人の息遣いに同調する。築三百年。エナは初めて、建物の「鼓動」を聞いた。
紫の法衣の男——ルカ——が椅子に沈んでいる。指に三つの指輪。薬指だけが無意識に回る。
「座れ」
エナは座らない。「用件を」
ルカが苦笑する。「東の辺境、ヴェルタ。三日後、町は沈む。病だ」
「で?」
「聖女になれ」
「作り方は?」
「知らなくていい」ルカがカイトを示す。「彼がやる。お前は立っていろ。美しく。哀しげに。そして嘘をつけ」
エナは手を見る。スリで節くれだった指。
「条件が三つ」
ルカの眉が動く。
「一つ。『聖女です』とは言わない。『聖女かもしれません』と言う」
「なぜだ」
「『です』は依存を産む。『かもしれません』は自分で歩かせる。誰かの最後を奪いたくない」
ルカの指輪が止まる。
「……二つ目は」
エナはカイトに向き直る。「あなたの光、使うたびに何を失う」
カイトの瞳に警戒が走る。
「答えない」
「なら、こうする」エナは言う。「私が覚える。あなたが忘れたもの。それが二つ目」
カイトは答えない。代わりに胸元を触る。硬い輪郭。
「……三つ目は」エナはルカに戻る。「成功したら、私は路地に戻る。それでいいなら——」
「面倒な娘だ」ルカが手を叩く。
その時、エナは違和感を覚えた。ルカの指輪の回る速度が変わった。緊張の癖ではない。これは——誰かを待つ癖。
彼は待っている。十年。戻ってこない誰かを。
エナは問いを呑んだ。それが三つ目の条件になった。
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ヴェルタ。
馬車から降りた瞬間、エナは吐いた。何も出ない。胃が空だから。
鉄錆。甘い膿。湿った土。腐敗した果実の苦味。
「慣れろ」カイト。
「慣れるわけがない」
靴底で地面を読む。湿りすぎ。井戸水が溢れている。誰も汲みに来ていない。
扉の白い印。一つで病人。二つで死者。三つで一家全滅。
一本の通りで五軒。
「三分の一は終わった」とカイト。
彼は木箱を開ける。小瓶の薬草。底板の下に——銀色の液体。光を吸う。
「それを使うんだ」
「……読めるな」
「あなたが使うたびに記憶を失うことも知ってる」
カイトが初めて、真正面からエナを見た。
「……母の顔を忘れた」彼は言う。「三年前に。まだ探している」
エナは何も言えなかった。読めなかった。この男の痛みの深さを。
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広場。百二十人。
エナは中央に立つ。白い法衣。銀の飾り環。重い。嘘の鎧。
「私は聖女では——」
「またか」嘲笑。痩せた男。「偽物かよ」
エナは足音を読む。期待している者——ゼロ。
その時。少女が倒れた。
熱で頬が赤い。母親の叫び。
エナは走る。膝をつく。頬に手を当てる。焼ける。
(どうする)
五年前。雪の路地。凍え死んだ女。あの時、笑って手を差し伸べた。嘘だった。
今、この子の手を握るのは——嘘か、本当か。
わからない。
ただ、怖がらせたくない。それだけは本当だ。
エナは笑った。計算ではない。
「大丈夫。ここにいるから」
背後の空気が変わる。松脂。硫黄。鉱物の匂い。
「見るな」カイトの声。「その子を見ろ」
白い光。地面から——エナの影の先端から。冷たい光。
三秒。
少女の呼吸が深まる。
エナが振り返る。カイトの指先が震えている。
「……何を忘れた」
カイトは空を見る。「……夕飯の味。もう思い出せない」
その時。
広場の端。一人だけ立つ男。鎧。兜。
騎士が兜を外す。四十代。目の下の隈が黒い。
「お前か」声は低い。「五年前、妻を殺したのは」
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イスルギ——その名をエナは知らなかった。だが、彼の目を見て理解した。この男の中では、エナは既に「殺人犯」として定着している。
「お前の『親切』が妻を殺した」剣が抜かれる。「耳飾りをやったと言っていた。偽物だった」
エナは言うべき言葉を探した。だが——何も浮かばない。彼の言葉は正しい。あの夜、エナは笑って手を差し伸べ、警戒を奪い、財布を抜いた。女は凍えた。それが事実だ。
