第四章
余白に残った一行
夜は、都をやさしくする。
昼間、あれほど人の目を意識させていた道も、
暗くなると、形だけになる。
音が減り、距離が曖昧になる。
私は、用意された寝所で、仰向けに横になっていた。
天井は低く、梁が影を落としている。
眠れるはずだった。
身体は、疲れている。
それなのに、
目を閉じると、
昼の光景が、はっきりと戻ってくる。
道満の背中。
振り返らない歩き方。
それでも、私が遅れると、わずかに緩む歩調。
理由のない善意。
私は、胸の奥に残った違和感を、
言葉にしようとして、やめる。
言葉にした瞬間、
それが、
何かに変わってしまいそうだった。
外から、夜の音がする。
人の声。
遠くの足音。
どれも、
都の内側に、
きちんと収まっている。
私は、
その「収まりの良さ」に、
息苦しさを覚えた。
ふと、
現代の記憶が、
差し込んでくる。
閲覧室。
午後の光。
静かすぎる空気。
あの論文。
タイトルは、
今でも、はっきり思い出せる。
誰も引用していない。
誰にも、求められていない。
でも、
私は、
その論文を、
何度も読み返していた。
――正史は、守られた側の視点で書かれる。
あの一行。
赤線を引いたわけでもない。
付箋を貼ったわけでもない。
ただ、
視線が、
何度も、そこへ戻った。
――守られた側。
私は、
今日一日で、
その言葉の意味を、
身体で理解してしまった。
守られている場所では、
異物は、
見えないふりをされる。
排除されるわけでもない。
拒絶されるわけでもない。
ただ、
最初から数に入っていない。
布の上で、
私は、指を握る。
あのとき、
論文の余白に落ちた血。
白いはずの場所に、
小さく広がった赤。
私は、
なぜ、
あれを「余白」だと
はっきり認識していたのだろう。
余白とは、
書かなかった場所だ。
書けなかったのか。
書かなかったのか。
論文は、
その違いを、
説明していなかった。
ただ、
避けていた。
避けながら、
そこに、
確かに視線を向けていた。
――もし、
蘆屋道満が、
本当に悪だったのだとしたら。
あの論文は、
そう書いていた。
もし、
別の正しさに基づいていたのだとしたら。
私は、
その「もし」に、
引き寄せられた。
結論のない文章。
責任を引き受けない書き方。
指導教官は、
きっと言う。
「歴史じゃない」
でも、
私は、
思っていた。
これは、
歴史になる前の、
思考の形だ。
今、
この都で、
私が感じているものと、
よく似ている。
説明できない違和感。
名前をつけられない位置。
そして――
理由を持たない善意。
私は、
目を閉じる。
道満は、
私に、
何も説明しなかった。
それなのに、
私は、
説明を求めなかった。
そのことが、
少し、
怖い。
説明があれば、
距離を取れた。
理由があれば、
判断できた。
でも、
理由がないまま、
差し出されたものは、
返しようがない。
論文の最後のページを、
思い出す。
結論、と呼ぶには、
あまりにも弱い一文。
――正史に名が残らなかったことは、
――救わなかった証拠にはならない。
私は、
その一行を、
甘いと思っていた。
学問として、
無責任だと。
でも今は、
違う。
この都では、
救われたかどうかと、
書かれたかどうかは、
別の問題だ。
救われていても、
書かれない。
引き受けられていても、
残らない。
私は、
寝返りを打つ。
梁の影が、
少し、
位置を変える。
明日になれば、
また、
都は整う。
私がここにいる理由は、
誰にも説明されない。
でも――
私自身が、
その理由を、
探し始めている。
それが、
論文を読んでいた頃と、
決定的に違うところだった。
私は、
もう、
読む側ではない。
余白の中に、
立っている。
そう思った瞬間、
胸の奥で、
小さく、音がした。
戻れない、と。




