第十一章
愛しかけている、ということ
夜が明けても、
言葉は、
そのまま残っていた。
――悪でええ。
耳に残るというより、
身体の奥に、
沈んでいる。
私は、
朝の支度をしながら、
何度も、
その言葉をなぞっていた。
意味を考えようとして、
やめる。
もう、
意味は、
理解してしまっている。
理解しているのに、
受け入れきれない。
その状態を、
どう呼べばいいのか、
わからない。
道満は、
いつもと変わらない。
声を荒げることもなく、
距離を詰めることもない。
私を見る目も、
昨日までと、
同じだ。
だからこそ、
私は、
違いを、
はっきりと意識してしまう。
変わったのは、
私だけだ。
都の中を歩く。
人の流れ。
灯の名残。
整った朝。
すべてが、
正しい位置に戻っている。
それが、
ひどく、
怖い。
この都は、
何度でも、
同じ朝を、
繰り返せる。
外で、
何が引き受けられても。
私は、
歩きながら、
ふと思う。
もし、
あの夜を知らなかったら。
もし、
論文を読んでいなかったら。
私は、
この朝を、
疑わなかった。
でも、
もう、
戻れない。
道満の背中が、
視界に入る。
距離は、
変わっていない。
それなのに、
意識だけが、
近づいてしまう。
触れたいわけじゃない。
呼びたいわけでもない。
ただ――
見失いたくない。
その感情に、
私は、
はっとする。
見失いたくない。
それは、
学問の言葉じゃない。
研究の動機でも、
好奇心でもない。
もっと、
個人的で、
説明しづらいもの。
私は、
足を止める。
自分の中で、
何かが、
形を取り始めている。
恋、
という言葉を、
私は、
まだ、
使いたくない。
恋は、
もう少し、
軽い。
相手を、
求めるものだ。
でも、
私が抱いているのは、
求める前に、
引き受けてしまう感情。
この人が、
どこに立つのか。
どんなふうに、
消えていくのか。
それを、
知ってしまった上で、
目を逸らせない。
それは、
恋よりも、
不器用で、
重たい。
私は、
気づいてしまう。
これ以上、
踏み込まなくても、
もう、
十分に、
近づいている。
「悪でいい」と言った人を、
私は、
拒めない。
理解してしまったからでも、
同情してしまったからでもない。
その選択を、
ひとつの在り方として、
受け取ってしまった。
それが、
いちばん、
危険だった。
道満が、
ふと、
立ち止まる。
「……どうした」
振り返らずに、
聞く。
私は、
一瞬、
言葉に詰まる。
「……なんでもないです」
嘘だった。
でも、
真実でもあった。
今は、
言葉にしてしまうと、
壊れる。
道満は、
それ以上、
聞かない。
私は、
歩き出す。
心の中で、
小さく、
名前を呼ぶ。
声には、
出さない。
名を呼ぶことは、
関係を、
決めてしまうから。
私は、
まだ、
その一線を、
越えない。
でも――
もう、
愛しかけている。
その自覚だけが、
朝の光の中で、
静かに、
残っていた。




