表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

虚飾の聖女と、影の執行人 〜嘘から始まる救世伝説〜

掲載日:2026/04/02

プロローグ:靴底が覚えていること


雨の市場。


エナは石畳の湿りを靴底で読んだ。滑る。油だ。魚の脂。新しい砂利が軋む。警戒の証。


標的は香辛料商人。右足が重い。客に背を向けた。今だ。


指が伸びた瞬間、冷たいものが手首を覆った。


体温がない。羊皮紙を擦り潰したような乾き。


「動くな」


声は雨音と同じ。起伏がない。


黒いフード。その奥、灰色の瞳。焼け跡の灰の色。


抵抗。無理。重心がぶれない。


泣き落とし。無駄。この目は百以上の涙を見過ごしている。


嘘。見抜かれる。


「プロだな」男が言った。「私もだ。無駄な手間を省かないか」


「……どこへ」


「話を聞く場所だ」


拘束は解かれなかった。だが「導き」に変わった。


エナは市場を見た。戻れなくなる。


唇を噛む。鉄の味。


それが、生きている証明。


——その「話を聞く場所」は、神殿の裏口だった。


---


神殿の裏口。


壁の石材が微かに震えている。人の息遣いに同調する。築三百年。エナは初めて、建物の「鼓動」を聞いた。


紫の法衣の男——ルカ——が椅子に沈んでいる。指に三つの指輪。薬指だけが無意識に回る。


「座れ」


エナは座らない。「用件を」


ルカが苦笑する。「東の辺境、ヴェルタ。三日後、町は沈む。病だ」


「で?」


「聖女になれ」


「作り方は?」


「知らなくていい」ルカがカイトを示す。「彼がやる。お前は立っていろ。美しく。哀しげに。そして嘘をつけ」


エナは手を見る。スリで節くれだった指。


「条件が三つ」


ルカの眉が動く。


「一つ。『聖女です』とは言わない。『聖女かもしれません』と言う」


「なぜだ」


「『です』は依存を産む。『かもしれません』は自分で歩かせる。誰かの最後を奪いたくない」


ルカの指輪が止まる。


「……二つ目は」


エナはカイトに向き直る。「あなたの光、使うたびに何を失う」


カイトの瞳に警戒が走る。


「答えない」


「なら、こうする」エナは言う。「私が覚える。あなたが忘れたもの。それが二つ目」


カイトは答えない。代わりに胸元を触る。硬い輪郭。


「……三つ目は」エナはルカに戻る。「成功したら、私は路地に戻る。それでいいなら——」


「面倒な娘だ」ルカが手を叩く。


その時、エナは違和感を覚えた。ルカの指輪の回る速度が変わった。緊張の癖ではない。これは——誰かを待つ癖。


彼は待っている。十年。戻ってこない誰かを。


エナは問いを呑んだ。それが三つ目の条件になった。


---


ヴェルタ。


馬車から降りた瞬間、エナは吐いた。何も出ない。胃が空だから。


鉄錆。甘い膿。湿った土。腐敗した果実の苦味。


「慣れろ」カイト。


「慣れるわけがない」


靴底で地面を読む。湿りすぎ。井戸水が溢れている。誰も汲みに来ていない。


扉の白い印。一つで病人。二つで死者。三つで一家全滅。


一本の通りで五軒。


「三分の一は終わった」とカイト。


彼は木箱を開ける。小瓶の薬草。底板の下に——銀色の液体。光を吸う。


「それを使うんだ」


「……読めるな」


「あなたが使うたびに記憶を失うことも知ってる」


カイトが初めて、真正面からエナを見た。


「……母の顔を忘れた」彼は言う。「三年前に。まだ探している」


エナは何も言えなかった。読めなかった。この男の痛みの深さを。


---


広場。百二十人。


エナは中央に立つ。白い法衣。銀の飾り環。重い。嘘の鎧。


「私は聖女では——」


「またか」嘲笑。痩せた男。「偽物かよ」


エナは足音を読む。期待している者——ゼロ。


その時。少女が倒れた。


熱で頬が赤い。母親の叫び。


エナは走る。膝をつく。頬に手を当てる。焼ける。


(どうする)


