第一節 最終章
正史に名前のない人
朱い光は、
音を立てずに降りてきた。
炎ではない。
裁きでもない。
位置を正す光だ。
都の内側は、
すでに閉じている。
四神の気配が、
空を満たし、
人々の眠りを守っている。
安倍晴明は、
その中心にいた。
動かない。
揺れない。
正史に書かれるべき人の立ち方だった。
一方で――
都の外縁。
道満は、
そこに立っていた。
逃げない。
抗わない。
空を見上げることもしない。
足元に、
影が集まる。
百鬼夜行の残滓。
引き受けられたまま、
名を持たなかったものたち。
朱雀の光が、
それらを包む。
焼くのではない。
壊すのでもない。
重ねられていたものを、
一枚ずつ、
剥がしていく。
私は、
声を出さなかった。
呼ばなかった。
止めなかった。
それが、
彼の選択を、
否定しない唯一の方法だと、
わかっていたから。
道満は、
こちらを見なかった。
最後まで、
距離を保ったまま。
それでも、
口が、
わずかに動く。
音にはならない。
でも、
私は、
なぜか、
その言葉を知っていた。
――正しさって、
なんなんやろな。
朱い光が、
収束する。
夜は、
静かになる。
まるで、
最初から、
何もなかったみたいに。
都は、
守られた。
朝が来る。
人々は、
目を覚ます。
灯は戻り、
道は整えられ、
昨夜のことは、
夢として処理される。
正史は、
安倍晴明の名を書く。
四神。
鎮護。
平安。
そして――
蘆屋道満を、
悪としてだけ、
書く。
理由は、
書かれない。
選択も、
覚悟も、
引き受けたものも、
残らない。
私は、
それを、
見届けた。
だから、
ここに留まる理由は、
もう、
ない。
夜明け前、
川は、
静かだった。
水は、
冷たい。
でも、
迷いはない。
私は、
名を持たなかった人を、
正史に残らなかった人を、
愛しかけていた。
その事実だけが、
私を、
ここから、
遠ざける。
水に、
身体を預ける。
世界が、
反転する。
***
閲覧室は、
いつもと同じ匂いがした。
午後の光。
静かすぎる空気。
私は、
机に伏していた。
手の下には、
一篇の論文。
紙の端で、
指を切っている。
小さな傷。
血は、
もう、
出ていない。
論文には、
きちんと、
名前が書かれている。
――蘆屋道満。
都を惑わせし悪。
私は、
それを、
読み返す。
声は、
出さない。
涙も、
音を立てない。
正史は、
恋を記録しない。
それは、
きっと、
正しい。
だからこそ、
私は、
覚えている。
正史に名前のない人を。
選ばれなかった正しさを。
これは、
歴史を書き換える物語じゃない。
正史に書かれなかったものを、
忘れないための、
記憶の物語だ。
私は、
論文を閉じる。
指先に、
かすかな温度が残っている。
それだけで、
十分だった。