「黙り込んでも無駄だ」
「……あなたの妻は、最後に何と言いましたか」
イスルギの動きが止まった。
「何を——」
「私は知りたいのです」エナは膝をついた。泥が法衣を汚す。「彼女が最後に言った言葉を。あなたは聞いたはずです」
イスルギの拳が震える。
「……『あの子を責めないで』」彼は言った。声が割れた。「最期の言葉だ。お前をかばった。なぜだ——」
その瞬間、エナの中で何かがつながった。
女は気づいていた。財布を抜かれたことに。それでも「ありがとう」と言った。そして、夫に「あの子を責めないで」と遺した。
嘘つきのエナにさえ、優しさを向けられる女だった。
「あなたの妻は——」
「語るな」
剣が振り上げられる。
その時。
「待て」
カイトの声。彼はフードを脱いだ。初めて。顔が露わになる。彫りの深い、疲れた顔。
「あの光を見たか」カイトは言う。「あれは『記憶石』の光だ。神殿騎士なら知っているはずだ。あの光は——本物の感情にしか反応しない」
イスルギの目が揺れる。
「知っている」彼は言う。「ヴィクトール閣下の石だ」
「ならばわかるだろう。あの女の笑顔は本物だった。過去はどうあれ——今、彼女は変わった」
「それが——」
「あなたの妻が『責めるな』と言ったのも、同じことだ。過去ではなく、今を見ろと——そう言っている」
イスルギの剣が——数秒後——下ろされた。
鞘に収める音が、広場に響く。
「……町を出るまでに、ここを離れろ」
彼は振り返る。その背中は、復讐を捨てた男の背中ではなかった。復讐と向き合い、それを選び直した男の背中だった。
「なぜ——許したんですか」
エナの問いに、イスルギは足を止める。
「……自分にも、娘がいる」
それだけ言って、彼は去った。
エナはその背中を読もうとした。読めなかった。それが正しかった。読者が読むべきだから。
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エナは泥の上で泣いた。
カイトが手を差し出す。
「立て」
「立てません」
「立て」
冷たい手。確かにある。
「カイト」
「何だ」
「あなたはさっき、『夕飯の味』と言った。でも——あなたは三年前に母の顔を忘れたと言った。時系列がおかしい」
カイトの動きが止まる。
「……お前は」彼は言う。「私が自分で気づいていない矛盾を読むのか」
「読めてなかった。今、気づいた」
「それで十分だ」
カイトの口元が——緩んだ。
それが彼の笑顔だと、エナは知った。
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その夜。カイトは一人、宿の屋根に座っていた。
月が雲に隠れる。手の中には何もない。石はもう胸元にない。
遠くで、足音が聞こえた。複数。規則正しい。訓練された歩き方。
ヴィクトールの私兵だろう。次の町に向かっている。あるいは——ここを探している。
カイトは動かなかった。今、ここで戦う時ではない。
「……弱いな、俺は」
自分に言う。執行人なのに。記憶を失うのが怖くて石にすがっていた。恩を返すと称して、実は自分を守っていた。
「母さん」
声に出してみた。返事はない。当然だ。顔も思い出せない。声も聞いたことがない——いや、聞いている。忘れただけだ。
「もう、忘れてもいいんだ」
誰に言うでもなく。
「忘れても——誰かが覚えている」
風が吹く。冷たい。
足音は遠ざかる。今夜は——ただの通過。
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宿。ランプの灯り。
カイトが戻ってくる。服に夜露がついている。
「どこに——」エナが言いかける。
「考えていた」カイトが座る。「お前の提案について」
「私の提案?」
「私の記憶を預かる——あれだ」
カイトは胸元から石を外した。エナの前に置く。
くすんだ銀色。光を吸う。
「これを預かる」
「なぜ」
「お前が私の記憶を預かると言ったから。なら——これも預ける。石がなくても——お前が覚えていてくれるなら、私は私であり続けられる」