五年前。雪の路地。凍え死んだ女。あの時、笑って手を差し伸べた。嘘だった。


今、この子の手を握るのは——嘘か、本当か。


わからない。


ただ、怖がらせたくない。それだけは本当だ。


エナは笑った。計算ではない。


「大丈夫。ここにいるから」


背後の空気が変わる。松脂。硫黄。鉱物の匂い。


「見るな」カイトの声。「その子を見ろ」


白い光。地面から——エナの影の先端から。冷たい光。


三秒。


少女の呼吸が深まる。


エナが振り返る。カイトの指先が震えている。


「……何を忘れた」


カイトは空を見る。「……夕飯の味。もう思い出せない」


その時。


広場の端。一人だけ立つ男。鎧。兜。


騎士が兜を外す。四十代。目の下の隈が黒い。


「お前か」声は低い。「五年前、妻を殺したのは」


---


イスルギ——その名をエナは知らなかった。だが、彼の目を見て理解した。この男の中では、エナは既に「殺人犯」として定着している。


「お前の『親切』が妻を殺した」剣が抜かれる。「耳飾りをやったと言っていた。偽物だった」


エナは言うべき言葉を探した。だが——何も浮かばない。彼の言葉は正しい。あの夜、エナは笑って手を差し伸べ、警戒を奪い、財布を抜いた。女は凍えた。それが事実だ。


「黙り込んでも無駄だ」


「……あなたの妻は、最後に何と言いましたか」


イスルギの動きが止まった。


「何を——」


「私は知りたいのです」エナは膝をついた。泥が法衣を汚す。「彼女が最後に言った言葉を。あなたは聞いたはずです」


イスルギの拳が震える。


「……『あの子を責めないで』」彼は言った。声が割れた。「最期の言葉だ。お前をかばった。なぜだ——」


その瞬間、エナの中で何かがつながった。


女は気づいていた。財布を抜かれたことに。それでも「ありがとう」と言った。そして、夫に「あの子を責めないで」と遺した。


嘘つきのエナにさえ、優しさを向けられる女だった。


「あなたの妻は——」


「語るな」


剣が振り上げられる。


その時。


「待て」


カイトの声。彼はフードを脱いだ。初めて。顔が露わになる。彫りの深い、疲れた顔。


「あの光を見たか」カイトは言う。「あれは『記憶石』の光だ。神殿騎士なら知っているはずだ。あの光は——本物の感情にしか反応しない」


イスルギの目が揺れる。


「知っている」彼は言う。「ヴィクトール閣下の石だ」


「ならばわかるだろう。あの女の笑顔は本物だった。過去はどうあれ——今、彼女は変わった」


「それが——」


「あなたの妻が『責めるな』と言ったのも、同じことだ。過去ではなく、今を見ろと——そう言っている」


イスルギの剣が——数秒後——下ろされた。


鞘に収める音が、広場に響く。


「……町を出るまでに、ここを離れろ」


彼は振り返る。その背中は、復讐を捨てた男の背中ではなかった。復讐と向き合い、それを選び直した男の背中だった。


「なぜ——許したんですか」


エナの問いに、イスルギは足を止める。


「……自分にも、娘がいる」


それだけ言って、彼は去った。


エナはその背中を読もうとした。読めなかった。それが正しかった。読者が読むべきだから。


---


エナは泥の上で泣いた。


カイトが手を差し出す。


「立て」


「立てません」


「立て」


冷たい手。確かにある。


「カイト」


「何だ」


「あなたはさっき、『夕飯の味』と言った。でも——あなたは三年前に母の顔を忘れたと言った。時系列がおかしい」


カイトの動きが止まる。


「……お前は」彼は言う。「私が自分で気づいていない矛盾を読むのか」


「読めてなかった。今、気づいた」


「それで十分だ」


カイトの口元が——緩んだ。


それが彼の笑顔だと、エナは知った。


---


その夜。カイトは一人、宿の屋根に座っていた。


月が雲に隠れる。手の中には何もない。石はもう胸元にない。


遠くで、足音が聞こえた。複数。規則正しい。訓練された歩き方。


ヴィクトールの私兵だろう。次の町に向かっている。あるいは——ここを探している。


カイトは動かなかった。今、ここで戦う時ではない。


「……弱いな、俺は」


自分に言う。執行人なのに。記憶を失うのが怖くて石にすがっていた。恩を返すと称して、実は自分を守っていた。


「母さん」


声に出してみた。返事はない。当然だ。顔も思い出せない。声も聞いたことがない——いや、聞いている。忘れただけだ。


「もう、忘れてもいいんだ」


誰に言うでもなく。


「忘れても——誰かが覚えている」


風が吹く。冷たい。


足音は遠ざかる。今夜は——ただの通過。


---


宿。ランプの灯り。


カイトが戻ってくる。服に夜露がついている。


