荒ぶる魂、臨界の地
―読経と怒りが交わる刻―
静けさのなかに、僧たちの読経が重なり始める。
それは千四百年の時を越えて、いまなお祈り続けられる儀式。
大法要の最終日、遥は住職とともに禁足地に立っていた。
右手には、夢の中で受け取った数珠。
そして祠の奥には、名を呼ばれることを待ち続けていた、
ひとりの魂がいた――
キラキラときらめく川面。清流の中を、魚がすいすいと泳いでいる。さわやかな風が吹き抜ける、心地よい河原に、遥は座っていた。
気づけば、隣には隼人がいた。
「きれいなところだろ」
「うん、めっちゃきれい……」
川の向こうにある集落からは、あちこちで細い煙が上がっている。朝餉の支度だろうか。
「向こうの村に、行ってみたいな」
そう言って遥が立ち上がると、隼人が微笑んで言った。
「試してみるかい? たぶん、無理だと思うよ」
「無理って、どういうこと?」
首をかしげながら川に一歩踏み出した、その瞬間――
目の前の光景が、ふっと消えた。
8月27日――大法要の最終日。
今日が最後の日。
この日は、各地の末寺から多くの僧侶が錫華寺に集まり、「合同読経」が荘厳に営まれる。
本堂の扉は固く閉ざされており、参拝者はもちろん、檀家でさえ中に入ることは許されていなかった。
公には案内されていないが、実のところこの合同読経は、真志袮の祠へと向かった住職・秀靖らを霊的に支える――いわば、静かな援護のための儀式だったからだ。
それでも、境内には足を運ぶことができるため、朝から多くの信者が詰めかけていた。 風に揺れる五色幕の下、僧たちの読経が低く深く、境内に満ちていく。
***
そのころ――
住職・秀靖と遥は、寺を離れ、川辺の平野部へと向かっていた。
そこはかつて祠が建てられていた場所であり、今は禁則地となっている。
秀靖の後ろには、補佐の僧6名と、若い僧・永慧の姿があった。
その一角には、仮設の小さな祭壇が組まれ、特別にしつらえられた台座には、錫杖が静かに立てかけられていた。
「永慧、おまえは一番後ろで見てなさい。それ以上、近づいたらあかんよ」
住職の声は穏やかだったが、その奥には緊張の色が宿っていた。
「……はい」
永慧は真剣な面持ちで応えた。背筋が自然と伸びている。
「さ、遥さん――行きましょうか」
住職の表情には、決意の色がにじんでいた。
遥は右手に握った数珠を見つめ、ひとつ深く息を吐いた。
そのころ、遥を追ってきた由里は、禁足地の柵の外まで来ていた。自転車を柵の横に停めて、遠巻きにその場を見つる。心配そうに、何かを祈るように胸の前で手を握りしめていた。
***
一方、錫華寺の境内。
白い簡易テントの一角に、遥の祖父小川 隼二の姿があった。
彼は初日から毎日、欠かさず法要に参列していた。
この日も変わらず、まっすぐ本堂の方に向き合い、両手を合わせて静かに祈っている。
「……無事に帰ってきてくれよ、遥。兄さん頼むで」
しわ深い手が、そっと数珠を握った。
遥が向かったのは、かつて兄・隼人が命を落とした、あの場所だった。
どうか、戻ってきてほしい。
その祈りだけが、風もない境内の空に、静かに立ち上っていった。
***
真志袮の祠では、住職たちの読経が始まった。
遥は、住職の右斜め後ろに静かに立っている。空気は湿り気を帯び、辺りには重い静けさが流れていた。
やがて住職が懐から折りたたまれた一枚の和紙を取り出し、祭壇に置いた。そこに記された名を一人ずつ読み上げていく。
それは『錫華寺縁起』に記されていた、真志袮とその部隊員の名だった。
「真志袮の――」
住職がそう口にした瞬間、空気がぴたりと止まり、森の大木がざわりと大きく揺れた。
遥は、どこかに真志袮の姿を探していたが、まだその姿は現れていない。
湿った風が吹き抜け、読経を続ける僧たちの衣をはためかせた。
まるでこの供養を拒むかのような気配があった。
その時、地の底から響くような轟音が近づいてきた。
ゴウッ、と唸るような音に続き、突然の激しい雨が森を叩き始めた。
線香もろうそくも吹き消されてしまうほどの豪雨。
住職は読経を止めることなく、手早くそれらを祭壇の下に移し、再び灯りをともした。
遥は戦慄していた。
――川が、あふれている。
今にもこの場が水に呑まれるような感覚に襲われる。
そのとき、右肩にふと温もりを感じた。
「大丈夫だよ。しっかりするんだ」
隼人が、そこにいた。
やさしい声とともに、彼は微笑んで遥の肩に手を置いていた。
次の瞬間、一人の僧が、ばたりと気を失って倒れた。
しかし誰も動じることなく、読経は続いていく。
そのときだった――
遥の目の前に、川の濁流に呑まれていく真志袮たちの姿が一瞬、現れた。
叫びも抵抗も届かぬまま、その光景は水底へと消えていった。
静寂が訪れたかと思ったその刹那、
ずぶ濡れの姿で真志袮がそこに現れた。
右手には錫杖。
濡れた髪を振り払うこともなく、怒りを宿した目で立ち尽くしていた。
「許さぬ……許さぬ……」
声なき叫びが、彼女の内から溢れ出ていた。
濡れた髪、こわばる指先――そのすべてが、怒りと憎しみに染まっていた。
住職は何かを感じ取ったのか、読経の声をひときわ強く響かせる。
怒りと悲しみ、二つの感情が荒れ狂うように場を包み込む。
怒りが渦を巻くその場で、読経の響きはなおも続いていた。
だがその中心で、遥は確かに感じていた――真志袮の奥底に、揺らぎが生まれはじめていることを。
この手で、言葉で、まだ届くかもしれない。
その一瞬を信じて、遥は前へと歩みを進めた。




