エピローグ
ー翡翠は風に揺れてー
夏の終わり、ひとつの大法要が静かに幕を下ろした。
千四百年を越えて積み重なった思念と、忘れられた魂たちの記憶。
それらと向き合った日々のあとに、遥たちはそれぞれの場所へと戻っていく。
ただ、静寂の中にすべてが眠ったわけではない。
風の向こうに、まだ誰かが、何かが、呼んでいる気がしてならなかった――。
夏の名残を含んだ風が、錫華寺の客室をそっと通り抜けていく。
大法要を終えたあと、住職に声をかけられた遥たちは、両親と祖父とともに客間へと案内された。
机の上には、仕出しの夕餉の御膳が、人数分きちんと並べられていた。
このひとときは、かつてこの寺で暮らしていた隼人について、住職から話を聞くために設けられたものだった。
「住職がいらっしゃるまで、しばらくお時間があります。どうぞ、先にお召し上がりになってお待ちください」
そう言って頭を下げたのは、永慧ではない若い僧だった。彼は礼儀正しく一礼すると、そのまま静かに部屋を後にした。
やがて皆が食事を終えた頃、住職が静かに部屋へ姿を現した。
「お忙しいところをお引き止めして、申し訳ありませんな。これからしばらく行事続きで、ゆっくりお話しする時間も取れそうにないものですから」
誰よりも疲れているはずの本人が、そう言って静かに座ると、しばし目を閉じ、そして口を開いた。
記憶の底から、ひとつひとつを慎重に手繰り寄せるように――静かな語りが始まった。
「私がこの寺に来たのは、七つの頃でした。いたずら好きの悪ガキでね、
叱られてばかりだったんです。そんな私を、いつも隼人さんがかばってくれましてね。……十七歳でお若かったんですが、とても大人びていて、優しい方でした」
ていねいに言葉を選びながら、住職は続けた。
「隼人さんは、こちらに来られる前から、霊感がとても強くて、よく体調を崩されていたそうです。ご両親が心配されて、しばらく錫華寺で預かることになった……そう聞いております」
当時はまだ幼かった住職だが、隼人の佇まいは今もなお、鮮やかに心に残っているという。
物静かで、誰に対しても気配りを忘れない人だったこと。
朝早くから中庭を掃き清める姿。
仏前に手を合わせる後ろ姿――
そんな断片的な記憶のひとつひとつが、語られるたびに、その場にふわりと立ち上がってくるようだった。
やがて、住職は一枚の写真を取り出した。
古いアルバムの中から見つけ、大きく現像して額に収めた隼人の姿。
住職は、その額を両手で抱え、祖父の前にそっと差し出した。
祖父は無言でそれを受け取り、しばしじっと見つめたのち、ゆっくりと額縁に手を伸ばした。
縁に沿ってなぞる指先が、わずかに震えている。
「兄さん……いままで思い出さずにいて、すまんかったな……おかえり」
その低く小さな声には、長い年月と、胸に秘めた想いが滲んでいた。
郷土資料館の小さな食堂では、ささやかな慰労会が開かれていた。
集まっていたのは、遥、由里、美和、そして久賀の四人。
中村にも声をかけてはいたが、「若い人たちで楽しみなさい」と、笑って遠慮された。
閉店後の食堂のテーブルに並べられていたのは、コンビニで買ってきたジュースとお菓子、そしてスーパーの総菜コーナーで調達したお寿司――この夜の主役ともいえる、ささやかなごちそうだった。
気心の知れた四人が机を囲む空気は、あたたかく、どこか肩の力が抜けるような心地よさに満ちていた。
「来年の一月から、真志袮環濠遺跡のエリアCで発掘調査が始まる」
と、久賀がふと思い出したように言う。
「よかったら、君たちもボランティアとして参加してみないか?」
遥は迷わず、「はいっ」と元気に答えた。
真志袮の一件をきっかけに、こうして研究の現場に声をかけてもらえるようになったことが、ただただ嬉しいのだ。
その横で、由里が肩をすくめて笑う。
「私は……オカルト現象が起きたら、そのとき参加します」
全員が思わず吹き出した。
「オカルトねぇ……でもまた遥ちゃんが、なにかすごい夢でも見てくれるかもね」
と、美和が冗談っぽく言う。
「地層って新しい順に掘っていくからさ。どの時代のどの情景が、遥さんに“ヒット”するのか、ちょっと楽しみではあるね」
と、久賀がポテトチップスをつまみながら言葉を継ぐ。
遥はというと、お菓子をほっぺたいっぱいに詰め込んで、リスのような顔で笑っている。
――どうやら本人には、自分が特別なことをしているという自覚は、あまりないようだ。
どこか他人事のような反応で、のんびりとしている。
――真志袮環濠遺跡のエリアCかぁ……楽しみやなぁ~
遥は今も、そんなふうにのんきなことを考えていた。
明日から新学期が始まる。
今年は、由里の手助けのおかげで宿題も早々に片づき、徹夜することもなく、遥は久しぶりに穏やかな夜を味わっていた。
ー由里、さまさまやん…
枕を抱えながら、ベッドの上でゴロゴロしているうちに、いつのまにか眠りに落ちていた。
***
見覚えはない――けれど、どこか懐かしい風景の中に、遥は立っていた。
歴史ある民家が立ち並ぶ住宅街。
舗装されていない道は、踏み固められた土のぬくもりを足裏に伝えてくる。
あたりはしんと静まり返り、やわらかな風が頬を撫でていく。
ふと前方に、自転車を押して歩く青年の姿が見えた。
――お兄ちゃん!
遥はそう思い、夢中で駆け出す。
けれど、不思議なことに、いくら走ってもその背中には近づけなかった。
まるで、時の狭間に隔てられているかのように。
やがて青年は、一軒のとりわけ立派な門構えの民家の前で足を止め、木製の引き戸をガラガラと開けた。
その音に続いて、家の中から小さな足音がパタパタと響いてくる。
「にいさん、おかえり!」
裸足のまま玄関を飛び出してきたのは、まだ幼い男の子。
青年はその子をやさしく抱き上げると、そっと微笑んだ。
「ただいま、隼二」
その光景は、夢のように淡く、けれど確かに遥の心に刻まれていった。
――そして、ふと気づく。
門の脇、梅の木の枝に絡まるようにして、小さな翡翠のネックレスがぶらさがっていた。
風に揺れて、かすかに光っている。
まるで、それが何かを呼んでいるかのように――。
考古学少女の記憶譚「時の砂に眠る声編」を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
もし心に残るものがあれば、スキやフォローしていただけると嬉しいです。
次の投稿の励みになります。