「どこに——」エナが言いかける。


「考えていた」カイトが座る。「お前の提案について」


「私の提案?」


「私の記憶を預かる——あれだ」


カイトは胸元から石を外した。エナの前に置く。


くすんだ銀色。光を吸う。


「これを預かる」


「なぜ」


「お前が私の記憶を預かると言ったから。なら——これも預ける。石がなくても——お前が覚えていてくれるなら、私は私であり続けられる」


「でも、これがなければあなたは次の町で——」


「ルカに『もう石は使わない』と言う」


エナは息を呑む。


「彼は——」


「怒るだろう。だが、それでいい。私はもう、記憶を失ってまで恩を返す必要はない。自分で選ぶ。それが——ルカが私に与えたかった『空に上げるもの』という名前の意味だから」


カイトは右手を開く。何も持っていない。その手が微かに震えている。


「さっき、屋根で考えていた。母の顔を思い出そうとした。やっぱり無理だった。でも——」


彼は窓の外を見る。月が出ている。


「でも、思い出せなくても、悲しくなくなっていた。お前が『覚える』と言ったからだ。それだけで——違った」


エナは石を受け取った。冷たい。重い。


「ルカには内緒だ」


「なぜ」


「彼は私に石を使わせ続ける。それが私の生きる意味だと思っているから。でも——」


カイトははっきりと笑った。


「私の生きる意味は、今、変わった」


---


エピローグ:空に上げるもの


翌朝。馬車。次の町へ。


ルカが帳面を広げている。「次の町はカーリング。小さいが——」


「ルカ」


カイトが遮った。初めて。ルカが顔を上げる。


「石を返す」


カイトが胸元を示す。そこには何もない。


ルカの顔色が変わる。「どういう——」


「もう使わない」カイトは淡々と言う。「あなたの恩は、もう十分返した。これからは——自分のために生きる」


長い沈黙。


ルカの指輪が回る。速い。止まらない。


やがて——ゆっくりと止まった。


「……勝手にしろ」


ルカの声は、驚くほど穏やかだった。


エナはその声を読もうとした。読めなかった。怒りでも安堵でもない。もっと別の——自分がようやく手放せる何かを、ルカもまた手放した——そんな響き。


「ルカ」


エナが言う。


「一つ、教えてください。記憶石は——どこから来るんですか」


ルカは窓の外を見た。長い間。


「……この世界のどこかに、『記憶の泉』がある。そこから採れる鉱石だ。ヴィクトールはその泉を——支配している」


「あなたは——」


「行けない。もう、あの場所は彼のものだ」


それが全てだった。


エナは問いを重ねなかった。


---


馬車の外。カイトが隣に座っている。目を閉じている。


「カイト」


「何だ」


「石、返すね」


「捨ててもいい」


「捨てない。あなたが自分で思い出せるようになるまで、預かっておく」


カイトが目を開ける。灰色の瞳に、朝の光が映る。


「……そうか」


「それと——本名、思い出せなかった時のために、新しい名前を考えておいた」


「何だ」


「『カイト』でいい。それがあなたの本名になる。何度忘れても、私が教える」


カイトは笑った。声を出して。短い。喉の奥で詰まったような笑い。それでも、笑いだった。


「……お前は、強い嘘つきだな」


「あなたこそ、弱い執行人ですね」


「そうかもな」


馬車が坂を越える。空が広がる。青い。どこまでも青い。


エナは石を握りしめる。


冷たい。重い。


これが、カイトの過去。カイトの記憶。カイトの——痛み。


「私、決めました」


「何を」カイトが聞く。


「私は『聖女』にはならない。『聖女かもしれません』のまま生きる。誰かのために嘘をつくとき——その嘘が本物になるまで、嘘をつき続ける。それが私のやり方です」


「……それで、誰が救われる」


「誰かは、わかりません」エナは笑う。「でも——少なくとも、私は救われました。あなたに出会えて」


カイトは何も言わなかった。代わりに——エナの頭を、軽く叩いた。


冷たい手。でも、確かにそこにある。


エナは靴底に伝わる感触を思う。


湿り。軋み。重さ。


生きてきた道。これから歩く道。


唇を噛む。鉄の味。


それが、生きている証明。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

この物語が、少しでも皆さまの心に残り、何か小さな余韻をお届けできていましたら、これほど嬉しいことはありません。


よろしければ、☆での評価やブックマーク、ご感想などをいただけますと、今後の創作の励みとなります。

どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