「でも、これがなければあなたは次の町で——」
「ルカに『もう石は使わない』と言う」
エナは息を呑む。
「彼は——」
「怒るだろう。だが、それでいい。私はもう、記憶を失ってまで恩を返す必要はない。自分で選ぶ。それが——ルカが私に与えたかった『空に上げるもの』という名前の意味だから」
カイトは右手を開く。何も持っていない。その手が微かに震えている。
「さっき、屋根で考えていた。母の顔を思い出そうとした。やっぱり無理だった。でも——」
彼は窓の外を見る。月が出ている。
「でも、思い出せなくても、悲しくなくなっていた。お前が『覚える』と言ったからだ。それだけで——違った」
エナは石を受け取った。冷たい。重い。
「ルカには内緒だ」
「なぜ」
「彼は私に石を使わせ続ける。それが私の生きる意味だと思っているから。でも——」
カイトははっきりと笑った。
「私の生きる意味は、今、変わった」
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エピローグ:空に上げるもの
翌朝。馬車。次の町へ。
ルカが帳面を広げている。「次の町はカーリング。小さいが——」
「ルカ」
カイトが遮った。初めて。ルカが顔を上げる。
「石を返す」
カイトが胸元を示す。そこには何もない。
ルカの顔色が変わる。「どういう——」
「もう使わない」カイトは淡々と言う。「あなたの恩は、もう十分返した。これからは——自分のために生きる」
長い沈黙。
ルカの指輪が回る。速い。止まらない。
やがて——ゆっくりと止まった。
「……勝手にしろ」
ルカの声は、驚くほど穏やかだった。
エナはその声を読もうとした。読めなかった。怒りでも安堵でもない。もっと別の——自分がようやく手放せる何かを、ルカもまた手放した——そんな響き。
「ルカ」
エナが言う。
「一つ、教えてください。記憶石は——どこから来るんですか」
ルカは窓の外を見た。長い間。
「……この世界のどこかに、『記憶の泉』がある。そこから採れる鉱石だ。ヴィクトールはその泉を——支配している」
「あなたは——」
「行けない。もう、あの場所は彼のものだ」
それが全てだった。
エナは問いを重ねなかった。
---
馬車の外。カイトが隣に座っている。目を閉じている。
「カイト」
「何だ」
「石、返すね」
「捨ててもいい」
「捨てない。あなたが自分で思い出せるようになるまで、預かっておく」
カイトが目を開ける。灰色の瞳に、朝の光が映る。
「……そうか」
「それと——本名、思い出せなかった時のために、新しい名前を考えておいた」
「何だ」
「『カイト』でいい。それがあなたの本名になる。何度忘れても、私が教える」
カイトは笑った。声を出して。短い。喉の奥で詰まったような笑い。それでも、笑いだった。
「……お前は、強い嘘つきだな」
「あなたこそ、弱い執行人ですね」
「そうかもな」
馬車が坂を越える。空が広がる。青い。どこまでも青い。
エナは石を握りしめる。
冷たい。重い。
これが、カイトの過去。カイトの記憶。カイトの——痛み。
「私、決めました」
「何を」カイトが聞く。
「私は『聖女』にはならない。『聖女かもしれません』のまま生きる。誰かのために嘘をつくとき——その嘘が本物になるまで、嘘をつき続ける。それが私のやり方です」
「……それで、誰が救われる」
「誰かは、わかりません」エナは笑う。「でも——少なくとも、私は救われました。あなたに出会えて」
カイトは何も言わなかった。代わりに——エナの頭を、軽く叩いた。
冷たい手。でも、確かにそこにある。
エナは靴底に伝わる感触を思う。
湿り。軋み。重さ。
生きてきた道。これから歩く道。
唇を噛む。鉄の味。
それが、生きている証明。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
この物語が、少しでも皆さまの心に残り、何か小さな余韻をお届けできていましたら、これほど嬉しいことはありません。
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どうぞよろしくお願いいたします。




