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時の砂に眠る声―考古学少女の記憶譚―  作者: tomsugar


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19/20

錫杖の音が導く解放

― 読経とともに鎖を断つとき ―


禁足地に立ちこめる空気が、ふいに変わった。

それは、言葉にできないほどの重さと、張り詰めた静寂。

静かに響く読経の声が、森の深奥へと吸い込まれていく中、遥は息をのんだ。

――来る。

夢の中で何度も見た、あの気配。

千四百年のあいだ鎧をまとい、祠の奥にとどまり続けていた魂が、

ついに姿を現そうとしていた。

そして、森がうねるようにざわめいたその瞬間、

怒りに染まった気配が、地を揺るがすように現れた。


           *


荒ぶる真志袮(ましね)と、読経の波が激しくぶつかり合う。

読経に押されていたはずの真志袮(ましね)が、突如として勢いを取り戻し、怒りのままに一気に攻勢を仕掛けてきた。


鋭く伸びたその手が、住職の喉元へと迫った――

その刹那、遥の声が響いた。

「やめて!」

真志袮(ましね)の動きがわずかに止まる。


――届いている。遥は直感した。

「あなたが守ろうとしていた郷は、もうどこにもありません。

敵も、もういません。どうか……目を覚ましてください!」


遥の声はかすかに震えていたが、その言葉には揺るぎない想いが宿っていた。

握りしめた数珠は、じんわりと温もりを帯びている。

この緊迫した状況の中でも、彼―隼人―の気配は変わらず穏やかで、やさしさに満ちていた。


住職の読経が、ひときわ強く響き渡る。それは真志袮(ましね)を包み込もうとする祈りの波――

だが真志袮(ましね)もまた、怒りの気迫で押し返していた。


静と動。鎮めと拒絶。

両者の力が、空間そのものをゆがめるように激しく拮抗していた。


その時――

「シャリン」


台座の錫杖(しゃくじょう)が、ひとりでに揺れ、音を鳴らした。

その音は、そこにいた全員の耳に届いた。


真志袮(ましね)の表情が、一瞬こわばる。

その怒りが、戸惑いと恐れに変わっていった。

読経の声がさらに力を帯び、真志袮(ましね)は思わず一歩、後ろへとひるんだ。

その身を包むように渦巻いていた、どす黒い気配がざわめき、揺らいでいる。

動揺ははっきりと形となって現れ、まるで何かが彼女を縛る手を緩めたかのようだった。

やがて、読経の合間に、まったく異なる調べが混ざり始める。

それは住職たちの読経とは異なる旋律を持ちながらも、不思議と響き合い、まるで共鳴し合う音のセッションのように空間に広がっていった。

遥が気づく。左手側に――いつの間にか、ひとりの僧が立っていた。


慧常(えじょう)だった。


彼の読経が、真志袮(ましね)の身を包んでいた黒い気配を、まるで結び目をほどくように、ひとつずつ静かに消していった。

そして最後に――

彼女の手に握られていた錫杖(しゃくじょう)が、ふっと淡い光となり、音もなく消えていった。

「この錫杖(しゃくじょう)が、そなたをここに繋ぎとめてしまったのだな……許せ」

慧常(えじょう)がそう言ったように聞こえた。


真志袮(ましね)のミズラはほどけ、濡れていた鎧もそのまま霧のように消えていく。

そこに残ったのは、柔らかな表情をした、一人の若い女性だった。

彼女は慧常(えじょう)の姿をまっすぐに見つめ、ほっとしたように涙を浮かべて微笑んだ。

その表情には、懐かしい人と再び巡り会えた歓びと、長いあいだ背負ってきたものから解き放たれた安堵がにじんでいた。

その微笑みは、まるで時をさかのぼり、遠い昔の穏やかな日々に立ち返ったかのようだった。


森の木々の隙間からは、柔らかな光が静かに差し込んでいた。

真志袮(ましね)は、細やかな光の粒となって舞い上がり、森の空へと静かに広がっていった。


           *


読経が終わると、住職がぽつりとつぶやいた。


「……どなたか、別の方のお経の声が聞こえたような気がしましたが……」


遥は静かに応じる。

慧常(えじょう)さまです」

住職は目を見開き、それから深く頭を垂れた。

「……なんと、なんと、もったいないこと……」

そう言って、祭壇に向かってもう一度、深々と合掌し、黙礼を捧げた。

やがて顔を上げ、遥の方を振り向いて問う。

真志袮(ましね)さんは、無事に上がられましたかな?」

遥は小さく頷いて答えた。

「にっこり笑った後。光の粒になって、消えていきました」

住職は安堵の息を吐くように言った。

「……あぁ、それはよかった……ほんとうによかった……」

ふと周囲を見渡すと、最初にいた六人の僧のうち、立っていたのは二人だけ。

残る四人は倒れており、そのそばに、青ざめた顔で呆然と立ち尽くす永慧(えいせい)の姿があった。

住職は、倒れた僧のもとへ静かに歩み寄り、短く祈るように経を唱えた。

その後、永慧(えいせい)に持たせていた茶を取り出し、周囲の僧たちに一人ずつ手渡していく。

湯気の立つその茶を口にした僧たちは、やがて朦朧(もうろう)としていた意識が次第に澄みはじめ、しばらくすると自力で立ち上がり、歩けるほどに回復していった。


           *


禁則地の柵の門を出ると、そこには由里が立っていた。

「遥っ! 無事でよかった……!」

そう叫んで、勢いよく抱きついてくる。

「由里、ここに来てくれてたん? 雨、すごかったやろ?」

遥がそう聞くと、由里は目を潤ませながら首を振った。

「こっちは全然降ってへんよ。森の上だけ嵐みたいになってて……めっちゃ心配しててん。……見て」

そう言って指さした先、地面を見ると、禁足地の周辺の地面だけが濡れていた。

「ほんまや!ヤバ!」

遥がいつもの調子でそう返すと、由里が涙をぬぐいながらツッコんだ。

「なんなん、その反応、軽すぎるで……」

その言葉に、遥は思わず吹き出した。

「なんで泣いてるんよー」

すると由里も、泣き笑いの顔で笑い返す。


ふと、遥の目に映ったのは、川面の向こうに広がる田んぼの景色。

その奥を、白い衣をまとい、髪を後ろで束ねた女性が、軽やかに駆け抜けていくのが見えた。



清らかな川の流れの音、風に揺れる稲穂の香り。

馬の背にまたがり軽やかに走る女性の姿は、まるで長い鎖から解き放たれた魂が、自由を謳い上げるようだった。

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